花嫁御寮 ―江戸の妻たちの陰影― :【第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞】

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第十一話 女中頭おふさの過去

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 春の夜はまだ浅く、庭に咲いた椿の花びらが風に運ばれていた。
 それはまるで、かつて誰かが落とした言葉や、過去の想いが、今になって澪の手のひらに届こうとしているかのようだった。

 書見の間に灯る行灯の明かりが揺れる。

 その灯の中で、澪は小さく問いかけた。

 「……おふさ。あなたは、宗真様の父上――宗英様に、仕えていたのですね」

 おふさの手が、少し止まった。
 湯を汲んだ動きのまま、静かに湯飲みを澪の前に差し出した。

 「……そうでございます」

 「おふさ、私はもう、屋敷の中で何が起きているか、すべて知りたいのです」

 その声に、年老いた女中頭の眉が動いた。
 それは、堅く閉ざされた障子が、風にきしむような音だった。

 

◇ ◇ ◇

 「宗英様は、気骨のある方でございました。
  義理も人情も重んじ、女中や中間(ちゅうげん)たちにも分け隔てなく接してくださる――そんな、少しばかり不器用なお方で」

 おふさは、静かに言葉を紡ぎ始めた。

 「けれどその分、“家”の理には疎かった。特に、大石勘解由様とは――ぶつかることが多うございました」

 「ぶつかる、とは?」

 「宗英様は、金の使い道について疑問を持っておられたのです。
  当時から神田屋との付き合いが濃く、年に一度の上納金の一部が“消える”ようなことがございました」

 「……まさか、その頃から……」

 「勘解由様は、“出すところに出せば、家が潤う”と仰った。
  けれど宗英様は、それが“家の正しさ”とは違うと感じておられたようで……帳面の写しを取っておられたのです」

 澪の胸がざわついた。

 (宗真様と、同じ……)

 「それが、家中に漏れた時……宗英様は“病”として表に姿を見せなくなり、やがて……亡くなられました」

 「……それは、本当に病で?」

 おふさの目が、ゆっくりと澪を見た。

 「私には、そうは思えませんでした。
  そして……宗真様は、そのことをきっと、知っておられた」

 澪は言葉を失った。

 夫は、父の死に疑いを持ち、その道をなぞるようにして、帳面の写しを残した――
 それはもはや偶然ではない。父の志を継ぐ覚悟だった。

 

◇ ◇ ◇

 「それで……おふさは、なぜそのことを、いままで……」

 「御寮人様。私は、“女”としての御身をお守りするために、口を閉ざしておりました。
  奥方というのは、“知らぬふり”を通してこそ、守られるものもございます」

 「けれど、私はもう、“守られる側”でいたくありません」

 おふさは、ふっと細く笑った。

 「……ようやく、宗真様と似てこられましたな」

 澪の瞳が揺れた。

 「お若い頃の宗真様は、怖いほど“父親に似て”おられました。
  静かで、穏やかで、けれど一度決めたら、どこまでも引かぬ。
  その信念の深さを、私はずっと見てまいりました」

 「……宗真様は、父上の遺志を継いで、この家の中にある“闇”と、向き合おうとしていたのですね」

 「はい。そして、あなたもまた、いまその道を歩いておられる」

 

◇ ◇ ◇

 行灯の火が、少しだけ揺らいだ。
 それは、灯芯に残った湿り気が音もなくはじけたからだ。

 けれど澪には、それがまるで、宗英――宗真の父の“声”のように思えた。

 (宗英様、あなたの想いは、いま宗真様を通して、そして私へと渡ってきました)

 「……おふさ」

 「はい」

 「私、戦います。家のためではなく、“志”のために」

 おふさは何も言わなかった。ただ深く、澪に頭を下げた。

 女中頭の礼は、御寮人に捧げるものではない。
 けれど今、その頭の低さは、ひとりの女としての敬意だった。

 

◇ ◇ ◇

 その夜、澪は宗真の机の前で一人、筆を取った。
 真夜中の静けさの中に、硯の水音と紙を滑る筆先の音だけが響いていた。

 書き綴る文は、もはや宗真に宛てたものではなかった。

 それは、自分自身に対する“覚書”であり、
 次に進むための、“道しるべ”だった。

「義の前に立つこと、恐れず
 女の名に生きること、恥じず
 命を燃やすなら、言葉にて
 我が夫の名を、灯火とせん」

 筆を置いたとき、夜明けの兆しが障子を淡く照らし始めていた。
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