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第二部八章 使者
和睦と条件
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「まあ……」
信廉の軽口に苦笑いを浮かべながら、信繁が口を開く。
「向こうがあまり無理を言ってくるようなら、覚慶様に直接申し上げて、取り成して頂けば良い。今回、甲斐と越後を和睦させようとしておるのは、他ならぬ覚慶様なのだからな」
「まあ……それは確かに」
信繁の言葉に、義信も同意した。
……と、
「――八年前の二の舞になるかもしれぬぞ」
「む……」
ぽつりと信玄が漏らした声を聞いて、信繁は表情を曇らせる。
「八年前というと……永禄元年 (西暦1558年)の和睦ですか?」
「ああ」
信繁の問いに、信玄は眉間に深い皺を寄せながら、小さく頷いた。
――実は、武田家と上杉家が和睦を結ぶのは、此度が初めてではない。
弘治元年 (西暦1555年)に起こった二度目の会戦――いわゆる“第二次川中島合戦”の際には、犀川を挟んで二百日以上も睨み合った末に、駿河の国主である今川義元の仲介によって和睦している。
だが、その和睦は、信濃全土を掌握したい武田晴信と、武田家によって信濃を逐われた信濃守護・小笠原長時や葛尾城主・村上義清らの旧領回復を目指す長尾景虎の両者の思惑がぶつかり合う事ですぐに破れ、僅か二年後の弘治三年 (西暦1557年)に、三度川中島で戦った。
その際、当時の征夷大将軍・足利義輝が両家に御内書を送りつけて命じる形で、翌年に成立したのが――今信繁が口にした『永禄元年の和睦』である。
「あの時の――」
当時の事を思い出して、信玄は顔を顰めた。
「八年前の和睦の内容は、明らかに越後寄りだった」
「あの時の事は、良く覚えております」
信廉も、信玄の言葉に頷いた。
「最初に来た御内書を一読したお屋形様が、鬼の形相で御内書を投げ捨てたのを……」
「その場で火鉢に放り込んで燃やさなかっただけマシだ」
苦笑している信廉に渋面を向けた信玄は、苦々しげに言い捨て、それから「……もっとも」と続ける。
「当時の前公方様 (義輝)は、三好長慶によって京を逐われていたから、御自身の勢力を回復させる為に景虎の上洛を切望していた。大方、その弱みに付け込んで、景虎が色々と要求を吊り上げたのであろうな」
そう言うと、信玄は気を落ち着かせるように息を吐き、更に言葉を継いだ。
「……結局、あの時は、儂を信濃守護職に任ずるのと、太郎を准三管領格として扱う事を認めて頂く形で越後との和議に応じた。だが……誓紙の墨も乾かぬうちに景虎が再び奥信濃に攻め込んできた事で、和議は有名無実化したのだ」
その時の事を思い出し、忌々しげに唇を噛む信玄。そんな父の顔を心配そうに見ながら、義信が尋ねる。
「確か……あの時、お屋形様は嘆願書を前公方様の元に送ったのですよね?」
「ああ」
義信の問いに小さく頷いた拍子に少し咳き込んだ信玄は、懐から取り出した新しい懐紙で口元を拭き取ってから言葉を継いだ。
「和議を破った景虎の狼藉を伝え、出兵を止めるよう取り成して頂く為にな。だが……返ってきたのは、儂の要請に対する了承の返事ではなく、それとは真逆の……儂が信濃に兵を出す事の方を咎める詰問状だった」
そう低い声で言った信玄は、感情を抑えるように拳をぐっと握り込む。
「さすがに訳が分からなかったわ。信濃守護である儂が信濃を治める為に兵を出す事を、何故に咎められねばならぬのか……」
「しかも、景虎が信濃に兵を出す理由のひとつは、『信濃守護職を逐われた小笠原長時の復権の為』ですからな」
信玄の言葉に頷きながら、信繁が言った。
「そんな名分を掲げる長尾景虎の肩を持つという事は、お屋形様を信濃守護に任じた前公方様の差配を御自身で否定する事に等しい……」
「その通りだ」
当時の怒りを思い出して顔を紅潮させた信玄が、大きな溜息を吐きながら首肯する。
「無論、詰問に納得できなかった儂は、陳弁書を認めて公方様に送った。……だが、それに対する満足な返事は無く、それどころか……翌年に上洛した景虎に、七つもの特権をお与えになった」
信玄の言う『七つもの特権』とは、巷で言うところの『上杉の七免許』の事である。
『上杉の七免許』とは、上洛した砌に足利義輝が長尾景虎 (当時)に与えたもので、「屋形号の使用許可」「五七桐紋の使用許可」「裏書御免」などの、通常では許されない数々の特権を認め、長尾家の権威を高めるものだった。
その中でも、信玄が最も認め難かったのが、「景虎の上杉家家督相続」とそれに付随する「関東管領職の継承」であった。
関東管領職は関東十国の守護職の上位職であり、甲斐はそのうちの一国に含まれる。
つまり、長尾景虎が上杉憲政の養子となって上杉家を継ぐ事で、必然的に甲斐守護職の武田晴信は景虎の下に就く事になるのだ。信玄にとっては、到底受け入れられない。
現在に至るまで、信玄が上杉輝虎の事を“長尾景虎”と呼び続けているのは、彼が輝虎の関東管領職就任を絶対に認めないという意志の表れなのである。
「……それだけではない」
ふつふつと沸き上がる怒りで握った拳を震わせながら、信玄は続けた。
「公方は、信濃国衆の扱いについても、景虎に意見する権利があると認めたのだ。……つまり、信濃守護である儂を差し置いて、景虎めが実質的に信濃を治められるという事だ!」
そう忌々しげに叫んだ信玄は、怒りに任せて床に拳を叩きつける。
息子や弟とはいえ、普段は冷静な信玄が家臣の前でここまで感情を露わにする事は珍しく、信繁たちは思わず息を呑んだ。
だが、床に拳を打ちつけた痛みで多少は怒りが和らいだのか、信玄は血が滲む拳を擦りながら、先ほどよりも落ち着いた口調で言葉を継ぐ。
「……正直、如何に景虎が他国の大名よりも先んじて京に馳せ参じたとはいえ、何故公方様があ奴にあれほどの厚遇をしたのかは分からぬ。分からぬが……」
そう言った信玄は、その目を一層鋭くさせた。
「覚慶様が、前公方様と同様に長尾寄りの立場をとるのであれば、此度の和議の提案を受け入れる訳にはいかぬ。――断じて、な」
信廉の軽口に苦笑いを浮かべながら、信繁が口を開く。
「向こうがあまり無理を言ってくるようなら、覚慶様に直接申し上げて、取り成して頂けば良い。今回、甲斐と越後を和睦させようとしておるのは、他ならぬ覚慶様なのだからな」
「まあ……それは確かに」
信繁の言葉に、義信も同意した。
……と、
「――八年前の二の舞になるかもしれぬぞ」
「む……」
ぽつりと信玄が漏らした声を聞いて、信繁は表情を曇らせる。
「八年前というと……永禄元年 (西暦1558年)の和睦ですか?」
「ああ」
信繁の問いに、信玄は眉間に深い皺を寄せながら、小さく頷いた。
――実は、武田家と上杉家が和睦を結ぶのは、此度が初めてではない。
弘治元年 (西暦1555年)に起こった二度目の会戦――いわゆる“第二次川中島合戦”の際には、犀川を挟んで二百日以上も睨み合った末に、駿河の国主である今川義元の仲介によって和睦している。
だが、その和睦は、信濃全土を掌握したい武田晴信と、武田家によって信濃を逐われた信濃守護・小笠原長時や葛尾城主・村上義清らの旧領回復を目指す長尾景虎の両者の思惑がぶつかり合う事ですぐに破れ、僅か二年後の弘治三年 (西暦1557年)に、三度川中島で戦った。
その際、当時の征夷大将軍・足利義輝が両家に御内書を送りつけて命じる形で、翌年に成立したのが――今信繁が口にした『永禄元年の和睦』である。
「あの時の――」
当時の事を思い出して、信玄は顔を顰めた。
「八年前の和睦の内容は、明らかに越後寄りだった」
「あの時の事は、良く覚えております」
信廉も、信玄の言葉に頷いた。
「最初に来た御内書を一読したお屋形様が、鬼の形相で御内書を投げ捨てたのを……」
「その場で火鉢に放り込んで燃やさなかっただけマシだ」
苦笑している信廉に渋面を向けた信玄は、苦々しげに言い捨て、それから「……もっとも」と続ける。
「当時の前公方様 (義輝)は、三好長慶によって京を逐われていたから、御自身の勢力を回復させる為に景虎の上洛を切望していた。大方、その弱みに付け込んで、景虎が色々と要求を吊り上げたのであろうな」
そう言うと、信玄は気を落ち着かせるように息を吐き、更に言葉を継いだ。
「……結局、あの時は、儂を信濃守護職に任ずるのと、太郎を准三管領格として扱う事を認めて頂く形で越後との和議に応じた。だが……誓紙の墨も乾かぬうちに景虎が再び奥信濃に攻め込んできた事で、和議は有名無実化したのだ」
その時の事を思い出し、忌々しげに唇を噛む信玄。そんな父の顔を心配そうに見ながら、義信が尋ねる。
「確か……あの時、お屋形様は嘆願書を前公方様の元に送ったのですよね?」
「ああ」
義信の問いに小さく頷いた拍子に少し咳き込んだ信玄は、懐から取り出した新しい懐紙で口元を拭き取ってから言葉を継いだ。
「和議を破った景虎の狼藉を伝え、出兵を止めるよう取り成して頂く為にな。だが……返ってきたのは、儂の要請に対する了承の返事ではなく、それとは真逆の……儂が信濃に兵を出す事の方を咎める詰問状だった」
そう低い声で言った信玄は、感情を抑えるように拳をぐっと握り込む。
「さすがに訳が分からなかったわ。信濃守護である儂が信濃を治める為に兵を出す事を、何故に咎められねばならぬのか……」
「しかも、景虎が信濃に兵を出す理由のひとつは、『信濃守護職を逐われた小笠原長時の復権の為』ですからな」
信玄の言葉に頷きながら、信繁が言った。
「そんな名分を掲げる長尾景虎の肩を持つという事は、お屋形様を信濃守護に任じた前公方様の差配を御自身で否定する事に等しい……」
「その通りだ」
当時の怒りを思い出して顔を紅潮させた信玄が、大きな溜息を吐きながら首肯する。
「無論、詰問に納得できなかった儂は、陳弁書を認めて公方様に送った。……だが、それに対する満足な返事は無く、それどころか……翌年に上洛した景虎に、七つもの特権をお与えになった」
信玄の言う『七つもの特権』とは、巷で言うところの『上杉の七免許』の事である。
『上杉の七免許』とは、上洛した砌に足利義輝が長尾景虎 (当時)に与えたもので、「屋形号の使用許可」「五七桐紋の使用許可」「裏書御免」などの、通常では許されない数々の特権を認め、長尾家の権威を高めるものだった。
その中でも、信玄が最も認め難かったのが、「景虎の上杉家家督相続」とそれに付随する「関東管領職の継承」であった。
関東管領職は関東十国の守護職の上位職であり、甲斐はそのうちの一国に含まれる。
つまり、長尾景虎が上杉憲政の養子となって上杉家を継ぐ事で、必然的に甲斐守護職の武田晴信は景虎の下に就く事になるのだ。信玄にとっては、到底受け入れられない。
現在に至るまで、信玄が上杉輝虎の事を“長尾景虎”と呼び続けているのは、彼が輝虎の関東管領職就任を絶対に認めないという意志の表れなのである。
「……それだけではない」
ふつふつと沸き上がる怒りで握った拳を震わせながら、信玄は続けた。
「公方は、信濃国衆の扱いについても、景虎に意見する権利があると認めたのだ。……つまり、信濃守護である儂を差し置いて、景虎めが実質的に信濃を治められるという事だ!」
そう忌々しげに叫んだ信玄は、怒りに任せて床に拳を叩きつける。
息子や弟とはいえ、普段は冷静な信玄が家臣の前でここまで感情を露わにする事は珍しく、信繁たちは思わず息を呑んだ。
だが、床に拳を打ちつけた痛みで多少は怒りが和らいだのか、信玄は血が滲む拳を擦りながら、先ほどよりも落ち着いた口調で言葉を継ぐ。
「……正直、如何に景虎が他国の大名よりも先んじて京に馳せ参じたとはいえ、何故公方様があ奴にあれほどの厚遇をしたのかは分からぬ。分からぬが……」
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