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ノックをするといつものように中から返事があった。
紛れもなく千草の声だ。
たった一枚扉を隔てたすぐ傍から聞こえる声に緊張が高まる。
「……失礼します」
昭仁はそう一言添え、扉を開いた。
中ではいつもの席に千草が座っていて。
入ってきた昭仁と目が合った。
「お前……」
千草は一瞬驚いたように目を見開いたが、その目はすぐに逸らされてしまった。
たった一瞬の視線に鼓動は高鳴る。
「あの……」
「何しに来た。さっさと出て行け」
昭仁が何かを言う前に遮るように挟まれる冷たい声。
棘があり全身で拒絶している様子に胸が痛む。
(……当然だよな)
自分が千草の立場でも同じような反応をすると思う。
だがそれにショックを受けている場合ではない。
先日見かけた時よりも悪い顔色が気になって仕方がない。
「千草さん、いつから休んでないんですか?食事は?」
「お前に関係ないだろ。良いから出て行け」
そう言い返すがやはり覇気がない。
昭仁は一歩、また一歩と千草に近付く。
「出て行きません」
「!」
「お願いします、休んで下さい」
机の目の前までやってきてそう懇願する。
これ以上無理をするのはいけない。
このままでは千草が倒れてしまう。
それくらい限界が来ているようだった。
「はっ、俺が休もうが休むまいが関係ないだろ」
だが懇願する昭仁を千草は鼻で笑う。
「何度言わせるつもりだ?お前にはもう関係ない事だ。放っておけ」
「あ……!」
立ち上がり昭仁との距離を取る千草。
机を大きく回り、そのまま部屋を出て行こうとする千草の腕を取る。
「こんなに顔色悪くしてふらふらのアンタを放っておけるはずがないでしょう!?」
「っ、離せ!」
「嫌です!」
「な……っ!?」
そのまま千草の身体を持ち上げ、部屋の奥にある仮眠室へと連れて行った。
所謂お姫様抱っこの格好。
千草は暴れるが、食事も睡眠も満足にとらず疲弊しきった彼と運動部で体格の良い昭仁の力の差は歴然。
「おい!離せ!降ろせ!命令が聞けないのか?!」
「俺はもうアンタとは関係ないんでしょう?なら命令を聞く必要もありませんよね」
「っ、お前……!」
抵抗をものともせずに押さえ込み、その身をベッドの上にそっと降ろした。
「ひとまず眠って下さい」
「……っ」
布団を掛け、逃げられないように横に座る。
「その間に食事を用意しますから」
そう言いながら千草の目元を指の背で撫でる。
健康的で輝いていた肌からハリがなくなりクマが出来ている。
目は充血しているし、やはり少しやつれたようだ。
僅かに頬がこけている。
「お願いします、少しで良いですから」
出来るだけ優しく告げる昭仁。
千草は起き上がろうとするのを諦めたのか、力を抜いてシーツに背を預けた。
「……眠れって言われても、眠れないんだよ」
昭仁の手を払い、目元を腕で隠した千草がそう呟く。
「眠れない?いつから?」
「……」
返事はない。
あの別れを告げる前まではちゃんと眠れていたはずだ。
ではいつからだろう。
急激に仕事が忙しくなったという訳ではない。
意図的に忙しくはしていたのだろうが……
そこではたと気付く。
まさかあの別れの日から全く眠っていないのだろうか。
「まさか、あれからずっとですか!?」
「っ、自惚れるな!別に、お前がいなくなったから眠れなくなった訳じゃ……!」
「え?」
「あ……!」
言われたセリフにぽかんとする。
(え?今、何て……?)
聞き間違いでなければ、昭仁がいなくなったから、と言わなかっただろうか。
「……俺がいなくなったから、眠れなくなったんですか?」
「っ、違う!」
すぐさま否定されるがもう遅い。
むしろその否定の仕方が肯定しているようなものだ。
申し訳ないと感じる以前に、その事実に嬉しさが込み上げてくる。
悔しそうに唇を歪めこちらに背を向ける千草。
顔は相変わらず腕で隠されてしまっているが、その耳が僅かに赤く染まっている。
「良いからさっさと帰れ!どうせ彼女が家で待っているんだろ!?」
「アンタが寝るまで帰りません」
「帰れ!」
「嫌です!」
そんな問答が続き。
帰る気配も言う事を聞く気配もない昭仁に千草の感情が爆発した。
「お前が言ったんだぞ!?俺との関係を終わりにしたいと!それを俺は受け入れた!」
確かにその通りだ。
「なのにどうしてまた来るんだ!?どうして放っておいてくれない!?」
「それは……」
「どうせ最初から命令に逆らえなかっただけだろう?それを解放してやったのに、どうして今更……っ」
千草の声が僅かに震えている。
声ばかりではない。
目を覆う腕も、身体も、ほんの僅かだが震えている。
「どうしてか知りたいんですか?」
「知りたくない!そんなのどうでも良い!」
そんな千草に静かに訊ねると即座に拒否される。
「俺の望みは一つだけだ!早く出て行け!」
その声はやはり震えている。
「……千草さん」
「……っ」
昭仁は千草の腕にそっと自分の手を添え。
あの時、この関係を止めたいと言ったときに言えなかった本心を明かし始めた。
「俺がアンタとの関係を終わりにしたかったのは、アンタが俺じゃなくても良いと思ったからです」
「……何?」
「俺は、俺だけを求めて欲しかった。俺だけだと言って欲しかった」
あの時、あの婚約者の彼女に会って話を聞くまでは確かにそうだと自惚れていた。
だがそうではないと気付かされた。
千草には婚約者がいて。
自分以外にもそれまでに関係を持った相手もきっといて。
自分に手を出したのもきっと……
「でもアンタが俺とそういう事をするのは単純にお手軽だからだって気付いたから」
「お手軽、だと……!?」
そうに違いないと思って言ったセリフが千草によって遮られる。
「お前、男が男に身体を差し出すのにお手軽だからの一言で済むと思ってるのか!?」
ガバッと勢い良く起き上がり昭仁の胸倉を掴む千草。
その瞳には涙が滲み、寝不足と相まって真っ赤に染まっている。
「俺は、お前だったから、だから抱かれるのも受け入れたのに……!」
「……え?」
「あ……!」
本日二度目の、千草にとっての失言である。
「俺、だから?」
確かめるように呟く。
今聞いたセリフは現実の物なのかと疑いたくなる程の幸福に包まれる。
千草は言ってしまった事が恥ずかしいのかいたたまれないのか。
再び背を向け、今度は布団を頭から被り叫ぶ。
「何でもない!今のは忘れろ!」
そんな事を言われても忘れられるはずがない。
昭仁は衝動のままに、布団にくるまる千草を背後から抱き締めた。
びくりと震え暴れ出す身体。
だが、やはりその力は弱く昭仁にとっては子猫がじゃれついてきているような物にしか思えず。
「っ、離せ!」
「嫌です、ちゃんと答えて下さい」
抱く腕に力を込め、温もりを確かめる。
「俺だからですか?俺だから、抱かれてくれたんですか?」
「……っ」
言葉を詰まらせる千草。
頼む、頷いてくれと。
確信しているのにも関わらずそう願う昭仁。
やがて聞こえてきた絞り出すような声。
「……だったら、どうだって言うんだよ?」
千草がそう話し始めた。
「お前だからと言った所で、お前が手に入る訳じゃない。お前は女の方が良くて、俺の傍にいるのが嫌だったからやめにしたかったんだろう?」
「っ、違います!」
「違う?」
「さっきも言ったじゃないですか!俺は、俺だけだと言って欲しかったから……!」
「だから何だ、俺がお前だけだと言ったからといって、お前は俺の物になるのか?違うだろう?」
「それはアンタの方でしょう!?」
「あ?」
「アンタには婚約者がいて、いずれ結婚して、会社を継いで、俺みたいな何万人もいる平社員の事なんてすぐに忘れるに決まってる!だから、そうなる前に……!」
「待て、婚約者ってのは何の話だ」
「え?いや、だから高柳さん?でしたっけ?婚約者なんですよね?」
「は!?」
「え?」
驚き、せっかく隠れた理由も忘れ布団から顔を出す千草。
「その話はとっくに断ったはずだ」
「断った?」
婚約の話はずっと前からあった。
しかし千草にその気はなく、ずっと断り続けていた。
それに納得のいかなかった彼女が暴走し、千草の身辺を調査し、あの日ついに昭仁への攻撃へと変わったらしい。
「な、何ですかそれ!?じゃあ俺は何の為に……!」
その説明に思わず頭を抱える昭仁。
だがそれと同時に婚約していなかったのだとホッとする。
「……お前は、俺が命令したから受け入れていたんじゃないのか?」
「初めはそうでした」
おずおずと訊ねてくる千草にそう答える昭仁。
「でも、だんだんとアンタが可愛く見えてきて」
「かわ……?」
「どんな理不尽な扱いを受けても、どんな酷い言葉を吐かれても殴られても蹴られても、もう俺はアンタしか見えないんです」
改めて言葉にすると随分と酷い扱いを受けていたものだ。
「……そんな言葉じゃわからん」
「え?」
「はっきりと言え」
「……!」
まっすぐに昭仁を見つめる千草。
僅かに睨みつけるような瞳だが、その頬は赤く染まっている。
(……っ、その顔は反則だろ)
久しぶりな上に少なからず想いを寄せられていると気付いたばかりの昭仁にとって、その表情は可愛い以外の何物でもない。
すぐに触れたい。
抱き締めたい。
唇を奪いたい。
その身体の全てを奪いたい。
そんな気持ちをひとまずは抑え……
「……アンタが好きです」
「!」
「誰よりも、アンタだけを愛してるんです」
「……そうか」
はっきりと告げたセリフに千草は満足そうに頬を緩める。
それが可愛くて、昭仁は堪えきれずにその瞼にキスをする。
「ん……」
「千草さん……っ」
抵抗もせずそれを受け入れ目を細める千草。
昭仁はその背を柔らかなベッドのシーツに押し倒しながら、顔中にキスを繰り返し。
そのまま唇に触れ……
「アンタはどうなんですか?俺の事……」
そう訊ねようとしたのだが。
「……ん?」
「……」
ベッドに沈んだ千草から聞こえる小さな寝息。
「……マジかよ」
はーっと大きな溜め息を吐きつつ、
(まあしょうがないか。最近眠れてなかったんだから)
自分がいる事でこんなにも安心して眠ってくれるのならこんなに嬉しい事はない。
そう思い、しょうがないなあと笑みを浮かべる。
だがこのまま離れるのはどうにも難しく。
(……抱き締めるだけなら良いよな?)
まだちゃんとした返事は貰っていない。
だがそのくらいなら良いだろう。
昭仁はそう思い、千草の身体を抱え直し共に布団の中へと潜り込んだ。
*
その翌日。
「起きろ!いつまで寝てるつもりだ!」
「あだ!?」
ベッドから叩き落とされる昭仁。
その犯人は当然この場に一緒にいるただ一人の人物、千草である。
(あれ?俺、昨日告白したよな?ていうかちゃんと話し合ったよな?あの可愛い姿は幻だったのか?え?夢?)
あまりに乱暴なその仕草に思わず首を傾げる昭仁。
眠りに落ちる前の想像では、
『おはようございます、千草さん』
『……モモ』
『昨夜の返事、聞かせて貰えますよね?』
『……ああ』
なんて、腕の中で恥ずかしそうに目を逸らし可愛い可愛い告白を聞いていたのに。
現実はこんなにも自分を裏切るものかとがっくりと肩を落とす。
「おい、お前がいなくなってから仕事が全く捗らん。これを持っていけ」
「!これは……!」
予め用意してあったらしい書類を渡される。
それは再びここに、千草の傍に戻る為に必要な書類だった。
その名前の欄には昭仁の名前が書かれていた。
「用意してくれていたんですか?」
そう言えば新しい補佐は入れていないと聞いていた。
「まさか、俺が戻るのを待って……?」
「自惚れんな。他に候補がいなかっただけだ」
「……素直じゃないんだから」
千草のセリフに喉を鳴らし、唇を奪う。
「な……!」
「荷物持ってすぐ戻ってきますね!行ってきます!」
一瞬の事で怒鳴る間もなく昭仁は千草から離れバタバタと仮眠室から抜け出す。
千草は自分の顔が熱くたっているのに気付きながら、その背に向かい……
「……早く戻って来い」
祈るように、そうぽつりと小さく呟いた。
終わり
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