甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ

朽縄咲良

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第二部九章 慶事

企み事と理由

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 ――だが、
 それから四半刻 (約三十分)も経たぬうちに、

「母上ぇ~……」

 と、すっかり弱り顔になった綾が、信繁の部屋の襖を勢いよく開けて飛び込んできた。

「おう、なんだ、綾。四郎たちの相手はどうした?」
「……小用を足しに行くと言って抜けてきました」

 躑躅ヶ崎館に参る為、大紋に着替えていた信繁の問いかけにバツ悪げに答えた綾は、大きな溜息を吐いてから、夫の着付けを手伝っていた桔梗に懇願する。

「もう、あやひとりでたつ姉様たちのお相手をするのは限界です。母上、早く戻ってきてください」
「あらあら」

 娘の弱音に、桔梗は怪訝な顔をした。

「一体どうしたのですか? 向こうで何か問題でも起こりましたか?」
「まさか……」

 信繁の差料を捧げ持って控えていた昌幸が、不吉な予感を抱いて表情を曇らせる。

「四郎様と龍様が、仲違いを……?」
「い、いえ、そうではなくって……」

 昌幸の言葉にかぶりを振った綾は、僅かに頬を染めながら、少し言いづらそうに「そのぉ……」と続けた。

「むしろ……逆です……」
「逆? ……ああ、なるほど」

 綾の答えに一瞬首を傾げかけた昌幸だったが、すぐに彼女が何を言いたいのかを察して、口元を緩める。

「つまり……おふたりの仲が睦まじくて、間を取り仕切るどころか、すっかりひとり蚊帳の外に置かれて、居堪いたたまれなくなったから桔梗様に助けを……といったところでしょうか」
「喜兵衛どのっ! 確かにその通りですけど、みなまで言わないで下さいませ!」
「あっ……失礼いたしました……」

 恥ずかしそうに赤面した綾に抗議され、昌幸は慌てて謝った。
 そんなふたりのやり取りに、信繁は思わず吹き出したが、綾から恨めしげな目で睨まれ、急いで表情を引き締める。
 そして、口元に拳を当てて、わざとらしく咳払いをしてから、大きく頷いた。

「そうか……。仲睦まじいのなら何よりだ」
「本当に良かったですね……」

 信繁の呟きに、桔梗も微笑む。

「好き合う者同士が夫婦として結ばれる――それが本来一番自然な事のはずなのでしょうけど、なかなかそうもいきませんから……」
「……そうだな」

 桔梗の言葉に、信繁は少し複雑な表情を浮かべながら、小さく頷いた。
 と、

「そのことなんですけど……」

 綾が、不思議そうな顔をして信繁に尋ねる。

「結局、四郎さまとたつ姉様がおたがいを好きだったから良かったものの……もしそうじゃなかったら、どうなさるおつもりだったんですか?」
「ん?」

 信繁は、綾の問いかけに小首を傾げた。

「そうじゃなかったら……とは?」
「ですから……」

 先ほどの光景を思い出して頬を赤らめながら、綾は言葉を継ぐ。

「その……父上がおふたりにおたがいの気持ちをたずねた時……もし、どちらかのお答えが違ったものだったら……」
「ああ、そういう事か」

 綾の言葉の意図を察した信繁は、ニヤリと笑った。

「どうするつもりも何も……そもそも、あの時点でそのような返答が返ってくるはずがないから、初めから考えてはいなかった」
「え……っ?」

 信繁の答えを聞いた綾は、その意味を測りかねた様子で、ポカンとした表情を浮かべる。
 そんな娘の反応に満足げな表情を浮かべながら、信繁は更に話を続けた。

「綾……儂が、四郎と龍姫を同時に屋敷に招き、本殿と離れにそれぞれ通した理由が分かるか?」
「え? ……い、いえ……どうしてですか?」

 父から急に問いかけられ、綾は当惑しながら首を横に振る。
 そんな彼女に答えを教えたのは、桔梗だった。

「……お父上も、本殿で四郎様をもてなしながら、それとなく確認なさったのです。四郎様のたつ様へのお気持ちを。――私が、たつ様に対して四郎様への想いを確かめたのと同じように」
「えっ……?」
「そして、四郎様がたつ様の事を好いていると確認した上で、喜兵衛殿を離れに遣わして、私たちを本殿へ呼んだのです」
「そ、そうだったのですか……?」

 桔梗の答えを聞いた綾は、思わず目を丸くして、父の顔を見上げる。

「でも……もし、たつ姉様が四郎様のことを別にお好きじゃなかったりしたら……?」
「もしそうならば、桔梗様が離れに来た拙者にその旨を秘かにお伝えなさる手筈でした」

 綾の疑問に、今度は昌幸が答えた。

「それを聞いた拙者は、適当な理由で場を誤魔化して、そのまま本殿へ戻り……」
「昌幸が龍姫を連れて戻ってこなかった事で、その答えを知った儂は、そのまま素知らぬ顔で四郎を持て成し、それぞれ時をずらして帰らせる……そのような段取りだったのだ、一応はな」

 昌幸の言葉を引き継ぐ形で口を開いた信繁は、「だが……」と続ける。

「あのふたりの気持ちは、訊かずとも大体分かっておったから、そのような備えは杞憂に終わると思っておった。……実際そうなったしな」
「じゃ、じゃあ……」

 昌幸の手から刀を受け取りながらそう言う信繁に、綾は釈然としない顔で尋ねた。

「おふたりの気持ちが分かっているのに、なんで今日のようなことを?」
「まあ……」

 綾の問いかけに、信繁は苦笑を漏らしながら答える。

「どちらかというと、此度の企み事は、あのふたりの為に行なったようなものだからな」
「え? おふたりのため……?」
「あそこまでお膳立てしてやらねば、本当の気持ちを口にはせなんだだろうからな、あのふたりは」

 そう言った信繁は、少しだけ表情を曇らせた。

「……特に四郎は、諏訪御前様の事もあって、こと男女の事に対して消極的だった。……いや、期待をせずに諦めてしまっているといった方が正しいか」
「……!」
「その頑なになった心を解きほぐし、素直に自分の望みを吐き出させるには、あのくらいの荒療治が必要だったという事だ」
「だから……父上はこたびのようなことを……」

 信繁の真意を聞いた綾は、目を大きく見開く。
 そんな彼女に微笑みかけた信繁は、昌幸に向けて言った。

「さて……そろそろ躑躅ヶ崎に参るとするか」
「はい」

 信繁の言葉に頷いた昌幸が、彼を先導するように廊下に向かう。
 昌幸に続いて部屋を出る信繁に深々と一礼した桔梗は、綾に微笑みかけた。

「では……私たちも戻りましょうか。四郎様とたつ様のところへ……」
「あ……はい!」

 ポカンとして信繁の背中を見送っていた綾は、桔梗の言葉で我に返り、ホッとした表情を浮かべて頷くのだった。
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