偽りベータの宮廷薬師は、氷の宰相に匂いを嗅がれ溺愛される

水凪しおん

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第1話「偽りのベータとガラスの瓶」

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 すり鉢の中で潰されていく乾燥した葉が、サクサクと乾いた音を立てる。

 宮廷の奥深く、石造りの冷たい壁に囲まれた薬師たちの作業場には、いつものように鼻を突く薬草の香りと、煮詰められたシロップの甘い匂いが充満していた。

 僕は指先についた緑色の粉を払い、作業台の端に置かれた小さな小瓶を横目で確認する。

 透明なガラスの中で揺れるのは、紫色の液体。

 それは僕、ルチアーノ・フィオーレにとっての命綱であり、この王城で生きるための唯一の鍵だった。

『……あと二本か。今夜中に補充しておかないと』

 心の中でつぶやきながら、僕は周囲に誰もいないことをそれとなく確認する。

 他の薬師たちは、流行り病の特効薬作りや、貴族から注文された美容クリームの調合に追われていて、地味な作業を黙々と続ける僕には関心がないようだった。

 それが何よりもありがたい。

 僕は目立ってはいけないのだ。あくまで、どこにでもいる平凡な「ベータ」の薬師として。

 作業着のポケットに小瓶を滑り込ませ、僕は一度大きく息を吐いた。

 この世界には、男女という性別のほかに、第二の性と呼ばれる区分が存在する。

 支配階層として社会を牽引するアルファ。

 人口の大半を占め、社会の基盤を支えるベータ。

 そして、発情期を持ち、アルファの子を産むことに特化した、希少で弱い存在とされるオメガ。

 僕は、その最下層とされるオメガだった。

 オメガが宮廷薬師として働くことなど、通常ではあり得ない。オメガは通常、保護施設で管理されるか、あるいは裕福なアルファの家庭に囲われるのが常だ。

 けれど、僕はどうしても薬師になりたかった。

 幼い頃に病で亡くした母のように、薬草の知識で誰かを救いたかったのだ。

 だから僕は、己の身体を騙すことにした。

 幸い、僕には薬学の才能があったらしい。独自に開発した強力な抑制薬と、フェロモンの匂いを完全に打ち消す特殊な香油。これらを使い続けることで、僕は五年間、誰にも気づかれることなくベータとして働き続けてきた。

 もちろん、代償はある。

 常に身体の奥底に鉛のような重さを感じ、定期的に襲ってくる微熱と戦わなければならない。

 それでも、誰かの所有物になるよりはマシだと思っていた。

 ***

 夕刻。西日が差し込む回廊を、僕は調合済みの薬箱を抱えて歩いていた。

 騎士団の詰め所へ納品に行く途中だ。

 足早に角を曲がろうとしたその時、前方からカツカツと硬質な靴音が響いてきた。

 複数の足音ではない。たった一人、けれどその一歩一歩が重厚で、聞く者に緊張を強いるようなリズム。

 僕は反射的に壁際へ寄り、頭を下げて通り過ぎるのを待つ姿勢を取った。

 現れたのは、長身の男だった。

 漆黒の礼服に身を包み、銀色の髪を完璧に撫でつけたその姿は、まるで夜そのものを切り取って人の形にしたようだ。

 アレクセイ・ヴォルコフ宰相。

 この国の影の支配者とも呼ばれる、冷徹無比なアルファ。

 彼が近づくにつれ、肌がピリピリと痛むような錯覚を覚える。

 これは、彼が放つ強烈な威圧感のせいだ。

 普通のベータなら「怖い人だ」と萎縮する程度だろうが、正体を隠しているオメガの僕にとっては、天敵に睨まれた小動物のような恐怖を感じさせる。

 彼の匂いを嗅がないように、僕は浅く息をした。

 強いアルファのフェロモンは、抑制薬で抑え込んでいる僕の本能を刺激しかねない。

 アレクセイ宰相は、僕の存在など気にも留めず、冷たい風のように通り過ぎていく――はずだった。

 すれ違いざま、不意に彼の足が止まる。

 心臓がドクリと跳ねた。

「……待て」

 低く、よく響く声が降ってくる。

 僕は硬直したまま、恐る恐る顔を上げた。

 アイスブルーの瞳が、眼鏡越しの僕の目を射抜いている。

 美しい、けれど温度を感じさせない瞳だ。

「は、はい。何か……」

 震えそうになる声を必死に抑え、僕はベータらしく平凡な反応を装う。

 アレクセイ宰相は眉間にわずかなしわを寄せ、鼻をひくつかせた。

「お前、薬師か」

「はい。第三薬務室のルチアーノと申します」

「……妙な匂いがするな」

 血の気が引いた。

 朝、念入りに匂い消しを使ったはずだ。抑制薬も飲んでいる。匂いが漏れているはずがない。

「薬草の……匂いでしょうか。一日中、調合をしておりましたので」

 言い訳が口をついて出る。

 アレクセイ宰相は無言のまま、一歩、僕に近づいた。

 圧倒的な体格差。見下ろされる威圧感に、足がすくむ。

「いや、薬草ではない。もっと……人工的な、何かを塞いでいるような匂いだ」

『嘘だろ……』

 冷や汗が背中を伝う。

 彼は噂に聞く以上に鋭い。あるいは、僕の薬の効果が薄れてきているのか。

 僕の動揺を見透かすように、彼は目を細めた。

「名を、もう一度言え」

「ルチアーノ……ルチアーノ・フィオーレです」

「フィオーレか。覚えておく」

 それだけ言い捨てると、彼は再び歩き出した。

 遠ざかる背中を見送りながら、僕は壁に手をついて大きなため息をついた。

 膝が笑っている。

 心臓の鼓動が早鐘を打っているのは、恐怖のせいだけではない気がした。

 彼の残り香――氷のように冷たく、それでいてどこか甘美な森のような香りが、鼻腔の奥にこびりついて離れない。

 身体の奥が、熱く疼く。

 焦りが胸を焼く。

 僕は震える手でポケットの中の小瓶を握りしめた。

 予定よりも早く、薬を飲まなければならないかもしれない。

 この時の僕はまだ知らなかった。

 あの氷の宰相が、単なる気まぐれで僕に声をかけたわけではないことを。

 そして、この出会いが僕の偽りの平穏を粉々に打ち砕く、終わりの始まりであることを。
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