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第二話「氷の華、来訪」
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クロード・フォン・リヒトバーン公爵。
その名を、この国で知らぬ者はいない。陽光を浴びて輝く銀糸の髪、見る者を射抜くサファイアの瞳、そして神が精魂込めて作り上げたかのような完璧な顔立ち。しかし、彼がまとうのは賞賛の空気だけではなかった。
彼の表情筋は死んでいるのかと噂されるほど一切の感情を映さない。その冷たい美貌から、人々は敬意と畏怖を込めて彼をこう呼んだ。「氷の華」、と。
その華が、生まれながらの呪いによって静かに蝕まれていることを知る者は少ない。
物心ついた時から、彼の体温は異常なまでに低かった。夏でも指先は氷のように冷たく、冬になれば凍傷を心配されるほどだ。そして、それ以上に彼を苦しめているのが、四六時中止むことのない体の痛みだった。骨の髄まで凍てつくような鈍い痛みが、常に全身を駆け巡っている。
名だたる医師も、神殿の聖職者も、誰一人としてこの呪いの原因を突き止められなかった。痛みを和らげる術はなく、クロードはいつしか、痛みと共に自らの感情をも殺して生きる術を身につけていた。
そんな彼の元へ、ある日、側近である老齢の執事が興奮した面持ちで報告を持ってきた。
「クロード様!にわかには信じがたい噂を耳にいたしました!」
「……何だ、騒々しい」
書斎で書類の山と向き合っていたクロードは、顔も上げずに冷たく応じる。彼の日常に、興味を引くものなど何一つない。
「はっ、失礼いたしました。ですが、これは一聴の価値があるかと。……なんでも、あの忌み地として知られる『呪いの沼』が浄化され、奇跡の泉が湧き出たというのです!」
呪いの沼。クロードもその存在は知っていた。領地の片隅にある、誰も近寄らない不毛の地。それが浄化された?馬鹿馬鹿しい。
「くだらん。どこかの村人が流したおとぎ話だろう」
「それが、どうやら真実のようでございます!沼の水はどこまでも澄み渡り、万病に効くという温かい泉が湧いていると!その泉に浸かった老婆の腰痛が、たちどころに治ったとか……」
万病に効く泉。そんなものが実在するはずがない。クロードは執事の言葉を一笑に付そうとしたが、執事は食い下がった。
「旦那様、どうか、一度だけでもその地へ足を運んではいただけませんでしょうか。どのような些細な可能性であろうと、我々は賭けるべきです!」
長年クロードに仕え、彼の苦しみを誰よりも側で見てきた執事の瞳は必死だった。その忠誠心に、クロードは小さくため息をつく。どうせ行っても何も変わらない。それでも、この老人の願いを無下にするのも忍びなかった。
「……分かった。一度だけだ」
「おお……!ありがとうございます!」
数日後、クロードは最低限の供だけを連れてその沼へと向かった。馬車に揺られながら、彼は自嘲する。公爵である自分が、このような根も葉もない噂に振り回されるとは。きっと、そこにあるのはただの少し綺麗になった水たまり程度だろう。
しかし、目的地に到着したクロードは、自らの予想が完全に覆されるのを知る。
馬を降りた瞬間、空気が違うことに気づいた。まとわりつくような湿っぽさがなく、どこか清浄で柔らかな空気に満ちている。そして、鼻腔をくすぐる、懐かしいようでいて初めて嗅ぐ心地よい香り。
森を抜けた先に広がっていたのは、噂以上の光景だった。
かつてどす黒い沼だった場所は、まるで巨大な宝石を埋め込んだかのように、青く澄みきった湖へと姿を変えていた。湖面からはゆらゆらと白い湯気が立ち上り、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「……これは」
同行した側近たちが息を呑むのが分かる。クロード自身も、その非現実的なまでの美しさに、わずかに目を見開いた。
そして、彼は見た。
湖の中央、湯けむりが最も濃く立ち上る場所に、一人の青年が佇んでいるのを。
夜の闇を溶かし込んだような、柔らかな藍色の髪。白い肌。その姿は、周囲の湯気に溶けてしまいそうなほど儚げで、どこかこの世の者とは思えない雰囲気をまとっていた。青年は、ただ静かに湖面を眺めている。
クロードたちの来訪に気づいたのか、青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳は、澄んだ湖の水と同じ、穏やかな青色をしていた。
(……何者だ?)
クロードは、無意識のうちに警戒心を抱いた。あれは、ただの人間ではない。放っている気配が、あまりにも清らかすぎる。まるで、この泉そのものが形を得たかのようだ。
青年――アオイは、突然現れた美しい貴族の一団に驚き、少しだけ身をこわばらせた。
クロードは馬から降りると、一歩、また一歩と湖岸へと近づいていく。
警戒しながらも、彼の体は、この泉が持つ尋常ではない清らかな力に、抗いがたく引きつけられていた。長年、呪いの痛みしか感じなかった彼の魂が、この場所に救いを求めてかすかに震えているような気さえした。
氷の華と謳われる公爵と、元・沼の精霊。
二人の運命が、湯けむりの中で静かに交差しようとしていた。
その名を、この国で知らぬ者はいない。陽光を浴びて輝く銀糸の髪、見る者を射抜くサファイアの瞳、そして神が精魂込めて作り上げたかのような完璧な顔立ち。しかし、彼がまとうのは賞賛の空気だけではなかった。
彼の表情筋は死んでいるのかと噂されるほど一切の感情を映さない。その冷たい美貌から、人々は敬意と畏怖を込めて彼をこう呼んだ。「氷の華」、と。
その華が、生まれながらの呪いによって静かに蝕まれていることを知る者は少ない。
物心ついた時から、彼の体温は異常なまでに低かった。夏でも指先は氷のように冷たく、冬になれば凍傷を心配されるほどだ。そして、それ以上に彼を苦しめているのが、四六時中止むことのない体の痛みだった。骨の髄まで凍てつくような鈍い痛みが、常に全身を駆け巡っている。
名だたる医師も、神殿の聖職者も、誰一人としてこの呪いの原因を突き止められなかった。痛みを和らげる術はなく、クロードはいつしか、痛みと共に自らの感情をも殺して生きる術を身につけていた。
そんな彼の元へ、ある日、側近である老齢の執事が興奮した面持ちで報告を持ってきた。
「クロード様!にわかには信じがたい噂を耳にいたしました!」
「……何だ、騒々しい」
書斎で書類の山と向き合っていたクロードは、顔も上げずに冷たく応じる。彼の日常に、興味を引くものなど何一つない。
「はっ、失礼いたしました。ですが、これは一聴の価値があるかと。……なんでも、あの忌み地として知られる『呪いの沼』が浄化され、奇跡の泉が湧き出たというのです!」
呪いの沼。クロードもその存在は知っていた。領地の片隅にある、誰も近寄らない不毛の地。それが浄化された?馬鹿馬鹿しい。
「くだらん。どこかの村人が流したおとぎ話だろう」
「それが、どうやら真実のようでございます!沼の水はどこまでも澄み渡り、万病に効くという温かい泉が湧いていると!その泉に浸かった老婆の腰痛が、たちどころに治ったとか……」
万病に効く泉。そんなものが実在するはずがない。クロードは執事の言葉を一笑に付そうとしたが、執事は食い下がった。
「旦那様、どうか、一度だけでもその地へ足を運んではいただけませんでしょうか。どのような些細な可能性であろうと、我々は賭けるべきです!」
長年クロードに仕え、彼の苦しみを誰よりも側で見てきた執事の瞳は必死だった。その忠誠心に、クロードは小さくため息をつく。どうせ行っても何も変わらない。それでも、この老人の願いを無下にするのも忍びなかった。
「……分かった。一度だけだ」
「おお……!ありがとうございます!」
数日後、クロードは最低限の供だけを連れてその沼へと向かった。馬車に揺られながら、彼は自嘲する。公爵である自分が、このような根も葉もない噂に振り回されるとは。きっと、そこにあるのはただの少し綺麗になった水たまり程度だろう。
しかし、目的地に到着したクロードは、自らの予想が完全に覆されるのを知る。
馬を降りた瞬間、空気が違うことに気づいた。まとわりつくような湿っぽさがなく、どこか清浄で柔らかな空気に満ちている。そして、鼻腔をくすぐる、懐かしいようでいて初めて嗅ぐ心地よい香り。
森を抜けた先に広がっていたのは、噂以上の光景だった。
かつてどす黒い沼だった場所は、まるで巨大な宝石を埋め込んだかのように、青く澄みきった湖へと姿を変えていた。湖面からはゆらゆらと白い湯気が立ち上り、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「……これは」
同行した側近たちが息を呑むのが分かる。クロード自身も、その非現実的なまでの美しさに、わずかに目を見開いた。
そして、彼は見た。
湖の中央、湯けむりが最も濃く立ち上る場所に、一人の青年が佇んでいるのを。
夜の闇を溶かし込んだような、柔らかな藍色の髪。白い肌。その姿は、周囲の湯気に溶けてしまいそうなほど儚げで、どこかこの世の者とは思えない雰囲気をまとっていた。青年は、ただ静かに湖面を眺めている。
クロードたちの来訪に気づいたのか、青年がゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞳は、澄んだ湖の水と同じ、穏やかな青色をしていた。
(……何者だ?)
クロードは、無意識のうちに警戒心を抱いた。あれは、ただの人間ではない。放っている気配が、あまりにも清らかすぎる。まるで、この泉そのものが形を得たかのようだ。
青年――アオイは、突然現れた美しい貴族の一団に驚き、少しだけ身をこわばらせた。
クロードは馬から降りると、一歩、また一歩と湖岸へと近づいていく。
警戒しながらも、彼の体は、この泉が持つ尋常ではない清らかな力に、抗いがたく引きつけられていた。長年、呪いの痛みしか感じなかった彼の魂が、この場所に救いを求めてかすかに震えているような気さえした。
氷の華と謳われる公爵と、元・沼の精霊。
二人の運命が、湯けむりの中で静かに交差しようとしていた。
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