【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

チャビューヘ

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愛を捨てた日、怪物が笑わなくなった日

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「処理しろ。私の領地に、兄を食らう獣はいらん」

 お父様は、私を見なかった。

 書類から一度も目を上げないまま、ただそれだけを言った。

 騎士に髪を掴まれて、引きずられる。頭皮が裂けるような痛み。でも、それよりも。

 ねえ、こっちを見てよ。

 私、やってないの。

 お兄様にお菓子をあげただけなの。

 仲良くなりたかっただけなの。

 石畳に膝が擦れる。痛い。冷たい。

 地下牢の鉄扉が閉まる音は、世界で一番重かった。

 私の泣き声は、誰にも届かない。暗がりの中で反響して、自分の耳に返ってくるだけ。

 寒い。

 お腹すいた。

 誰か来て。

 誰も、来なかった。

 何日経ったのか、もう分からない。

 指先の感覚がない。唇が割れて、血の味がする。

 最後に思ったことは、こんなに馬鹿らしいことだった。

 愛なんて求めるから、こんなに痛いんだ。

 もう二度と、望まない。

 冷たい床に頬をつけたまま、意識が遠のいていく。

               

 首が、冷たい。

 はっと目を開ける。喉の奥が詰まって、息ができない。

 誰かに絞められている。まだ絞められている。

 ちがう。

 手を振り払おうとして、空を掴んだ。

 誰もいない。

 見覚えのある天蓋。やわらかいベッド。窓から差し込む白い光。

 私の、部屋だ。

 震える手を目の前にかざす。小さい。白くて、細くて、まだ五歳の手。

 やりなおし?

 時間が、巻き戻った?

 心臓がばくばくと暴れている。息が浅い。視界がちかちかする。

 落ち着け。落ち着くんだ、私。

 前の人生で関わった、理不尽な人たちを思い出せ。どんな無理難題でも笑顔で乗り越えた日々を。

 深呼吸。

 一回。二回。三回。

 よし。

 状況を整理する。

 今日は何月何日?

 窓の外を見る。庭の花の咲き具合、雪の残り方。

 たぶん、お父様が戦場から帰還する日だ。

 ということは、あの「事件」が起きる一ヶ月前。

 お兄様に手作りのキャンディを渡して、お兄様が血を吐いて倒れて、私が「毒殺未遂」の濡れ衣を着せられるまで、あと一ヶ月。

 今度こそ、死にたくない。

 でも。

 お父様に甘えてやり直す?

 無理だ。

 あの目を思い出しただけで、胃がひっくり返りそうになる。

 書類から一度も目を上げなかった、あの冷たい横顔。

 「処理しろ」と、ゴミを捨てるみたいに言った、あの声。

 お父様は「家族」じゃない。

 敵だ。

 いや、違う。敵ですらない。

 私を殺す権限を持っている、絶対的な支配者。

 逆らえば死ぬ。気に入られなくても死ぬ。

 だったら、どうする?

 答えは一つしかない。

 感情を殺して、生き延びることだけを考える。

 愛される必要なんてない。

 ただ「無害な存在」として認識されて、成人するまで息を潜めていればいい。

 十三年。

 十三年間、この屋敷で石ころみたいに過ごす。

 それだけが、私の生きる道。

               

 廊下を歩く足音が聞こえた。

 重い。規則正しく、けれど容赦がない。

 獣が近づいてくる。

 ドアノブが、ゆっくりと回った。

 身体が動かない。

 逃げなきゃ。隠れなきゃ。せめて、頭を下げなきゃ。

 なのに、足が言うことを聞かない。

 扉が開く。

 その瞬間、全身の血が凍った。

 お父様が、そこに立っていた。

 氷みたいに冷たい銀髪。深い影を宿した灰色の瞳。眉間に深く刻まれた皺。この世の全てを憎んでいるような、険しい顔。

 北部大公。戦場の怪物。人の心を持たない殺戮者。

 噂は、全部本当に見える。

 殺される。

 その確信が、ようやく身体を動かした。

 ベッドから転げ落ちるように降りて、床に這いつくばる。額が冷たい石に触れた。

 五歳の身体は、震えが止まらない。歯がかちかちと鳴っている。みっともない。でも、止められない。

 (ごめんなさいごめんなさいごめんなさい)

 (生きててすみません)

 (お願い、殺さないで)

 心の中で、ただ祈る。

 怒鳴り声が来る。

 蹴られる。踏みつけられる。

 覚悟を決めて、身を縮めた。

 一秒。

 二秒。

 三秒。

 何も、来なかった。

 静寂だけが、部屋を満たしている。

 怖い。

 この沈黙が、何より怖い。

 恐る恐る、顔を上げる。

 お父様が、立ち尽くしていた。

 さっきまでの険しい表情が、消えている。

 眉間の皺が、解けていた。

 代わりに浮かんでいるのは、困惑。

 迷子の子供みたいな、呆然とした顔。

 幽霊でも見たような目で、私を見下ろしている。

 長い沈黙。

 永遠にも思える時間が流れた。

「……なぜだ」

 低い声が、静寂を裂いた。

「ひっ」

 喉から変な音が出た。

「……聞こえない」

 お父様が、独り言のように呟いた。

 聞こえない?

 何が?

 私の声なら、ちゃんと出てますけど。

「は、はい……あの、わた、私は……」

 何か言わなきゃ。弁明しなきゃ。

 でも、言葉がうまく出てこない。舌がもつれる。

 お父様が、一歩、近づいてきた。

 床が軋む音。

 私の心臓も、同じように軋んだ。

 もう一歩。

 逃げ場がない。

 目を瞑った。

 首に手がかかる感覚を想像して、全身が強張る。

 でも、痛みは来なかった。

 代わりに感じたのは、視線だけ。

 じっと、見つめられている。

 薄目を開けると、お父様が私の顔を覗き込んでいた。

 灰色の瞳が、すぐ近くにある。

 その目は、怒りでも軽蔑でもなかった。

 何かを探している。

 何かを確かめようとしている。

 まるで、世にも珍しいものを見つけた人みたいに。

 お父様の手が、私の前で動いた。

 殴られる。

 そう思って身を竦めたけれど、その手は私の顔の前で止まった。

 右、左、右。

 ゆっくりと振られる。

 私が本当に見えているのか、確認しているみたいに。

 なに。

 この状況。

 怒ってるんじゃないの?

 また、長い沈黙。

 お父様が、何かを確かめるように頷いた。

 眉間の皺は、戻らない。

「……掃除は保留だ」

 低く、静かな声。

 掃除。

 私のこと。

 やっぱり、処分する気だったんだ。

 でも、保留。

 殺されない?

「そのまま、そこにいろ」

「は、はい……」

「動くな。余計な声を出すな」

 お父様の声が、ほんの少しだけ変わった。

 刺すような冷たさが、薄れている。

 代わりに滲んでいるのは、戸惑い。

「……お前がそこにいると、なぜか『静か』だ」

 意味が分からない。

 静か?

 私、さっきからずっと黙ってましたけど。

 息も止めてましたし。

 お父様は踵を返して、部屋を出て行った。

 抱擁なんてない。

 優しい言葉もない。

 ただ、「保留」と「静か」という、意味不明な言葉だけを残して。

 扉が閉まる。

 足音が遠ざかっていく。

 完全に聞こえなくなってから、私はその場に崩れ落ちた。

 助かった。

 たぶん、助かった。

 なんで?

 「聞こえない」って、なに?

 「静か」って、なに?

 理由は分からない。

 でも、「即時処分」という最悪の結末は、どうやら避けられたらしい。

 床に額をつけたまま、荒い息を吐く。

 膝が笑っている。

 指先が震えて止まらない。

 涙が、勝手にこぼれてきた。

 怖かった。

 死ぬかと思った。

 でも、生きてる。

 今日のところは、生きてる。

 しばらくそのまま動けなかった。

 ようやく顔を上げたとき、窓の外が目に入った。

 庭の片隅に、何かが光っている。

 雪解けの水に濡れた、小さな石。

 前の人生の記憶が、ふと蘇る。

 気難しい相手には、贈り物が効く。

 高価なものじゃなくていい。

 相手のことを考えて選んだ、という事実が大事なんだ。

 あの綺麗な石を、お父様に献上しようか。

 「あなたのことを考えています」という、目に見える証として。

 明日。

 明日、庭に降りて、あの石を拾おう。

 それが、この「保留」を維持するための、最初の一歩になるはずだから。

 震える膝を抱えて、私はそう決めた。
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