5 / 15
第4話「皇帝陛下のための、秘密の夜食」
しおりを挟む
政務、政務、また政務。皇帝アレスの毎日は山のように積まれた書類と終わりのない会議で埋め尽くされていた。俺がこの城に来てから、彼がゆっくりと食事をとっている姿をほとんど見たことがない。側近が盆を運んできても書類から目を離さずにスープを数口すするだけ。時にはそれすらも忘れ、食事に全く手を付けないまま夜更けを迎えることも珍しくなかった。
その姿を見るたびに俺の胸はちくりと痛んだ。あの冷たい瞳の奥に深い疲労の色が浮かんでいるのが分かる。このままではいつか倒れてしまうのではないか。
聖獣グリフォンの体調はすっかり回復した。今では俺が作った料理を毎日楽しみに待ってくれている。でもこの城で本当に食事を必要としているのは、もしかしたらアレス様の方なのかもしれない。
いてもたってもいられなくなった俺は、ある夜、決意を固めた。
人々が寝静まった深夜、俺はこっそりと厨房へと忍び込んだ。昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。月の光だけが磨かれた調理台をぼんやりと照らしていた。
アレス様のために何か作ろう。そう思っても何を作ればいいのか悩んだ。豪華な料理はきっと今の彼には負担になるだけだろう。消化が良くて栄養があって、そして少しでも心が安らぐようなもの。
俺が選んだのは温かいミルク粥だった。米を柔らかく煮てたっぷりのミルクでさらに煮込む。味付けはほんの少しの塩と隠し味のシナモン。そしてデザートにはちみつをたっぷりかけた果物のコンポートを添えた。どれも俺が幼い頃、熱を出した時に先生が作ってくれた優しい思い出の味だ。
お盆に乗せて緊張しながら皇帝の執務室へと向かう。この時間に皇帝の私室を訪ねることなど、本来なら許されるはずもない。もし見つかれば厳しく罰せられるだろう。それでも俺の足は止まらなかった。
執務室の扉をおそるおそるノックする。
「誰だ」
中から聞こえてきたのは案の定、不機嫌そうなアレスの声だった。
「……リオです。夜食をお持ちしました」
「必要ない。下がれ」
冷たい拒絶の言葉。分かっていたことだった。それでも俺は引き下がれなかった。
「少しだけでも何か召し上がってください。お疲れでしょうから」
扉の向こうの沈黙がアレスの苛立ちを物語っている。やがて諦めたようなため息が聞こえ、扉がゆっくりと開かれた。
「……しつこい男だ」
呆れたようにつぶやきながらもアレスは俺を中へと招き入れた。部屋の中は無数の書類が山積みになっており、灯されたランプの光が彼のやつれた横顔を映し出す。
俺はローテーブルの上にそっとお盆を置いた。ふわりとミルクとシナモンの甘い香りが広がる。
アレスは最初、迷惑そうに眉をひそめていた。しかし立ち上る湯気の向こうに見える俺の真剣な眼差しと、その優しい料理の香りに何か心を動かされたようだった。
彼は無言のまま椅子に座るとスプーンを手に取り、ためらうように一口、粥を口に運んだ。
その瞬間、アレスの氷のような表情がほんの少しだけ和らいだのが分かった。
彼は驚いたように目をわずかに見開き、そしてまた一口、もう一口とゆっくりと粥を食べ進めていく。張り詰めていた肩の力が抜け、険しい眉間のしわが少しずつ解きほぐされていく。
それはただ空腹を満たすだけの食事ではなかった。俺の心配する気持ちが、優しさが、その温かいミルク粥に溶け込んで彼の心と体をゆっくりと癒していくのが感じられた。
やがて粥も果物もすべて綺麗に食べ終えたアレスが、ぽつりとつぶやいた。
「……美味い」
そのたった一言が俺の胸を温かいもので満たした。心臓がとくんと大きく跳ねる。
「お口に合ってよかったです」
微笑んでそう言うのが精一杯だった。
この日からアレスのために夜食を作ることが、俺と彼の秘密の習慣になった。政務に疲れたアレスが俺の作る素朴な夜食を静かに食べる。会話は少ない。でもその穏やかな時間は、俺たち二人にとってかけがえのない大切なものになっていった。
その姿を見るたびに俺の胸はちくりと痛んだ。あの冷たい瞳の奥に深い疲労の色が浮かんでいるのが分かる。このままではいつか倒れてしまうのではないか。
聖獣グリフォンの体調はすっかり回復した。今では俺が作った料理を毎日楽しみに待ってくれている。でもこの城で本当に食事を必要としているのは、もしかしたらアレス様の方なのかもしれない。
いてもたってもいられなくなった俺は、ある夜、決意を固めた。
人々が寝静まった深夜、俺はこっそりと厨房へと忍び込んだ。昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。月の光だけが磨かれた調理台をぼんやりと照らしていた。
アレス様のために何か作ろう。そう思っても何を作ればいいのか悩んだ。豪華な料理はきっと今の彼には負担になるだけだろう。消化が良くて栄養があって、そして少しでも心が安らぐようなもの。
俺が選んだのは温かいミルク粥だった。米を柔らかく煮てたっぷりのミルクでさらに煮込む。味付けはほんの少しの塩と隠し味のシナモン。そしてデザートにはちみつをたっぷりかけた果物のコンポートを添えた。どれも俺が幼い頃、熱を出した時に先生が作ってくれた優しい思い出の味だ。
お盆に乗せて緊張しながら皇帝の執務室へと向かう。この時間に皇帝の私室を訪ねることなど、本来なら許されるはずもない。もし見つかれば厳しく罰せられるだろう。それでも俺の足は止まらなかった。
執務室の扉をおそるおそるノックする。
「誰だ」
中から聞こえてきたのは案の定、不機嫌そうなアレスの声だった。
「……リオです。夜食をお持ちしました」
「必要ない。下がれ」
冷たい拒絶の言葉。分かっていたことだった。それでも俺は引き下がれなかった。
「少しだけでも何か召し上がってください。お疲れでしょうから」
扉の向こうの沈黙がアレスの苛立ちを物語っている。やがて諦めたようなため息が聞こえ、扉がゆっくりと開かれた。
「……しつこい男だ」
呆れたようにつぶやきながらもアレスは俺を中へと招き入れた。部屋の中は無数の書類が山積みになっており、灯されたランプの光が彼のやつれた横顔を映し出す。
俺はローテーブルの上にそっとお盆を置いた。ふわりとミルクとシナモンの甘い香りが広がる。
アレスは最初、迷惑そうに眉をひそめていた。しかし立ち上る湯気の向こうに見える俺の真剣な眼差しと、その優しい料理の香りに何か心を動かされたようだった。
彼は無言のまま椅子に座るとスプーンを手に取り、ためらうように一口、粥を口に運んだ。
その瞬間、アレスの氷のような表情がほんの少しだけ和らいだのが分かった。
彼は驚いたように目をわずかに見開き、そしてまた一口、もう一口とゆっくりと粥を食べ進めていく。張り詰めていた肩の力が抜け、険しい眉間のしわが少しずつ解きほぐされていく。
それはただ空腹を満たすだけの食事ではなかった。俺の心配する気持ちが、優しさが、その温かいミルク粥に溶け込んで彼の心と体をゆっくりと癒していくのが感じられた。
やがて粥も果物もすべて綺麗に食べ終えたアレスが、ぽつりとつぶやいた。
「……美味い」
そのたった一言が俺の胸を温かいもので満たした。心臓がとくんと大きく跳ねる。
「お口に合ってよかったです」
微笑んでそう言うのが精一杯だった。
この日からアレスのために夜食を作ることが、俺と彼の秘密の習慣になった。政務に疲れたアレスが俺の作る素朴な夜食を静かに食べる。会話は少ない。でもその穏やかな時間は、俺たち二人にとってかけがえのない大切なものになっていった。
290
あなたにおすすめの小説
無能と追放された宮廷神官、実は動物を癒やすだけのスキル【聖癒】で、呪われた騎士団長を浄化し、もふもふ達と辺境で幸せな第二の人生を始めます
水凪しおん
BL
「君はもう、必要ない」
宮廷神官のルカは、動物を癒やすだけの地味なスキル【聖癒】を「無能」と蔑まれ、一方的に追放されてしまう。
前世で獣医だった彼にとって、祈りと権力争いに明け暮れる宮廷は息苦しい場所でしかなく、むしろ解放された気分で当てもない旅に出る。
やがてたどり着いたのは、"黒銀の鬼"が守るという辺境の森。そこでルカは、瘴気に苦しむ一匹の魔狼を癒やす。
その出会いが、彼の運命を大きく変えることになった。
魔狼を救ったルカの前に現れたのは、噂に聞く"黒銀の鬼"、騎士団長のギルベルトその人だった。呪いの鎧をその身に纏い、常に死の瘴気を放つ彼は、しかしルカの力を目の当たりにすると、意外な依頼を持ちかける。
「この者たちを、救ってやってはくれまいか」
彼に案内された砦の奥には、彼の放つ瘴気に当てられ、弱りきった動物たちが保護されていた。
"黒銀の鬼"の仮面の下に隠された、深い優しさ。
ルカの温かい【聖癒】は、動物たちだけでなく、ギルベルトの永い孤独と呪いさえも癒やし始める。
追放された癒し手と、呪われた騎士。もふもふ達に囲まれて、二つの孤独な魂がゆっくりと惹かれ合っていく――。
心温まる、もふもふ癒やしファンタジー!
悪役令息(Ω)に転生したので、破滅を避けてスローライフを目指します。だけどなぜか最強騎士団長(α)の運命の番に認定され、溺愛ルートに突入!
水凪しおん
BL
貧乏男爵家の三男リヒトには秘密があった。
それは、自分が乙女ゲームの「悪役令息」であり、現代日本から転生してきたという記憶だ。
家は没落寸前、自身の立場は断罪エンドへまっしぐら。
そんな破滅フラグを回避するため、前世の知識を活かして領地改革に奮闘するリヒトだったが、彼が生まれ持った「Ω」という性は、否応なく運命の渦へと彼を巻き込んでいく。
ある夜会で出会ったのは、氷のように冷徹で、王国最強と謳われる騎士団長のカイ。
誰もが恐れるαの彼に、なぜかリヒトは興味を持たれてしまう。
「関わってはいけない」――そう思えば思うほど、抗いがたいフェロモンと、カイの不器用な優しさがリヒトの心を揺さぶる。
これは、運命に翻弄される悪役令息が、最強騎士団長の激重な愛に包まれ、やがて国をも動かす存在へと成り上がっていく、甘くて刺激的な溺愛ラブストーリー。
役立たずと勇者パーティーから追放された俺、人間嫌いの魔族様に「君は私の光だ」と求婚され溺愛される
水凪しおん
BL
心優しき青年リアムは、勇者パーティーで回復役を務めていた。しかし、「ポーションがあれば十分」と、その地味な能力を理由に仲間たちから蔑まれ、ついにはパーティーを追放されてしまう。
信じていた者たちに裏切られ、心に深い傷を負ったリアムが、当てもなく彷徨い着いたのは「魔の森」。そこで彼を待ち受けていたのは、死の運命ではなく、漆黒の角と翼を持つ、美しくも孤独な魔族の領主ゼノンとの出会いだった。
人間を憎み、心を閉ざして生きてきたゼノン。彼が長年抱えてきた癒えない傷と孤独を、リアムの温かい「癒しの力」が奇跡のように和らげていく。
恐ろしい見た目とは裏腹のゼノンの不器用な優しさに、リアムは次第に心を開き、失っていた笑顔を取り戻す。一方のゼノンもまた、リアムの無垢な魂に惹かれ、凍てついていた心に燃えるような愛を知る。
これは、道具として扱われた青年が、絶対的な存在に見初められ、世界で一番愛される場所を見つける物語。種族を超えた二つの魂が寄り添い、永遠を誓うまでの、甘くて切ない異世界BLファンタジー。
捨てられΩの癒やしの薬草、呪いで苦しむ最強騎士団長を救ったら、いつの間にか胃袋も心も掴んで番にされていました
水凪しおん
BL
孤独と絶望を癒やす、運命の愛の物語。
人里離れた森の奥、青年アレンは不思議な「浄化の力」を持ち、薬草を育てながらひっそりと暮らしていた。その力を気味悪がられ、人を避けるように生きてきた彼の前に、ある嵐の夜、血まみれの男が現れる。
男の名はカイゼル。「黒き猛虎」と敵国から恐れられる、無敗の騎士団長。しかし彼は、戦場で受けた呪いにより、αの本能を制御できず、狂おしい発作に身を焼かれていた。
記憶を失ったふりをしてアレンの元に留まるカイゼル。アレンの作る薬草茶が、野菜スープが、そして彼自身の存在が、カイゼルの荒れ狂う魂を鎮めていく唯一の癒やしだと気づいた時、その想いは激しい執着と独占欲へ変わる。
「お前がいなければ、俺は正気を保てない」
やがて明かされる真実、迫りくる呪いの脅威。臆病だった青年は、愛する人を救うため、その身に宿る力のすべてを捧げることを決意する。
呪いが解けた時、二人は真の番となる。孤独だった魂が寄り添い、狂おしいほどの愛を注ぎ合う、ファンタジック・ラブストーリー。
過労死転生、辺境で農業スローライフのはずが、不愛想な元騎士団長を餌付けして溺愛されてます
水凪しおん
BL
「もう、あくせく働くのは絶対に嫌だ!」
ブラック企業で過労死した俺、ユキナリが神様から授かったのは、どんな作物も育てられ、どんな道具にもなるチートスキル【万能農具】。念願のスローライフを送るため、辺境の荒れ地でのんびり農業を始めたはずが……出会ってしまったのは、心を閉ざした無愛想な元騎士団長・レオンハルト。俺の作るあったか料理に胃袋を掴まれ、凍てついた心が徐々に溶けていく彼。もふもふの番犬(黒狼)も加わって、穏やかな日々は加速していく。――収穫祭の夜、酔った勢いのキスをきっかけに、彼の独占欲に火をつけてしまった!?
「お前は、俺だけのものだ」
不器用で、でもどこまでも優しい彼の激しい愛情に、身も心も蕩かされていく。
辺境の地でのんびり農業をしていただけなのに、いつの間にか不愛想な元騎士団長の胃袋と心を射止めて、国まで動かすことになっちゃいました!? 甘々で時々ほろ苦い、異世界農業スローライフBL、ここに開幕!
追放されたので路地裏で工房を開いたら、お忍びの皇帝陛下に懐かれてしまい、溺愛されています
水凪しおん
BL
「お前は役立たずだ」――。
王立錬金術師工房を理不尽に追放された青年フィオ。彼に残されたのは、物の真の価値を見抜くユニークスキル【神眼鑑定】と、前世で培ったアンティークの修復技術だけだった。
絶望の淵で、彼は王都の片隅に小さな修理屋『時の忘れもの』を開く。忘れられたガラクタに再び命を吹き込む穏やかな日々。そんな彼の前に、ある日、氷のように美しい一人の青年が現れる。
「これを、直してほしい」
レオと名乗る彼が持ち込む品は、なぜか歴史を揺るがすほどの“国宝級”のガラクタばかり。壊れた「物」を通して、少しずつ心を通わせていく二人。しかし、レオが隠し続けたその正体は、フィオの運命を、そして国をも揺るがす、あまりにも大きな秘密だった――。
冷酷なアルファ(氷の将軍)に嫁いだオメガ、実はめちゃくちゃ愛されていた。
水凪しおん
BL
これは、愛を知らなかった二人が、本当の愛を見つけるまでの物語。
国のための「生贄」として、敵国の将軍に嫁いだオメガの王子、ユアン。
彼を待っていたのは、「氷の将軍」と恐れられるアルファ、クロヴィスとの心ない日々だった。
世継ぎを産むための「道具」として扱われ、絶望に暮れるユアン。
しかし、冷たい仮面の下に隠された、不器用な優しさと孤独な瞳。
孤独な夜にかけられた一枚の外套が、凍てついた心を少しずつ溶かし始める。
これは、政略結婚という偽りから始まった、運命の恋。
帝国に渦巻く陰謀に立ち向かう中で、二人は互いを守り、支え合う「共犯者」となる。
偽りの夫婦が、唯一無二の「番」になるまでの軌跡を、どうぞ見届けてください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる