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第二部八章 使者
遺恨と因縁
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「しかし――」
光秀が口にした答えに、それまで鼻に指を当てて考え込んでいた昌幸が、ぽつりと呟く。
「“御内書にて仰せつけられた件の進捗が思うように進まず”とは……つまり、越後側は当家との和睦を進める気があるという事でしょうか?」
「……今の時点では、何とも言えぬな」
昌幸の問いに、義信が眉間に皺を寄せながら、首を横に振った。
「今日に至るまでの我らと越後側との遺恨や因縁を考えれば、如何に覚慶様からの御内書が到来したからといっても、二つ返事で承知するとは思えぬ。しかし……」
「なんだかんだで、もう十二年になりまするか……」
義信に続いて、信廉がしみじみと言う。
「奥信濃の地を巡って、我らと越後勢が初めて刃を交わしてから……」
「ああ……」
信廉の言葉に、信繁が小さく頷いた。
――武田家によって居城の葛尾城 (現在の長野県埴科郡坂城町)を逐われた村上義清の要請に応じた長尾景虎 (当時)と武田晴信が初めて戦ったのは、天文二十二年 (西暦1553年)の事である。
それ以降、武田と長尾……後の上杉は、北信濃の川中島を主な舞台として、幾度も戦った。
もっとも大規模な激突は、言うまでもなく永禄四年 (西暦1561年)に起こった八幡原の戦いだ。
あの戦いで、武田軍は、軍師を務めていた山本勘助晴幸、信虎時代から武田家に仕え、勇将と称えられた諸角豊後守虎定、若年ながら優れた才を持ち、将来を嘱望されていた初鹿野源五郎忠次をはじめとして数多の将兵を失った。
信繁自身も、村上義清隊の猛攻によって瀕死の重傷を負い、まる二年もの間、昏睡し続けていたのだ。
「……随分と長い付き合いになったものだな」
そう言いながら、信繁は眼帯の上から盲いた右目に触れる。彼の右面を縦に切り裂き、右目の視力を奪った刀傷も、八幡原の戦いの際に負ったものである。
そして、その傷を隠す眼帯を信繁に勧めたのは――、
――『……うん、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?』――
「……いかがなされましたか、典厩様?」
「あ……いや、何でもござらぬ、若殿」
あの夜――柔らかな掌で自分の右目を隠しながら、息のかかる近さで囁きかけた美しい顔を思い出していた信繁は、義信がかけた声で我に返り、慌てて首を横に振った。
そんな彼に怪訝そうな目を向けた義信だったが、気を取り直すように頷くと、再び昌幸に向かって話を続ける。
「そう……逍遥様の仰った通り、我らと越後は、もう十二年も争い続けている。その結果、我らは多大な犠牲を引き換えにしたものの、奥信濃をほぼ掌中に収める事が出来た」
そう言った義信は、「しかし……」と続けた。
「一方の越後勢は、十二年の間に払った犠牲と労力に比して、得られた物はあまりにも少ない。……いや、皆無と言っても良いかもしれぬ」
「確かに……」
義信の言葉に、昌幸も同意する。
「我らの払った犠牲も少なくありませぬが、越後勢も負けず劣らずのはず。なのに、向こうは殆ど領土を広げられていない……」
「領土を失った村上や高梨を助けるという“義”に酔って采配を振るう弾正少弼殿自身はともかく、下で戦わせられる将兵にとっては、たまったものではないでしょうなぁ」
信廉が、苦笑しながら言った。
「何せ、どんなに戦っても知行は増えず、戦費の負担ばかりが嵩んでいく訳ですから」
「信濃だけではなく、越中や関東へも毎年のように出兵してますしね……」
昌幸も、信廉の言葉に頷く。
――と、
「そうか……」
ふたりのやり取りに耳を傾けていた信繁が、ハッとした様子で隻眼を見張る。
「ならば……当主はともかく、将兵たちの間には、これまでの遺恨以上に我らとの戦いに対する不満や厭戦の気が広がっているのかもしれぬ。で、あれば――」
「ええ」
信繁の言葉に、義信は小さく首を縦に振った。
「さすがの弾正少弼殿も、将兵が抱く不平不満を無視は出来ますまい。そう考えれば、これまでの遺恨や因縁を擲って、覚慶様からの和睦勧奨を呑む可能性も無きにしも非ずかと」
「確かに……」
義信の言葉に、信繁も納得する。
と、
「――そのあたりの真意を確認すべく、武田様の御返答をお伺いした後に越後へ向かうつもりです」
落ち着いた声で光秀が言った。
それを聞いた信繁は、少し驚きながら、「老婆心ながら……」と彼に忠告する。
「他国から来られた明智殿は御存じないかもしれぬが、今頃越後と信濃の国境は深い雪で閉ざされておる。甲斐から越後へ向かうのは、かなり難儀な事だと思うが……」
「御心配頂き、恐悦に存じます」
光秀は、信繁の言葉にニコリと微笑むと、「ですが」と軽く頭を振った。
「御心配には及びませぬ。以前に居りました越前もかなり雪深い土地でしたから、雪には慣れております」
そう答えると、彼は信玄の方に目を向ける。
「という訳ですので、なるべく早く、覚慶様の御内書に対する武田様の御返事を頂きとう御座ります」
「……分かっておる」
光秀の催促に対し、ぶっきらぼうに答えた信玄は、信繁の方をちらりと一瞥してから、言葉を継いだ。
「……だが、今すぐには無理だ。典厩や太郎たちの意見も聞いてから、改めて返事をする事にいたす。今日のところは退室願いたい」
「……畏まりました」
信玄の言葉に対し、表情を変えぬまま、光秀は深々と頭を下げ、それからすっくと立ち上がる。
そして、居並ぶ面々の顔を見回しながら、静かな声で言った。
「御言葉に従い、今日のところはここで退出する事に致しましょう。――次のお目通りの際には、色よい御返事を頂ける事を期待しております。――それでは、失礼いたします」
光秀が口にした答えに、それまで鼻に指を当てて考え込んでいた昌幸が、ぽつりと呟く。
「“御内書にて仰せつけられた件の進捗が思うように進まず”とは……つまり、越後側は当家との和睦を進める気があるという事でしょうか?」
「……今の時点では、何とも言えぬな」
昌幸の問いに、義信が眉間に皺を寄せながら、首を横に振った。
「今日に至るまでの我らと越後側との遺恨や因縁を考えれば、如何に覚慶様からの御内書が到来したからといっても、二つ返事で承知するとは思えぬ。しかし……」
「なんだかんだで、もう十二年になりまするか……」
義信に続いて、信廉がしみじみと言う。
「奥信濃の地を巡って、我らと越後勢が初めて刃を交わしてから……」
「ああ……」
信廉の言葉に、信繁が小さく頷いた。
――武田家によって居城の葛尾城 (現在の長野県埴科郡坂城町)を逐われた村上義清の要請に応じた長尾景虎 (当時)と武田晴信が初めて戦ったのは、天文二十二年 (西暦1553年)の事である。
それ以降、武田と長尾……後の上杉は、北信濃の川中島を主な舞台として、幾度も戦った。
もっとも大規模な激突は、言うまでもなく永禄四年 (西暦1561年)に起こった八幡原の戦いだ。
あの戦いで、武田軍は、軍師を務めていた山本勘助晴幸、信虎時代から武田家に仕え、勇将と称えられた諸角豊後守虎定、若年ながら優れた才を持ち、将来を嘱望されていた初鹿野源五郎忠次をはじめとして数多の将兵を失った。
信繁自身も、村上義清隊の猛攻によって瀕死の重傷を負い、まる二年もの間、昏睡し続けていたのだ。
「……随分と長い付き合いになったものだな」
そう言いながら、信繁は眼帯の上から盲いた右目に触れる。彼の右面を縦に切り裂き、右目の視力を奪った刀傷も、八幡原の戦いの際に負ったものである。
そして、その傷を隠す眼帯を信繁に勧めたのは――、
――『……うん、右目の傷は隠した方が良いな。眼帯でも付けたらどうだ……?』――
「……いかがなされましたか、典厩様?」
「あ……いや、何でもござらぬ、若殿」
あの夜――柔らかな掌で自分の右目を隠しながら、息のかかる近さで囁きかけた美しい顔を思い出していた信繁は、義信がかけた声で我に返り、慌てて首を横に振った。
そんな彼に怪訝そうな目を向けた義信だったが、気を取り直すように頷くと、再び昌幸に向かって話を続ける。
「そう……逍遥様の仰った通り、我らと越後は、もう十二年も争い続けている。その結果、我らは多大な犠牲を引き換えにしたものの、奥信濃をほぼ掌中に収める事が出来た」
そう言った義信は、「しかし……」と続けた。
「一方の越後勢は、十二年の間に払った犠牲と労力に比して、得られた物はあまりにも少ない。……いや、皆無と言っても良いかもしれぬ」
「確かに……」
義信の言葉に、昌幸も同意する。
「我らの払った犠牲も少なくありませぬが、越後勢も負けず劣らずのはず。なのに、向こうは殆ど領土を広げられていない……」
「領土を失った村上や高梨を助けるという“義”に酔って采配を振るう弾正少弼殿自身はともかく、下で戦わせられる将兵にとっては、たまったものではないでしょうなぁ」
信廉が、苦笑しながら言った。
「何せ、どんなに戦っても知行は増えず、戦費の負担ばかりが嵩んでいく訳ですから」
「信濃だけではなく、越中や関東へも毎年のように出兵してますしね……」
昌幸も、信廉の言葉に頷く。
――と、
「そうか……」
ふたりのやり取りに耳を傾けていた信繁が、ハッとした様子で隻眼を見張る。
「ならば……当主はともかく、将兵たちの間には、これまでの遺恨以上に我らとの戦いに対する不満や厭戦の気が広がっているのかもしれぬ。で、あれば――」
「ええ」
信繁の言葉に、義信は小さく首を縦に振った。
「さすがの弾正少弼殿も、将兵が抱く不平不満を無視は出来ますまい。そう考えれば、これまでの遺恨や因縁を擲って、覚慶様からの和睦勧奨を呑む可能性も無きにしも非ずかと」
「確かに……」
義信の言葉に、信繁も納得する。
と、
「――そのあたりの真意を確認すべく、武田様の御返答をお伺いした後に越後へ向かうつもりです」
落ち着いた声で光秀が言った。
それを聞いた信繁は、少し驚きながら、「老婆心ながら……」と彼に忠告する。
「他国から来られた明智殿は御存じないかもしれぬが、今頃越後と信濃の国境は深い雪で閉ざされておる。甲斐から越後へ向かうのは、かなり難儀な事だと思うが……」
「御心配頂き、恐悦に存じます」
光秀は、信繁の言葉にニコリと微笑むと、「ですが」と軽く頭を振った。
「御心配には及びませぬ。以前に居りました越前もかなり雪深い土地でしたから、雪には慣れております」
そう答えると、彼は信玄の方に目を向ける。
「という訳ですので、なるべく早く、覚慶様の御内書に対する武田様の御返事を頂きとう御座ります」
「……分かっておる」
光秀の催促に対し、ぶっきらぼうに答えた信玄は、信繁の方をちらりと一瞥してから、言葉を継いだ。
「……だが、今すぐには無理だ。典厩や太郎たちの意見も聞いてから、改めて返事をする事にいたす。今日のところは退室願いたい」
「……畏まりました」
信玄の言葉に対し、表情を変えぬまま、光秀は深々と頭を下げ、それからすっくと立ち上がる。
そして、居並ぶ面々の顔を見回しながら、静かな声で言った。
「御言葉に従い、今日のところはここで退出する事に致しましょう。――次のお目通りの際には、色よい御返事を頂ける事を期待しております。――それでは、失礼いたします」
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