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第1話「水盤に落ちた予言」
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白磁の器から、ほのかに甘いお茶の香りが立ち上っていた。
煌都の入り組んだ裏路地。陽の光が届きにくいこの場所には、古い木材と湿った土の匂いが常に漂っている。紫苑は窓辺の小さな椅子に深く腰掛け、ゆっくりと息を吐き出した。
手元にあるのは、澄んだ水を張った黒漆の水盤だ。表面は鏡のように平らで、周囲の薄暗い景色を吸い込んでいる。
『今日も、また恋愛相談ばかりだろうか』
紫苑は静かに独り言をいうように、心の中でつぶやいた。
ここは的中率百パーセントと噂される占い所だった。訪れる客のほとんどは、恋の行方や片思いの結末を知りたがる者たちだ。紫苑はそのすべてに的確な答えを与え、時には残酷な現実を突きつけてきた。
手のひらには、乾燥させた紅い花びらが数枚握られている。それを水盤の上にそっと落とすのが、彼の占いの方法だった。水面に触れた花びらが描く波紋や、沈みゆく速度、重なり合う形から、未来の道筋を読み解くのだ。
ふと、手元に残った最後の一枚を見つめた。
『自分のことは、滅多に占わないのだけれど』
気まぐれだった。ただ、この静かな朝の空気が、紫苑に少しだけ悪戯心を起こさせたのかもしれない。紫苑は自分自身の今日の運勢を念じながら、紅い花びらを水盤の真ん中へと落とした。
ぽちゃん、と小さな音が響く。
波紋が広がるのを眺めていた目に、信じられない光景が映った。紅い花びらは水面で鋭く回転し、沈むことなく不自然なほど強く惹かれ合うように水盤の縁へ張り付いたのだ。
背筋に、冷たいものが走った。
水盤が示している意味は、あまりにも明白だった。逃れられない強い縁。それも、本能を揺さぶるほどの強烈な結びつき。
「今日、この店を訪れるアルファの中に、私の運命の相手がいる……?」
声に出した瞬間、紫苑は顔をしかめた。
彼はオメガだった。しかし、その事実をひた隠しにし、強い薬で自身の香りを抑え込んで生きている。オメガとして生まれ、本能のままにアルファに支配される人生など、悪夢でしかなかった。
『冗談じゃない。誰がそんな運命に従うものか』
姿勢を正し、即座に決断した。今日は店を開けない。看板を下ろし、扉に鍵をかけてしまえば、誰が来ようと会うことはない。運命などという不確かなものに、自分の人生を奪い取られてたまるか。
急いで立ち上がり、店先へ向かおうとしたその時だった。
カラン、と古びた真鍮の鈴が鳴った。
動きが止まる。まだ開店の札すら出していないというのに、重厚な木製の扉がゆっくりと押し開けられていた。
「すまない。もう、開いているだろうか」
低く、よく通る声だった。
扉の隙間から差し込むわずかな光を背にして、大柄な影が店内に足を踏み入れる。濃紺の軍服に身を包んだ、若い男だった。肩幅は広く、鍛え上げられた体が衣服の上からでも容易に想像できる。
その瞬間、鼻先をかすめる匂いがあった。
雨に濡れた、静かな深い森の香り。
心臓が、自分でも驚くほど大きく跳ねた。呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。理性を飛び越えて、身体の奥底から甘い痺れが這い上がってくるような感覚だった。
『アルファ……』
間違いなかった。薬で抑え込んでいるはずの感覚を、いとも容易く揺さぶるほどの圧倒的な存在感。彼が、水盤の示した運命の相手だ。
男は帽子を取り、真っすぐな視線を向けた。彫りの深い端正な顔立ちに、どこか不器用そうな真面目さが張り付いている。
「君が、百発百中の占い師殿で間違いないか」
紫苑は息を呑み、必死に自分の感情を平坦な場所へ引き戻そうとした。ここで逃げ出せば、余計に怪しまれる。ただの客として扱い、冷たく突き放して帰らせるしかない。
「ええ、そうですが」
できるだけ抑揚のない声を出した。
「今はまだ準備中でして。それに、一見の方はお断りしているんです」
明らかな嘘だった。看板さえ出ていれば誰でも占うのがこの店だ。しかし、男は嫌な顔をするどころか、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せた。
「そうか。無理を言ってすまなかった。どうしても、今日中に答えが欲しくて焦っていたようだ」
素直に引き下がろうとする姿に、拍子抜けした。アルファ特有の強引さや傲慢さが、この男からは一切感じられない。
『帰るなら、それでいい。引き止める理由はない』
そう自分に言い聞かせたはずなのに、男が背を向けた瞬間、雨に濡れた森の香りがふわりと揺れた。
その香りの奥にある、深く沈み込むような孤独の気配に、紫苑はなぜか胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。
「……待ってください」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
***
男は驚いたように振り返った。
紫苑は自分の不用意な発言を深く後悔した。なぜ呼び止めてしまったのか、自分でもまったく理解できない。しかし、一度口から出た言葉を飲み込むことはできなかった。
「……特別です。話だけなら、聞きましょう」
「本当か。感謝する」
男の顔に、わずかに安堵の色が浮かんだ。
紫苑はため息を飲み込み、客用の小さな丸椅子を手で示した。男は丁寧に一礼してから、大きな体を丸めるようにして椅子に腰掛けた。
「私は李翔という。軍で少校の任に就いている」
李翔と名乗った男は、膝の上に両手を置き、真っすぐな瞳で見つめてきた。
「今日は、人探し……いや、恋愛の相談で来た」
紫苑は水盤の前に座り直し、冷ややかな視線を返した。運命の相手だというのなら、なおさら早く終わらせて追い払わなければならない。
「ここは恋愛相談専門です。人探しなら、治安局へ行くべきですね」
「わかっている。だが、相手の名前も顔も、明確には覚えていないのだ。治安局に頼めるような情報がない」
その言葉に、内心で呆れ返った。顔も名前もわからない相手を恋愛相談に持ち込むなど、正気の沙汰ではない。
「では、どうやってその相手を占えと言うのですか。冷やかしなら帰ってください」
「冷やかしではない」
李翔の声が少しだけ大きくなった。しかしすぐにハッとして、申し訳なさそうに視線を落とす。
「すまない、大声を出して。だが、どうしても諦めきれないのだ。私が子供の頃に出会った、たった一度だけ言葉を交わした相手。その人が、今でもずっと心の中に居座り続けている」
黙って話を聞いていた。彼の声には、嘘や誤魔化しが一切ない。ひたすらに不器用で、ひたすらに誠実な響きがあった。
『そんな幻のような存在を探して、どうするつもりだというのだろう』
紫苑は新しい花びらを手に取り、水盤の上で指先を止めた。運命の相手。本能が警鐘を鳴らすアルファ。これ以上深く関わるのは危険だ。
「その人とは、縁がありませんよ」
花びらを落とすことなく、冷たく言い放った。
「過去の記憶にしがみつくのはやめることです。あなたの未来に、その人は存在しない。新しい出会いを探すべきです」
占いでも何でもない、ただ彼を遠ざけるためだけの言葉だった。
李翔は目を見開き、そして深く息を吐き出した。怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに言葉を受け止めているようだった。
「……そうか。百発百中のあなたが言うのなら、そうなのだろうな」
ゆっくりと立ち上がり、机の上に銀貨を数枚置いた。
「無理を聞いてもらって感謝する。貴重な時間を奪ってすまなかった」
深く頭を下げ、扉へと向かった。
紫苑は何も言わず、その広い背中を見送った。これでいい。運命は回避できた。彼が二度とこの店に来ることはない。
しかし、店内に残された雨に濡れた森の香りは、いつまでも心を揺らし続けていた。
煌都の入り組んだ裏路地。陽の光が届きにくいこの場所には、古い木材と湿った土の匂いが常に漂っている。紫苑は窓辺の小さな椅子に深く腰掛け、ゆっくりと息を吐き出した。
手元にあるのは、澄んだ水を張った黒漆の水盤だ。表面は鏡のように平らで、周囲の薄暗い景色を吸い込んでいる。
『今日も、また恋愛相談ばかりだろうか』
紫苑は静かに独り言をいうように、心の中でつぶやいた。
ここは的中率百パーセントと噂される占い所だった。訪れる客のほとんどは、恋の行方や片思いの結末を知りたがる者たちだ。紫苑はそのすべてに的確な答えを与え、時には残酷な現実を突きつけてきた。
手のひらには、乾燥させた紅い花びらが数枚握られている。それを水盤の上にそっと落とすのが、彼の占いの方法だった。水面に触れた花びらが描く波紋や、沈みゆく速度、重なり合う形から、未来の道筋を読み解くのだ。
ふと、手元に残った最後の一枚を見つめた。
『自分のことは、滅多に占わないのだけれど』
気まぐれだった。ただ、この静かな朝の空気が、紫苑に少しだけ悪戯心を起こさせたのかもしれない。紫苑は自分自身の今日の運勢を念じながら、紅い花びらを水盤の真ん中へと落とした。
ぽちゃん、と小さな音が響く。
波紋が広がるのを眺めていた目に、信じられない光景が映った。紅い花びらは水面で鋭く回転し、沈むことなく不自然なほど強く惹かれ合うように水盤の縁へ張り付いたのだ。
背筋に、冷たいものが走った。
水盤が示している意味は、あまりにも明白だった。逃れられない強い縁。それも、本能を揺さぶるほどの強烈な結びつき。
「今日、この店を訪れるアルファの中に、私の運命の相手がいる……?」
声に出した瞬間、紫苑は顔をしかめた。
彼はオメガだった。しかし、その事実をひた隠しにし、強い薬で自身の香りを抑え込んで生きている。オメガとして生まれ、本能のままにアルファに支配される人生など、悪夢でしかなかった。
『冗談じゃない。誰がそんな運命に従うものか』
姿勢を正し、即座に決断した。今日は店を開けない。看板を下ろし、扉に鍵をかけてしまえば、誰が来ようと会うことはない。運命などという不確かなものに、自分の人生を奪い取られてたまるか。
急いで立ち上がり、店先へ向かおうとしたその時だった。
カラン、と古びた真鍮の鈴が鳴った。
動きが止まる。まだ開店の札すら出していないというのに、重厚な木製の扉がゆっくりと押し開けられていた。
「すまない。もう、開いているだろうか」
低く、よく通る声だった。
扉の隙間から差し込むわずかな光を背にして、大柄な影が店内に足を踏み入れる。濃紺の軍服に身を包んだ、若い男だった。肩幅は広く、鍛え上げられた体が衣服の上からでも容易に想像できる。
その瞬間、鼻先をかすめる匂いがあった。
雨に濡れた、静かな深い森の香り。
心臓が、自分でも驚くほど大きく跳ねた。呼吸が浅くなり、指先が微かに震える。理性を飛び越えて、身体の奥底から甘い痺れが這い上がってくるような感覚だった。
『アルファ……』
間違いなかった。薬で抑え込んでいるはずの感覚を、いとも容易く揺さぶるほどの圧倒的な存在感。彼が、水盤の示した運命の相手だ。
男は帽子を取り、真っすぐな視線を向けた。彫りの深い端正な顔立ちに、どこか不器用そうな真面目さが張り付いている。
「君が、百発百中の占い師殿で間違いないか」
紫苑は息を呑み、必死に自分の感情を平坦な場所へ引き戻そうとした。ここで逃げ出せば、余計に怪しまれる。ただの客として扱い、冷たく突き放して帰らせるしかない。
「ええ、そうですが」
できるだけ抑揚のない声を出した。
「今はまだ準備中でして。それに、一見の方はお断りしているんです」
明らかな嘘だった。看板さえ出ていれば誰でも占うのがこの店だ。しかし、男は嫌な顔をするどころか、申し訳なさそうに眉間にしわを寄せた。
「そうか。無理を言ってすまなかった。どうしても、今日中に答えが欲しくて焦っていたようだ」
素直に引き下がろうとする姿に、拍子抜けした。アルファ特有の強引さや傲慢さが、この男からは一切感じられない。
『帰るなら、それでいい。引き止める理由はない』
そう自分に言い聞かせたはずなのに、男が背を向けた瞬間、雨に濡れた森の香りがふわりと揺れた。
その香りの奥にある、深く沈み込むような孤独の気配に、紫苑はなぜか胸が締め付けられるような錯覚を覚えた。
「……待ってください」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
***
男は驚いたように振り返った。
紫苑は自分の不用意な発言を深く後悔した。なぜ呼び止めてしまったのか、自分でもまったく理解できない。しかし、一度口から出た言葉を飲み込むことはできなかった。
「……特別です。話だけなら、聞きましょう」
「本当か。感謝する」
男の顔に、わずかに安堵の色が浮かんだ。
紫苑はため息を飲み込み、客用の小さな丸椅子を手で示した。男は丁寧に一礼してから、大きな体を丸めるようにして椅子に腰掛けた。
「私は李翔という。軍で少校の任に就いている」
李翔と名乗った男は、膝の上に両手を置き、真っすぐな瞳で見つめてきた。
「今日は、人探し……いや、恋愛の相談で来た」
紫苑は水盤の前に座り直し、冷ややかな視線を返した。運命の相手だというのなら、なおさら早く終わらせて追い払わなければならない。
「ここは恋愛相談専門です。人探しなら、治安局へ行くべきですね」
「わかっている。だが、相手の名前も顔も、明確には覚えていないのだ。治安局に頼めるような情報がない」
その言葉に、内心で呆れ返った。顔も名前もわからない相手を恋愛相談に持ち込むなど、正気の沙汰ではない。
「では、どうやってその相手を占えと言うのですか。冷やかしなら帰ってください」
「冷やかしではない」
李翔の声が少しだけ大きくなった。しかしすぐにハッとして、申し訳なさそうに視線を落とす。
「すまない、大声を出して。だが、どうしても諦めきれないのだ。私が子供の頃に出会った、たった一度だけ言葉を交わした相手。その人が、今でもずっと心の中に居座り続けている」
黙って話を聞いていた。彼の声には、嘘や誤魔化しが一切ない。ひたすらに不器用で、ひたすらに誠実な響きがあった。
『そんな幻のような存在を探して、どうするつもりだというのだろう』
紫苑は新しい花びらを手に取り、水盤の上で指先を止めた。運命の相手。本能が警鐘を鳴らすアルファ。これ以上深く関わるのは危険だ。
「その人とは、縁がありませんよ」
花びらを落とすことなく、冷たく言い放った。
「過去の記憶にしがみつくのはやめることです。あなたの未来に、その人は存在しない。新しい出会いを探すべきです」
占いでも何でもない、ただ彼を遠ざけるためだけの言葉だった。
李翔は目を見開き、そして深く息を吐き出した。怒るでもなく、悲しむでもなく、ただ静かに言葉を受け止めているようだった。
「……そうか。百発百中のあなたが言うのなら、そうなのだろうな」
ゆっくりと立ち上がり、机の上に銀貨を数枚置いた。
「無理を聞いてもらって感謝する。貴重な時間を奪ってすまなかった」
深く頭を下げ、扉へと向かった。
紫苑は何も言わず、その広い背中を見送った。これでいい。運命は回避できた。彼が二度とこの店に来ることはない。
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