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第二部八章 使者
侵攻と兵数
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「正直――」
信繁は、先ほどから憮然とした顔で黙りこくっている信玄の顔を一瞥してから、言葉を継ぐ。
「此度の御内書があろうと無かろうが、越後との和与は成すべきだと、某は考えております」
「覚慶様の御内書関係無しに……ですか?」
「ああ」
意外そうな声を挙げる信廉に、信繁は頷いた。
「先ほども申したように、今後の美濃攻略の為には、もっと多くの兵が必要だ。此度の美濃攻めを経て、そう痛感した」
「……此度の戦では、兵を二手に分けております」
信繁の言葉に対して、義信が声を挙げる。
「美濃に攻め込んだ典厩様が率いた一万余と、三河の松平を攻める今川軍への援軍として、お屋形様と私が率いた五千……」
そう言った義信は、信繁に向けて尋ねた。
「仮に、今回分けた兵力を合わせた、約一万五千で美濃を攻めたならば……木曽川の東のみならず、斎藤家の本城である稲葉山城を落とす事も出来たでしょうか?」
「……いや」
信繁は、義信の問いかけに小さく首を横に振る。
「確かにあの時、五千の兵が手許にあれば、大井戸の渡しを越えて更に斎藤領を切り取る事は出来たでしょう。……しかし、あの稲葉山城を落とすには数が少なすぎましょう」
「でしょうなぁ……」
腕組みしながら信繁の答えに頷いたのは、信廉だった。
「美濃の稲葉山城といえば、急峻な金華山全体に縄張りを巡らせた、天下に名が轟くほどの堅城ですからな。一万五千程度の兵では、落とすどころか、城を囲むのも一苦労かと」
「……恐らくな」
信繁は、信廉の言葉に同意しつつも、「とはいえ」と言葉を継いだ。
「――城を落とすのには、必ずしも兵数が必要という訳でも無いがな……」
「つい先ほどまでここに居た男が、昨年実際にやったように、ですかな?」
「ああ」
頭の片隅に竹中半兵衛の顔を思い浮かべながら尋ねる信廉に、信繁は小さく頷き、「それに……」と続ける。
「たとえ首尾よく城を落とせたとしても、こちら側にも相応の損耗が生じるであろうし、周囲の支城にも兵を割かねばならぬ。一万五千から損耗分と支城に回す分を引いた兵数で、その後も占領を維持するのは難しかろう」
「昨年の竹中半兵衛とは違い、我らは稲葉山城一城のみを守っておれば良い訳ではありませぬしな」
そう言いながら、信廉は苦笑を浮かべた。
――と、
「……だから、再び美濃を攻める際に兵をより多く回せるよう、越後と和議を結べと申すのだな、お前は」
それまでずっと沈黙していた信玄が、ようやく口を開く。
彼の言葉に表情を引き締め、それから「はい」と静かに答えた信繁は、信玄の仏頂面を見つめながら言った。
「……お屋形様も、そうお考えでは?」
「……」
信繁の問いかけに、信玄は黙ったままで僅かに顔を顰める。だが、その反応こそが、彼の答えを雄弁に語っていた。
そのまま、おもむろにこめかみに指を当てて大きく息を吐いた信玄は、砂を噛むような声でぽつぽつと話し始める。
「悔しいが……お前の申す通りだ、典厩。今のままでは、兵が足らぬのは明らかだ」
「……」
「無論、今の兵数のままでも、敵の勢力を着実に切り崩していけば、いずれは斎藤龍興を討ち果たして美濃を制する事が出来よう。……だが、それにはかなりの時間を要す……」
そう言ったところで、彼は手で口を押さえ、乾いた咳をした。
「「「お屋形様……」!」」」
「……案ずるな」
血相を変えて腰を浮かしかけた三人を制した信玄は、懐から取り出した懐紙で口元と掌を丹念に拭き取ってから、しわがれた声で話を続ける。
「四年……いや、今後の情勢の変化次第では、下手をしたら十年はかかるかもしれぬ。……ひょっとしたら、美濃全土を掌握する前に儂の寿命が尽きる方が早いかもしれんな」
「……!」
「だが……もし、首尾よく越後との和睦が成り、奥信濃に置いている兵と香坂弾正をはじめとした将たちを美濃攻めに回せるようになれば、もっと早く……一、二年で美濃を平らげる事が可能であろう」
そう言った信玄は、つと眉を顰めた。
「だが……和睦は片一方の意向だけで成り立つものではない。確かに、今越後と和を結ぶ事は、我らにとって利が大きいが……あの景虎めが、おとなしく同意すると思うか?」
「それは……」
信玄に問われ、信繁は一瞬言い淀む。
その脳裏に、あの時の――善光寺の宿坊でのやり取りが浮かんだ。
互いに酒を酌み交わした美しい顔を思い返し、微かに胸を波打たせながら、小さく首を縦に振る。
「……確かに、“おとなしく”とはいかぬかもしれませぬが、取りつく島もなく拒絶する事は無いでしょう。こちらの交渉次第で、十分に目があるかと」
「む……」
信繁の答えに、信玄は眉間へ皺を寄せながら、微かに唸った。
……ただし、『自分の考えとは違う答えが気に食わないというより』は、『自分でも薄々察しながら、それでも認めたくないと思っていた事を口に出されて面白くない』という感じである。
そんな父の横顔をチラリと見た義信が、おずおずと口を挟んだ。
「問題は……どこまで弾正少弼――景虎が条件面で折れるかでしょう。さすがに“奥信濃の割譲”などと要求されては、和睦するどころの話ではありません」
「それどころか、“信濃全土を放棄せよ”まで言いかねませんなぁ」
義信に続いて、信廉が冗談半分で言う。
それに対して、「さすがにそこまでは……」と苦笑いを浮かべる義信だったが、(あの上杉輝虎なら、本当に言い出しかねぬな……)という一抹の不安が頭を過ぎり、頬を引きつらせるのだった……。
信繁は、先ほどから憮然とした顔で黙りこくっている信玄の顔を一瞥してから、言葉を継ぐ。
「此度の御内書があろうと無かろうが、越後との和与は成すべきだと、某は考えております」
「覚慶様の御内書関係無しに……ですか?」
「ああ」
意外そうな声を挙げる信廉に、信繁は頷いた。
「先ほども申したように、今後の美濃攻略の為には、もっと多くの兵が必要だ。此度の美濃攻めを経て、そう痛感した」
「……此度の戦では、兵を二手に分けております」
信繁の言葉に対して、義信が声を挙げる。
「美濃に攻め込んだ典厩様が率いた一万余と、三河の松平を攻める今川軍への援軍として、お屋形様と私が率いた五千……」
そう言った義信は、信繁に向けて尋ねた。
「仮に、今回分けた兵力を合わせた、約一万五千で美濃を攻めたならば……木曽川の東のみならず、斎藤家の本城である稲葉山城を落とす事も出来たでしょうか?」
「……いや」
信繁は、義信の問いかけに小さく首を横に振る。
「確かにあの時、五千の兵が手許にあれば、大井戸の渡しを越えて更に斎藤領を切り取る事は出来たでしょう。……しかし、あの稲葉山城を落とすには数が少なすぎましょう」
「でしょうなぁ……」
腕組みしながら信繁の答えに頷いたのは、信廉だった。
「美濃の稲葉山城といえば、急峻な金華山全体に縄張りを巡らせた、天下に名が轟くほどの堅城ですからな。一万五千程度の兵では、落とすどころか、城を囲むのも一苦労かと」
「……恐らくな」
信繁は、信廉の言葉に同意しつつも、「とはいえ」と言葉を継いだ。
「――城を落とすのには、必ずしも兵数が必要という訳でも無いがな……」
「つい先ほどまでここに居た男が、昨年実際にやったように、ですかな?」
「ああ」
頭の片隅に竹中半兵衛の顔を思い浮かべながら尋ねる信廉に、信繁は小さく頷き、「それに……」と続ける。
「たとえ首尾よく城を落とせたとしても、こちら側にも相応の損耗が生じるであろうし、周囲の支城にも兵を割かねばならぬ。一万五千から損耗分と支城に回す分を引いた兵数で、その後も占領を維持するのは難しかろう」
「昨年の竹中半兵衛とは違い、我らは稲葉山城一城のみを守っておれば良い訳ではありませぬしな」
そう言いながら、信廉は苦笑を浮かべた。
――と、
「……だから、再び美濃を攻める際に兵をより多く回せるよう、越後と和議を結べと申すのだな、お前は」
それまでずっと沈黙していた信玄が、ようやく口を開く。
彼の言葉に表情を引き締め、それから「はい」と静かに答えた信繁は、信玄の仏頂面を見つめながら言った。
「……お屋形様も、そうお考えでは?」
「……」
信繁の問いかけに、信玄は黙ったままで僅かに顔を顰める。だが、その反応こそが、彼の答えを雄弁に語っていた。
そのまま、おもむろにこめかみに指を当てて大きく息を吐いた信玄は、砂を噛むような声でぽつぽつと話し始める。
「悔しいが……お前の申す通りだ、典厩。今のままでは、兵が足らぬのは明らかだ」
「……」
「無論、今の兵数のままでも、敵の勢力を着実に切り崩していけば、いずれは斎藤龍興を討ち果たして美濃を制する事が出来よう。……だが、それにはかなりの時間を要す……」
そう言ったところで、彼は手で口を押さえ、乾いた咳をした。
「「「お屋形様……」!」」」
「……案ずるな」
血相を変えて腰を浮かしかけた三人を制した信玄は、懐から取り出した懐紙で口元と掌を丹念に拭き取ってから、しわがれた声で話を続ける。
「四年……いや、今後の情勢の変化次第では、下手をしたら十年はかかるかもしれぬ。……ひょっとしたら、美濃全土を掌握する前に儂の寿命が尽きる方が早いかもしれんな」
「……!」
「だが……もし、首尾よく越後との和睦が成り、奥信濃に置いている兵と香坂弾正をはじめとした将たちを美濃攻めに回せるようになれば、もっと早く……一、二年で美濃を平らげる事が可能であろう」
そう言った信玄は、つと眉を顰めた。
「だが……和睦は片一方の意向だけで成り立つものではない。確かに、今越後と和を結ぶ事は、我らにとって利が大きいが……あの景虎めが、おとなしく同意すると思うか?」
「それは……」
信玄に問われ、信繁は一瞬言い淀む。
その脳裏に、あの時の――善光寺の宿坊でのやり取りが浮かんだ。
互いに酒を酌み交わした美しい顔を思い返し、微かに胸を波打たせながら、小さく首を縦に振る。
「……確かに、“おとなしく”とはいかぬかもしれませぬが、取りつく島もなく拒絶する事は無いでしょう。こちらの交渉次第で、十分に目があるかと」
「む……」
信繁の答えに、信玄は眉間へ皺を寄せながら、微かに唸った。
……ただし、『自分の考えとは違う答えが気に食わないというより』は、『自分でも薄々察しながら、それでも認めたくないと思っていた事を口に出されて面白くない』という感じである。
そんな父の横顔をチラリと見た義信が、おずおずと口を挟んだ。
「問題は……どこまで弾正少弼――景虎が条件面で折れるかでしょう。さすがに“奥信濃の割譲”などと要求されては、和睦するどころの話ではありません」
「それどころか、“信濃全土を放棄せよ”まで言いかねませんなぁ」
義信に続いて、信廉が冗談半分で言う。
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