伯爵令嬢の前途多難な婚活──王太子殿下を突き飛ばしたら、なぜか仲良くなりました

森島菫

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第十三章 決定打

第七十三話 光

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 ※暴力的なシーンがあります(流血表現はありません)。
   苦手な方はご注意ください。



 床が硬い。

 パトリックは腰をひねりながら、体勢を少し変えた。手足を縛られているため、移動は大変だ。

「……っ」

 ひねった拍子に、脇腹に鈍痛が走る。
 先程見知らぬ男に蹴られたのが原因だろう。あまりの唐突さに彼は、男の攻撃を身体で浴びるしか無かったのだ。

 ふう、とため息をつく。
 体勢を変えてもすぐに尻が痛くなってくる。寝転がりたいが、この硬い床では意味を成さないどころか、全身が痛くなる結果しか見えない。

「僕は、どうなるんだろう」

 独り言を呟いた後、乾いた笑いが漏れた。

 殴られ蹴られ、食事も与えられず、何も無い部屋で放置されるこの状況。

 手の自由がきかないため服のポケットに入れている懐中時計は確認できないが、体感的に今は昼頃だろうか。
 昨日の朝、王宮に出かける道中で連れ去られたということは、すでに一日以上が経過していることになる。

「疲れたな……」

 憔悴しきった己の声が、無機質な室内に響いた。



「ここに入ってろ」

 昨日、訳も分からずただ連れて来られた時、パトリックは男にそう言われた。

「早く」
「は、はい」

 手は後ろで縛られていたが、この時はまだ足に自由があった。中へ入ると、男が床を指差す。

「ほら、こっち。座れ」

 怯えながら男を見ると、舌打ちをされた。

「言うこと聞いてりゃ、悪いようにはしねぇよ」

 抵抗したいが、この男をこれ以上苛立たせるのは得策では無い。パトリックは急いで男の指し示す場所に座った。

 それから男は出ていき、鍵をかける音がした。
 扉を見ると、鍵穴が加工された跡がある。中から開けられないように、細工しているらしい。

 それから夜が更け、朝日がのぼっても、彼は放置された。時折誰かの足音がするものの、部屋に入ってくる気配は無い。

「お腹がすいたな」

 昨日は男達に危害を加えられるのではないかと怯えてほとんど空腹を感じなかったが、今日のパトリックは空腹を感じられる余裕が出てきている。

 しかし、どうせ食事は運ばれてこない。
 扉の先の男達にはそうするつもりが無いことを、彼は何となく察しているのだ。

 暇を持て余した両目は、部屋のあちこちを観察することになった。

 今座っている床は木製だ。所々ささくれていたり、何かを引きずった跡が残っていたりする。

 使っていた痕跡があるということはおそらく、空き家なのだろう。何かの事情で家主がいなくなったこの家は、自分を連れ去った男達の隠れ家として機能しているのかもしれない。

 壁一面も木製の板が使われていた。それを踏まえて考えると、ここはトリジア王国内のはずだと思った。

 連れ去られる時に薬か何かを嗅がされ意識がなくなったため、ここがどこなのか正確には分からない。

 しかし少なくとも、ロワイユ王国では無いことは確かだ。あの国は海に面しているせいで塩害が多く、建築物に木材はあまり使われない。

 これは、建築事業で勉強した際に覚えた知識だった。

 それにしても、がらんとしている。パトリックは改めて室内を見渡した。

 机も無い。椅子も無い。時計も無い。寝台も布団も枕も無い。この部屋には何も無い。

 一応窓は一つある。貴族の家の窓と比べたら小さいが、城下町や地方の庶民的な家なら普通なのだと思う。

 これも建設事業の調査の一環で、一般的な家の構造を確認した際に知った。

「こんなところで役に立つなんて」

 何の因果かと苦笑する。するとその時、ふと気付いた。

「そうか……窓だ」

 今脱出できる唯一の出入り口。昨日は考えることすらできないほど怯えていたものの、何もない室内と空腹も相俟って、外に出たかった。

 手は縛られたままだ。しかし、それさえ解いてしまえばすぐに脱出できるはず。

 温和な見た目から脱出などできるはずが無いと思われたのか、窓には鍵を細工した様子が見られなかった。

「どうやって解こう」

 パトリックは室内を見渡した。
 今度は観察のためではない。縄を切る手段を見つけるためだ。そしてそれは、案外すぐに見つかった。木のささくれである。

 壁や床の板から飛び出ているささくれを利用して、縄を切れば良い。強度はかなり心配だが、頑丈そうなものを見繕って千切り、いくつも重ねれば何とかなるだろう。

 この部屋で他にやることなどないのだから、時間はたっぷり使える。

「空き家が古くて助かった」

 建築事業がもっと早く始動していれば、この空き家は新しく立て替えられていたかもしれない。となると、ささくれ作戦は効力を発揮しない。
 もっともその場合は誰かが住むだろうから、犯罪組織の隠れ家に使われることは無いはずだが。

 ともかくパトリックは、懸命に縄に切れ込みを入れようとした。縛られたままで手を動かすのは、なかなか難しい。それでもここから逃げるため、彼は必死だった。

 そして──。

「切れた……!」

 ようやく、縄が解けた。奇跡だった。

 久しぶりに自由になった両手を見れば、赤い線がくっきりと浮かんでいる。やや痛みは残っているが、そんなことはどうでも良かった。

 ここは二階だ。飛び降りたとしても、死ぬ確率はそれほど高くない。

 パトリックの鼓動が高鳴る。

「よし」

 鍵を開けようと手を伸ばす。しかし、金具が錆びているらしい。ここにきて、築年数が仇となっている。
 やや手こずりながら、彼は金具を小刻みに動かした。

「これさえ開けば……っ」

 外界への脱出寸前で、彼は夢中になっていた。夢中になり過ぎて、部屋に近づく足音に気付くのが遅れた。

「おい」

 扉が開くのと、パトリックが振り向くのは同時だった。

 男と目が合う。光など一切ない、仄暗い目。まずいと思ったその時、彼は床に叩きつけられていた。

「……っ!」

 容赦の無い激痛が、背中と頭を襲う。そして次の瞬間には、脇腹にも鈍い圧力が襲いかかった。

 痛いという単語では言い表せない。

 受け止める準備すら整っていない生身に、大の男の蹴りが命中したらどうなるか。これまでの人生ならば想像することさえ無かった世界線に、パトリックは今、落とされた。

「言うこと聞いてりゃ悪いようにはしねぇって、聞こえなかったか?」

 激痛に身悶える暇もなく胸ぐらを掴まれる。男の無表情が、かえって恐怖を助長させた。

「坊っちゃんだと思って厳重に監禁してなかったもんなぁ。まさか縄を解くなんて。ちょっくら仕置きが必要か」

 震える息が出るばかりで、言葉にならない。

「こっちはな、場合によっちゃお前が死んでも文句はねぇって言われてんだよ」

 低く、抑揚の無い声。人の命を何度も軽々と奪ってきたような、温度の無い声。

 出会ったことなどあるはずもないのに、パトリックは悟った。この男は殺し屋だと。

「今やっても良いけどよ、後処理が面倒なんだわ。次はねぇぞ」
「は……はい」

 振り絞って返事をすると、男はパトリックの胸ぐらを勢い良く離した。その拍子に再び床に背中を打ち付け、一瞬息が止まる。

 男はそんなパトリックの手足をきつく縛って座らせると、窓を板で塞いだ。そして、部屋を出て行く。鍵の閉まる金属音が響き、静寂が訪れる。

 日光を取り入れる窓が無くなったことで、室内はかなり暗くなった。壁のささくれを数えることもできないほどに。



 それが、つい先程の出来事だ。パトリックは回想から離れ、現実に引き戻された。

 もう、脱出は絶望的だ。次見つかれば、おそらく殺されるだろう。

 ぼんやりと真正面を見つめながら悟る。

 人間が壊れる原因は、精神と肉体のどちらだろうか──暗闇に包まれた部屋の中で、そんな疑問が浮かんできた。

 答えは出ない。ただ、絶望と物理的暴力そのどちらもを喰らわされた自分は、このままだとそれほど長くもたないかもしれないということは分かった。

 再び、全身に痛みが走る。息が上手く吸えない。壁にもたれるこの体勢ですら、楽とは言えなくなってきた。

 ゆっくりと、目を閉じる。

 思い浮かんだのは、申し訳なさ。
 領地の取引で打撃を受けた両親。画家の卵としての援助を受けられなくなった妹ヴァレリア。

 そしてリゼ王女の策略を知りながら、危険を伝えられなかったフォード伯爵令嬢。自分が今拉致されているということは、おそらく彼女も──。

 こんなことになるなら、もっと違う選択肢を選べば良かった。他の選択肢など、あったのかどうか分からないが。
 いや、無いなら作れば良かったのだ。きっと分岐点は作れた。誰かに助けを求めれば、もしかすると変わったかもしれない。

 一人で抱え込んで、悩んで、最悪の結果を引き寄せてしまった。

「殿下への恩返しも、できないままだったな……」

 彼への見方が変わって、自分自身も変わって、ようやく新しい舞台へ進もうとしていたところだった。それももう、叶う保証は無い。

 他でもない、己の行動のせいで。

「…………ごめんなさい……」

 できれば、直接言えたら良かったな。

 徐々に薄れる意識の中で、パトリックはそんな風に後悔した。

 ところがその時、突然扉の外が騒がしくなった。続いて、誰かの喚き声。何かが倒れる音。近付いてくるのは、複数人の足音だ。それから──。

「見つかりました!!」

 扉が開くと同時に、眩しい光が飛び込んで来た。

 閉じかけのまぶたと逆光のせいで、相手が誰なのかはよく見えない。しかし、腰にさしているらしき剣が何を示しているのかは分かった。

 貴族庶民問わず、誰もが一度は憧れる組織の一員だという証。それを持っているのは、トリジア王国内にただ一つしかない。

 王宮警備隊である。

「大丈夫ですか……!」

 呼びかけてくれた声の頼もしさ。パトリックは、穏やかな表情で意識を手放した。
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