【完結】パパ、私は犯人じゃないよ ~処刑予定の私、冷徹公爵(パパ)に溺愛されるまで~

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静寂とほどけゆく鎖

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 義兄様が、目を覚ました。

 その知らせを聞いた時、私はまだ寝台の中にいた。
 北部の冬には珍しい、弱々しい陽射しが窓から差し込んでいた。

 昨夜から、何度も目が覚めた。
 「解」という文字が、頭から離れなかったからだ。

 糸をほどく。
 毒を解く。

 お父様は、そう言いたかったのだろう。
 でも、まだ何も解けていない。

 扉を叩く音がした。

「お嬢様」

 執事さんの声だった。
 いつもより、少しだけ柔らかい。

「若様が、お目覚めになりました」

 胸の奥が、熱くなった。

 義兄様が。
 生きている。



 義兄様の部屋に向かう廊下で、足が止まった。

 マルタさんがいた。

 壁にもたれて、座り込んでいる。
 まるで、捨てられた人形のように。
 彼女の視線の先には、義兄様の部屋の扉があった。

「マルタさん?」

 声をかけると、彼女の肩がびくりと震えた。
 ゆっくりと顔を上げる。

 その目が、私を捉えた。

 血走った目だった。
 一晩中、何かに怯えていたような目。
 いや、もう何日もそうなのかもしれない。

「お、お嬢様」

 声がかすれていた。
 喉が渇ききっているような、枯れた声。

「私は、大丈夫……ですわ」

 大丈夫ではない。
 誰が見ても、そうわかる。
 震える声で、無理に平静を装っている。

 彼女の視線が、私の顔から離れない。
 まるで、何かを探しているように。
 あるいは、何かを恐れているように。

「あの飴は」

 マルタさんの唇が、震えながら動いた。

「何も、入っていなかった……のですわ?」

 私は、にこりと笑った。

「飴? 美味しかったでしょう?」

 マルタさんの顔が、さらに青ざめた。
 彼女の手が、壁を掻いた。
 爪が、石壁を引っ掻く音がする。
 がり、がり、と。
 まるで、何かから逃げようとしているかのように。

 言葉が、途中で崩れていく。
 彼女の唇が、何かを形作ろうとして、失敗した。

 私は、心配そうに首をかしげた。
 無邪気な子供の顔で。

「お部屋で休んだほうがいいんじゃない?」

 マルタさんの目が、大きく見開かれた。
 その瞳の奥に、何かが揺れている。
 恐怖。
 困惑。
 そして、ほんの少しの何か。

 彼女の視線が、私の手に落ちた。
 小さな、五つの子供の手。
 その手が、彼女に飴を渡したのだ。

 それが何なのか、私にはわからなかった。
 助けを求めているのか。
 それとも、何かを訴えようとしているのか。

「失礼、いたします」

 マルタさんは、よろめきながら立ち上がった。
 壁に手をつきながら、廊下の向こうへ消えていく。

 その背中が、震えていた。

 私は、その姿を見送った。
 胸の奥が、また痛んだ。

 飴には、何も入っていなかった。
 彼女の身体には、何の害もない。

 でも。
 彼女の心は、壊れかけている。

 あの飴を差し出した時の、自分の手を思い出す。
 震えていなかった。
 それが、一番怖かった。



 義兄様の部屋の前に立った。

 扉の向こうから、あの異様な匂いが漂ってきた。
 ガロットの匂い。
 薬草と腐敗が混ざった、独特の匂い。

 私が足を止めた瞬間だった。

「入ってもいいですよお」

 中から、ねっとりとした声が聞こえた。
 足音で気づいたのか、それとも別の何かか。
 ガロットだ。

 扉を開けると、薄暗い部屋が広がっていた。
 窓には厚い布が掛けられ、光を遮っている。

 寝台の上に、義兄様がいた。

 目を、開けていた。

 でも、焦点が合っていない。
 まだ、夢と現実の境目にいるような目。
 熱に浮かされたような、ぼんやりとした視線。

「義兄様」

 私は、寝台のそばに近づいた。

 義兄様の顔は、まだ青白かった。
 頬はこけ、唇は乾いている。
 でも、昨日までの死人のような色ではない。

 青白かった頬に、かすかな赤みが戻っている。
 唇にも、昨日までなかった血の色が滲んでいた。

「んん」

 義兄様の唇が、かすかに動いた。
 声にならない声。
 何かを言おうとしている。

「無理しないで」

 私は、そっと言った。

 義兄様の目が、ゆっくりと私の方を向いた。
 まだ、誰だかわかっていないようだった。

「チ、ビ」

 その声は、ほとんど息のようだった。
 でも、確かに聞こえた。

 チビ。

 私のことだ。

「うん。チビだよ」

 私は、笑った。
 今度は、演技ではなく。

 義兄様の手が、かすかに動いた。
 指先が、敷布を掴もうとしている。
 でも、力が入らない。

 その手が、私の方へ伸びた。

 私は、その手を取った。
 冷たかった。
 でも、昨日までの氷のような冷たさではない。

 生きている冷たさだった。

 その時。
 義兄様の指が、かすかに動いた。
 私の手を、握り返している。
 ほんの少しだけ。
 蝶の羽ばたきよりも弱い力で。

「なんで……来た」

 義兄様の声が、かすかに震えていた。
 それが、熱のせいなのか。
 それとも、別の何かなのか。

 私には、わからなかった。
 でも、その手は離れなかった。

「おや」

 ガロットの声が、背後から聞こえた。

「若様、お嬢様の手を握っておられますなあ」

 義兄様の目が、一瞬だけ焦点を結んだ。
 そして、すぐに逸らされた。

「ち、違う」

 その声は、弱々しかった。
 でも、確かに「義兄様らしさ」が戻っている。

「勝手に、来たんだ。こいつが」

 義兄様の手が、私の手を離そうとした。
 でも、力が入らない。

 私は、その手を離さなかった。

「離せ、チビ」

「嫌」

 義兄様の目が、少しだけ大きくなった。
 そして、すぐに閉じられた。

「疲れた」

 その声は、もう半分眠りの中にあった。
 でも、手だけは離れなかった。

 私も、離さなかった。

「はは」

 ガロットが、低く笑った。
 その目が、私たちを見ている。
 珍しい虫を観察するような、あの目で。

「若様は、良くなられますよ。間違いなくねえ」

 その言葉に、私は小さく頷いた。

 義兄様の手は、まだ私の手の中にあった。
 冷たいけれど、確かに温かさを取り戻しつつある。

 この手を、守らなければ。

 私は、そう思った。



 義兄様の部屋を出ると、執事さんが待っていた。

「お嬢様、お知らせがございます」

 その声が、少しだけ硬い。

「ハインツ様が、王都へ使者を送られたようです」

 私の足が、止まった。

「使者?」

「はい。『王家の侍医を呼ぶ』と」

 胸の奥が、冷たくなった。

 ハインツは、諦めていなかった。
 ガロットに追い返された屈辱を、晴らそうとしている。

 王都の医師。
 王家の権威。
 ガロットの「感染症」という盾を、正面から打ち砕こうとしている。

「侍医は、いつ来るの?」

「早ければ、三日後かと」

 三日。
 たった三日。

 執事さんが、私を見た。
 その目に、何かが宿っている。

「旦那様からの、お言付けでございます」

 執事さんが、紙を差し出した。
 そこには、たった一文字が書かれていた。

 「待」

 力強い筆跡。
 お父様の字だ。
 墨の匂いが、かすかに残っている。
 つい先ほど書かれたものだろう。

 待て。
 お父様は、そう言っている。

 焦るな。
 動くな。
 今は、ただ待て。

 私は、その文字を見つめた。

 解。
 そして、待。

 お父様は、何かを考えている。
 きっと、私には見えない何かを。

「わかった」

 私は、小さく頷いた。

 待つ。
 でも、ただ待つだけじゃない。

 見る。
 聞く。
 考える。

 そして、その時が来たら。
 動く。



 昼過ぎ、私は自室で「待」の文字を見つめていた。

 窓の外で、風が唸っていた。
 朝の陽射しは、もう消えていた。
 灰色の雲が、空を覆い尽くしている。

 嵐が、近づいている。

 王都から来る「本物の医師」。
 ハインツの反撃。
 マルタの崩壊。

 すべてが、動き始めている。

 私は、紙を胸に抱いた。

 待つ。
 今は、待つ。

 でも。

 義兄様の手の温もりを、私は覚えている。
 あの、弱々しいけれど確かな握り返しを。

 守りたい。
 この手を。
 この家を。
 この、不器用な人たちを。

 窓の外で、最初の雪が舞い始めた。
 北部の、長い冬の始まり。

 嵐の前の、最後の静けさ。

 あと三日。
 王都から、何かが来る。

 それが何であれ。
 私は、逃げない。

 その時、私に何ができるのだろう。
 五つの身体で。
 前世の記憶だけを武器に。

 窓の外の雪が、少しずつ激しくなっていく。
 私は、その時を待ちながら、静かに目を閉じた。
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