【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

チャビューヘ

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腐った果実と腐りゆく男

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 夜が明けても、胸の重さは消えなかった。

 窓の外は、いつもと変わらない灰色だった。
 北部の冬は、光すら凍らせる。

 昨日のことが、まだ胸に引っかかっていた。
 マルタさんに飴を渡したこと。
 あの、絶望に染まった顔。

 飴だけなら、害はない。
 頭では、わかっている。

 でも、彼女にとっては。
 死を渡されたのと同じだったのかもしれない。

 扉を叩く音がした。

「お嬢様、失礼いたします」

 マルタさんの声だった。
 いつもより、細い。

 扉が開く。

 声が、喉の奥で止まった。

 マルタさんの顔から、血の気が失せていた。
 まるで、幽鬼のように。
 目の下には、深い隈が刻まれている。

「お着替えの、お手伝いに、参りました」

 声が震えている。
 火傷した手が、さらに激しく揺れていた。

「マルタさん、顔色が悪い?」

 私は、首をかしげてみせた。

 瞬間。
 マルタさんの瞳が、大きく見開かれた。

 喉がひくりと動く。
 まるで、見えない縄で首を絞められているかのように。

「い、いえ。なんでもございません」

 彼女の唇が、蝋のように白くなっていた。
 震えが止まらないのだろう。
 一晩中、何かに怯えていたような顔だった。

 でも。
 飴だけでは、毒にならないはずだ。
 彼女の身体に、害はないはずだ。

 では、この震えは。
 恐怖だけが、彼女をここまで追い詰めているのか。

 彼女の手が、私の服に触れた。
 その指先が、氷のように冷たい。

「お嬢様は、お元気そうですわね」

 その言葉の裏に、何かが潜んでいる。
 恐怖か。
 疑念か。
 それとも。

「うん。元気だよ?」

 私は、無邪気に笑ってみせた。

 マルタさんの指が、一瞬だけ止まった。
 彼女の目が、私を探るように見つめる。

 あの飴は、本当に無害だったのか。
 後から効く何かが入っていたのでは。

 彼女の目が、そう問いかけていた。
 毒の仕組みを知っているからこそ。
 疑わずにはいられないのだろう。

 私は何も言わなかった。
 ただ、にこにこと笑っているだけ。

 それが、彼女にとって最も恐ろしいことだと。
 私は、知っていた。

 着替えが終わると、マルタさんは足早に去っていった。
 その背中が、昨日よりもさらに小さく見えた。

 私は、笑ったままだった。
 何も知らない子供のふりをして。

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。
 あの飴を渡したのは、私だ。
 無害だとわかっていても。
 彼女にとっては、死刑宣告と同じだったはずだ。

 でも。
 それでも、私は笑っていなければならない。

 廊下の角を曲がる直前。
 彼女が、一度だけ振り返った。

 その目が、揺れていた。
 助けを求めているような。
 それとも、私を試しているような。
 あるいは、自分でも何を感じているのかわからないような。

 わからなかった。
 わからないまま、彼女は消えた。



 朝食を待っていた時だった。

 廊下の方から、怒声が響いた。

「いい加減にしろ! この茶番を終わらせろ!」

 ハインツの声だった。
 いつもの砂糖菓子のような甘さは、跡形もない。
 剥き出しになった声は、腐りかけの果実のように酸っぱく、苛立っていた。

「査察官として命じる。その部屋を開けろ!」

 義兄様の部屋だ。
 私の部屋から、廊下を挟んで向かい側にある。

 私は自室の扉に耳を押し当てた。

「申し訳ございません。医師の判断で」

 執事さんの声が、いつものように鉄のように硬い。
 きっと、昨日と同じく壁のように立ちはだかっているのだろう。

「医師だと? どこの藪医者だ!」

「お呼びですかねえ」

 聞いたことのない声がした。
 低く、ねっとりとした声。
 古い薬草を煮詰めたような、澱んだ響き。

 足音が近づいてくる。
 私は、そっと扉を開けた。

 そして。

 見てしまった。

 廊下に立つ、異様な男を。

 白い長衣を纏っているが、元の色がわからない。
 それほどまでに汚れていた。
 髪は鳥の巣のように乱れ、顎には無精髭が伸びている。
 目は赤く充血し、爪の間には何か黒いものがこびりついている。

 そして、匂い。
 薬草の煮汁と腐敗臭が混ざった、異様な匂いが漂ってくる。

「な、なんだ貴様は!」

 ハインツの声が、初めて狼狽えていた。

「私ですか?」

 男が、にやりと笑った。
 その歯は、黄色く染まっている。

「ガロットと申します。毒と疫病を専門に、北部大公閣下に仕える者でして」

 ガロット。
 聞いたことがない名前だ。
 だが。

「北部大公の?」

「ええ。閣下直々のお召しでねえ。若様の容体を診ておりました」

 ガロットが、一歩前に出た。
 ハインツが、一歩後退する。

「近づくな!」

「おや、どうしました?」

 ガロットの目が、ハインツの全身を舐めるように見た。

「いい肺をしておられますなあ。深呼吸してごらんなさい」

「な、何を」

「この廊下、ちょうど若様の部屋から空気が流れておりましてねえ」

 ガロットが、すんすんと鼻を鳴らした。
 まるで、何かの匂いを嗅いでいるように。

「感染症の疑いがある患者の部屋からの空気でさあ」

 ハインツの顔色が、みるみる変わった。

「貴様、脅しているのか」

「脅し? とんでもない」

 ガロットが、さらに一歩近づいた。
 ハインツが、さらに後退する。

「私は事実を申し上げているだけでしてねえ」

 ガロットの声が、さらに甘くなった。
 まるで、珍しい虫を観察するかのように。

「若様の症状、なかなかに興味深いんですよ。私はねえ」

 ガロットが、自分の指先を眺めた。
 その爪の間の黒いものが、何なのか。
 考えたくなかった。

「どんな病が潜んでいるか、わくわくしておりますよ」

「き、貴様」

 ハインツの声が、震えていた。
 あの甘い声が。
 砂糖の皮が剥がれ、腐った中身が露出したような声が。

「さあ、もう少し近づいてみませんか?」

 ガロットが、手を広げた。
 その手には、何か粘液のようなものがこびりついている。

「握手でもしましょうや。北部式の歓迎でさあ」

「ああ、そうそう」

 ガロットが、ふと思い出したように言った。

「若様の血を少々いただきましてねえ。実に興味深い色をしておりました」

 彼の長衣の懐から、小さな瓶がちらりと見えた。
 中には、何か暗い色の液体が入っている。

「お持ち帰りになりますか? 王都の医師にも見せて差し上げましょうか」

 ハインツの顔が、完全に青ざめた。

 ハインツが、踵を返した。

「下がれ! 今日は、もういい!」

 足音が、逃げるように遠ざかっていく。

 だが。

「覚えておけ、北部の田舎医者」

 廊下の向こうから、ハインツの声が響いた。

「王都には、本物の医師がいる。貴様の茶番は、すぐに終わる」

 それきり、足音は消えた。

 私は、呆然とその光景を見つめていた。

 あの、人を嬲ることを楽しむ男が。
 権力を振りかざし、マルタさんを痛めつけた男が。

 逃げた。

 汚れた長衣の男から、逃げた。

「ふむ」

 ガロットが、私の方を振り返った。
 その赤い目が、私を見つめる。

「これはこれは。お嬢様でしたか」

 私は、思わず後ずさった。
 この男から放たれる匂いが、近づくにつれて強くなる。

「ご心配なく。若様は良くなられますよ」

 ガロットの目が、一瞬だけ、まともになった。
 赤く充血した目の奥に、優しさとも哀れみともつかない光が浮かんだ。

「毒の供給さえ止まれば」

 その言葉に、私の心臓が跳ねた。

「毒」という言葉を、この男は知っている。
 そして。
 お父様が呼んだ、ということは。

「あ、ありがとう、ございます」

 私は、小さく頭を下げた。

「はは。礼には及びませんよ」

 ガロットが、にやりと笑った。

「北部大公閣下のご依頼ですからねえ。きっちり仕事はいたしますよ」

 その言葉には、単なる仕事以上の何かが籠っているように聞こえた。
 この男と、お父様との間には、何かあるのかもしれない。
 あの充血した目の奥に、一瞬だけ見えた光。
 それは、忠誠とも、恩義とも、違う何かだった。

 そう思っているうちに、ガロットは義兄様の部屋に戻っていった。

 私は、壁に背をつけて、深く息を吐いた。

 お父様は、あの男を呼んだのだ。
 ハインツに対抗するために。

 権力には、権力で対抗する。
 王家の査察官には、医師という名分で対抗する。

 そして、あの本能的な嫌悪。
 ハインツが最も忌み嫌う「不潔」を、お父様は武器にした。

 毒には、毒を。
 お父様は、そう考えたのだろう。

 私は、自室に戻りながら、考えた。

 戦いは、まだ続いている。
 でも、味方が増えた。

 それも、とんでもない味方が。

 窓の外で、風が唸りを上げていた。
 嵐は、まだ止まない。

 でも。
 少しだけ、光が見えた気がした。



 昼過ぎのことだった。

 執事さんが、私の部屋を訪れた。

「お嬢様。旦那様より、お言付けでございます」

 私は、居住まいを正した。

「若様のご容体についてでございますが」

 執事さんの声が、わずかに和らいだ。

「医師の見立てでは、回復の見込みがあるとのことです」

 胸の奥が、じわりと温かくなる。
 義兄様が、助かるかもしれない。

「本当?」

「はい。お茶と飴をお止めしたことで、お体に良い変化が見られるようです」

 執事さんが、深々と頭を下げた。

「お嬢様のおかげでございます」

 私は、首を横に振った。

「私じゃない。お父様と、あの先生が」

「いいえ」

 執事さんの目が、優しくなった。

「最初に気づかれたのは、お嬢様でございます」

 その言葉が、胸に沁みた。

「旦那様からは、もうひとつ」

 執事さんが、紙を取り出した。

「事態が落ち着きつつございますので、旦那様より文字のお稽古を再開するようにと」

「本日の文字でございます」

 私は、その紙を受け取った。
 そこには、一文字だけ書かれていた。

 「解」

「げ、と読みます。解く、という意味でございます」

 執事さんが、丁寧に解説してくれた。

「絡まった糸をほどくこと。毒を解くこと。そのような意味がございます」

 私は、その文字を見つめた。

 解。
 毒を解く。
 絡まった糸をほどく。

 お父様は、そう言いたいのだろうか。
 事態は、解決に向かっている、と。

 でも。

 まだ、終わっていない。
 ハインツは、まだこの屋敷にいる。
 マルタさんは、まだあの男に縛られている。

 解くべき糸は、まだたくさん残っている。

 私は、その文字を胸に抱いた。

 耐える。
 でも、ただ耐えるだけじゃない。

 少しずつ、糸をほどいていく。
 お父様がそうしているように。

 窓の外で、雲が切れた。
 北部の太陽が、一瞬だけ顔を覗かせた。

 まるで、希望のように。

 でも、すぐにまた雲が覆った。

 嵐は、まだ終わらない。

 明日も、明後日も。
 あの男が去るまで。

 私は、「解」の文字を見つめながら、静かに決意を固めた。
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