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第二部八章 使者
是と非
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「……」
足利覚慶からの使者である光秀が部屋を辞すのを見届けた信玄は、控えていた曽根昌世に目配せをする。
「はっ」
目配せひとつで主の意図を見抜いた昌世は、深く頭を下げてから立ち上がり、昌幸の事を手招きした。
「……喜兵衛。お前もだ」
「拙者もで御座りますか、曽根様?」
「当たり前であろう」
不服そうな態度を見せる昌幸に呆れ顔を浮かべながら、昌世は言う。
「これより先は、お屋形様と御一門衆にしか立ち入れぬ大事なお話だ。いかに典厩様付きの与力であるお前でも、聞く事は罷りならぬ。我らは部屋の外で、何者もこの部屋に近付かぬよう見張るのだ」
「……畏まり申した」
昌世の言葉に、昌幸はしぶしぶといった様子で頷いた。
そして、
「……それでは、これにて失礼いたします」
と、信玄たちに向かって軽く頭を下げてから立ち上がり、昌世の後に続いて敷居を跨ぐ。
そして、部屋の外の様子を窺って、余人がいないか確認したふたりは、並んで板張りの廊下に膝をついて信玄たちに軽く頭を下げ、静かに襖を閉めた。
「……さて」
襖が閉ざされた事で薄暗くなった部屋の中で、信玄が口を開いた。
「今ので、大体の事情は分かったか、典厩?」
「……はい」
信玄に問いかけられた信繁は、小さく頷く。
「某が美濃で戦っている間に、斯様な事になっていたとは……正直驚き申した」
「儂もだ」
信繁の答えに、信玄も苦笑を浮かべた。
「松平の籠る岡崎城を今川軍と共に囲んでおった儂の元に、突然あの御内書が送りつけられてきた時は驚いたぞ。何せ、今の京には将軍は居らぬはずなのだからな。てっきり、公方様が三好三人衆によって殺されたという話が法螺だったのかと思うたわい」
「……だが、それは公方様の御舎弟であらせられる覚慶様からのものだった――」
陣中で驚く信玄の様子を想像して、一瞬口元を綻ばせた信繁だったが、すぐに真顔に戻って、指を顎に当てる。
「他家と相争う事を止め、合力して前の公方様を弑逆した三好家を打ち滅ぼすべし……と」
「ああ」
信繁の言葉に、信玄は少し顔を顰めながら頷いた。
「……その為に、越後の長尾と和睦せよとの仰せだ」
そう苦々しげに言った信玄は、小さく息を吐く。
「典厩……お主の考えはどうだ?」
信玄は、信繁の顔をじっと見据えながら、低い声で尋ねた。
「我が武田家は、覚慶様の御内書に従うべきか、否か……」
「……」
信玄の問いかけに軽く目を閉じた信繁は、指で顎髭を撫でながら、少しの間考え込む。
そして、再び目を開けると、隻眼で信玄の目を見返し、
「――従うが宜しいかと」
と頷いた。
彼の返事を聞いた信玄は、口をへの字に曲げて「むう……」と唸るが、それ以上は何も言わない。
「――その心は?」
代わりに、義信が叔父に尋ねた。
それに対し、信繁は軽く頷きながら、静かに口を開く。
「現在、武田家が敵対している勢力は三つ。美濃の斎藤、三河の松平、そして越後の上す……長尾。……それに加えて、近い将来には尾張の織田とも事を構える事となりましょう」
「ええ、遠からぬうちにそうなるでしょうね」
義信も、信繁の言葉に同意を示した。
信繁は、自分の話を黙って聞いている信玄の憮然とした顔をちらりと一瞥して、更に話を続ける。
「斎藤と松平、そして織田は皆、我らから見て西側に居りますが、それに対して、越後は北です」
彼は、真剣な表情で自分の言葉を聴いている義信と、軽く目を閉じて黙ったままの信玄の顔を見回した。
「つまり……現在の我らは、西と北に戦力を割かざるを得ない状況にあります。そして……現在我らが手を伸ばそうとしているのは――」
「もちろん……美濃。西です」
「左様」
義信の答えに、信繁は軽く頷く。
――彼の言葉の通り、今の武田家の戦略に『越後に攻め込み、領土化する』という選択肢は無かった。
……いや、そもそも、奥信濃を巡って長尾景虎と争い始めた頃から、信玄は越後領内へ攻め込むなどという考えを持った事など無かったのである。
彼にとっては、川中島での上杉軍との十二年にも及ぶ戦いは、どちらかというと『一度得た領地を外敵から守る』防衛戦に近い認識なのだ。
それは、奥信濃経営の要地である海津城に、攻め戦より守備戦に長じている香坂弾正虎綱を据えている事からも明らかであろう。
今の信玄――武田家の目は、明確に西へと向いている。
その意志を行動に移したのが、今回の美濃攻めである。
「此度の戦では、木曽川東岸の烏峰城と久々利城を奪いました。それは確かに、出陣前の軍議で予め取り決めていた所期目的の通りではありますが、贅沢を言えば、烏峰城下で安藤守就軍を打ち破ったそのままの勢いで大井戸の渡しから木曽川を渡り、川の西岸まで掌握したかったところです」
そう言った信繁は、残念そうな表情を浮かべた。
「……ですが、あの時の我が方は、安藤軍との衝突による疲労と損耗の為に、そこまで出来る程の余力はありませんでした。――もし、今少し我が方の兵力に余裕があれば、先ほど申した通りの戦果を挙げる事が出来たはずです」
「そうは言うても……」
信玄が、憮然としながら口を挟んだ。
「あの時は、美濃攻めに加えて、今川家の松平攻めの援軍の為に兵力を割かねばならぬ状況であった。それでも、出来うる限り最大の兵力をお主に割り振ったつもりだが……」
「それは十分に分かっておりますし、文句を言うつもりも毛頭御座いません」
不機嫌になる信玄に、苦笑いを浮かべながら首を横に振った信繁は、「されど――」と続ける。
「もし仮に、北信濃の守りの為に割かねばならぬ将兵を美濃攻めにつぎ込めたならば、木曽川を越えて一気に稲葉山城まで迫る事も出来たのではないか……と」
「……なるほど」
それまで黙って話を聞いていた義信が、信繁の発言の意図を悟って、小さく頷いた。
「つまり……典厩様は、越後と和議を結ぶ事で北方面の安全を確保し、それで浮いた兵を西の斎藤攻めにつぎ込むべき……そうお考えなのですね」
「然り」
義信の言葉に、信繁は首を大きく縦に振ったのだった。
足利覚慶からの使者である光秀が部屋を辞すのを見届けた信玄は、控えていた曽根昌世に目配せをする。
「はっ」
目配せひとつで主の意図を見抜いた昌世は、深く頭を下げてから立ち上がり、昌幸の事を手招きした。
「……喜兵衛。お前もだ」
「拙者もで御座りますか、曽根様?」
「当たり前であろう」
不服そうな態度を見せる昌幸に呆れ顔を浮かべながら、昌世は言う。
「これより先は、お屋形様と御一門衆にしか立ち入れぬ大事なお話だ。いかに典厩様付きの与力であるお前でも、聞く事は罷りならぬ。我らは部屋の外で、何者もこの部屋に近付かぬよう見張るのだ」
「……畏まり申した」
昌世の言葉に、昌幸はしぶしぶといった様子で頷いた。
そして、
「……それでは、これにて失礼いたします」
と、信玄たちに向かって軽く頭を下げてから立ち上がり、昌世の後に続いて敷居を跨ぐ。
そして、部屋の外の様子を窺って、余人がいないか確認したふたりは、並んで板張りの廊下に膝をついて信玄たちに軽く頭を下げ、静かに襖を閉めた。
「……さて」
襖が閉ざされた事で薄暗くなった部屋の中で、信玄が口を開いた。
「今ので、大体の事情は分かったか、典厩?」
「……はい」
信玄に問いかけられた信繁は、小さく頷く。
「某が美濃で戦っている間に、斯様な事になっていたとは……正直驚き申した」
「儂もだ」
信繁の答えに、信玄も苦笑を浮かべた。
「松平の籠る岡崎城を今川軍と共に囲んでおった儂の元に、突然あの御内書が送りつけられてきた時は驚いたぞ。何せ、今の京には将軍は居らぬはずなのだからな。てっきり、公方様が三好三人衆によって殺されたという話が法螺だったのかと思うたわい」
「……だが、それは公方様の御舎弟であらせられる覚慶様からのものだった――」
陣中で驚く信玄の様子を想像して、一瞬口元を綻ばせた信繁だったが、すぐに真顔に戻って、指を顎に当てる。
「他家と相争う事を止め、合力して前の公方様を弑逆した三好家を打ち滅ぼすべし……と」
「ああ」
信繁の言葉に、信玄は少し顔を顰めながら頷いた。
「……その為に、越後の長尾と和睦せよとの仰せだ」
そう苦々しげに言った信玄は、小さく息を吐く。
「典厩……お主の考えはどうだ?」
信玄は、信繁の顔をじっと見据えながら、低い声で尋ねた。
「我が武田家は、覚慶様の御内書に従うべきか、否か……」
「……」
信玄の問いかけに軽く目を閉じた信繁は、指で顎髭を撫でながら、少しの間考え込む。
そして、再び目を開けると、隻眼で信玄の目を見返し、
「――従うが宜しいかと」
と頷いた。
彼の返事を聞いた信玄は、口をへの字に曲げて「むう……」と唸るが、それ以上は何も言わない。
「――その心は?」
代わりに、義信が叔父に尋ねた。
それに対し、信繁は軽く頷きながら、静かに口を開く。
「現在、武田家が敵対している勢力は三つ。美濃の斎藤、三河の松平、そして越後の上す……長尾。……それに加えて、近い将来には尾張の織田とも事を構える事となりましょう」
「ええ、遠からぬうちにそうなるでしょうね」
義信も、信繁の言葉に同意を示した。
信繁は、自分の話を黙って聞いている信玄の憮然とした顔をちらりと一瞥して、更に話を続ける。
「斎藤と松平、そして織田は皆、我らから見て西側に居りますが、それに対して、越後は北です」
彼は、真剣な表情で自分の言葉を聴いている義信と、軽く目を閉じて黙ったままの信玄の顔を見回した。
「つまり……現在の我らは、西と北に戦力を割かざるを得ない状況にあります。そして……現在我らが手を伸ばそうとしているのは――」
「もちろん……美濃。西です」
「左様」
義信の答えに、信繁は軽く頷く。
――彼の言葉の通り、今の武田家の戦略に『越後に攻め込み、領土化する』という選択肢は無かった。
……いや、そもそも、奥信濃を巡って長尾景虎と争い始めた頃から、信玄は越後領内へ攻め込むなどという考えを持った事など無かったのである。
彼にとっては、川中島での上杉軍との十二年にも及ぶ戦いは、どちらかというと『一度得た領地を外敵から守る』防衛戦に近い認識なのだ。
それは、奥信濃経営の要地である海津城に、攻め戦より守備戦に長じている香坂弾正虎綱を据えている事からも明らかであろう。
今の信玄――武田家の目は、明確に西へと向いている。
その意志を行動に移したのが、今回の美濃攻めである。
「此度の戦では、木曽川東岸の烏峰城と久々利城を奪いました。それは確かに、出陣前の軍議で予め取り決めていた所期目的の通りではありますが、贅沢を言えば、烏峰城下で安藤守就軍を打ち破ったそのままの勢いで大井戸の渡しから木曽川を渡り、川の西岸まで掌握したかったところです」
そう言った信繁は、残念そうな表情を浮かべた。
「……ですが、あの時の我が方は、安藤軍との衝突による疲労と損耗の為に、そこまで出来る程の余力はありませんでした。――もし、今少し我が方の兵力に余裕があれば、先ほど申した通りの戦果を挙げる事が出来たはずです」
「そうは言うても……」
信玄が、憮然としながら口を挟んだ。
「あの時は、美濃攻めに加えて、今川家の松平攻めの援軍の為に兵力を割かねばならぬ状況であった。それでも、出来うる限り最大の兵力をお主に割り振ったつもりだが……」
「それは十分に分かっておりますし、文句を言うつもりも毛頭御座いません」
不機嫌になる信玄に、苦笑いを浮かべながら首を横に振った信繁は、「されど――」と続ける。
「もし仮に、北信濃の守りの為に割かねばならぬ将兵を美濃攻めにつぎ込めたならば、木曽川を越えて一気に稲葉山城まで迫る事も出来たのではないか……と」
「……なるほど」
それまで黙って話を聞いていた義信が、信繁の発言の意図を悟って、小さく頷いた。
「つまり……典厩様は、越後と和議を結ぶ事で北方面の安全を確保し、それで浮いた兵を西の斎藤攻めにつぎ込むべき……そうお考えなのですね」
「然り」
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