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一章「香る火、沈む根 - root of the evening」
第7話「昼の音、潮の香りと根の味」
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港町ルアーナの市場には、朝の余韻と昼の熱気が交じりあっていた。
張られた布の下には干し魚や果実、根菜、海藻、香辛料。
通りを挟んで声が飛び交い、袋を持つ手が揺れるたびに風に晒された魚の尾がひらりと跳ねた。
潮の香りと、人の汗と、野菜の青い匂いが入り混じって、どこを向いても鼻先をくすぐる。
石畳には濡れた足跡が点々と残り、店先には水を撒く音が絶えない。
ひとり、ふたりと擦れ違う背に、麦わらの影と鎧のきらめきが交差する。
粗末な布を頭に巻いた主婦たち、鉤爪を下げた冒険者、革鎧を身に着けた街の衛兵。
市場は、町のすべてを縮めて詰め込んだような雑多さにあふれていた。
その真ん中を、ベネリオ・ファルカが歩いていた。
腕組みをして、足取りは重く、けれど視線だけは絶えず流れている。
昨夜、焼いて出したラーフの──あの根の香りが、まだ鼻の奥に残っていた。
「……あの根菜、こっちにも回ってきてりゃ、文句なしなんだがな」
ぽつりとつぶやき、立ち止まる。
並んだ木箱を覗き込む。
黒ずんだ皮に泥がこびりついた大ぶりの根菜。だが、どれもあの香りではない。
切り口を見れば水気が多すぎ、土の匂いも薄い。
似て非なるもの──と判じ、ため息混じりに立ち去ろうとした、そのとき。
「──おい、大将!」
声が飛んだ。
振り返ると、漁網を巻いた肩越しに、陽に焼けた親父が手を振っていた。
網の奥、貝の入った桶をがしっと掴んで突き出してくる。
「今朝のやつだ。磯で拾ってきた。持ってけ、少しなら分けられる」
ベネリオは目を細めた。
「……見返りは?」
「べつにねぇよ。強いて言やぁ……今夜、汁もんにでもしてくれりゃ、嬉しいってだけさ」
「ったく……恩を売りに来やがって」
笑みを浮かべ、桶からひと握りぶんの貝を受け取った。
掌にのせると、潮を含んだ殻がぬめり、わずかにひらいた口の内側で白い身が震えている。
「これは……干物にすりゃ肴になるし、剥いて炊いても出汁になるな」
「そうだろ? 味の出るやつばかり選った。あんたの火なら、こいつらも喜ぶさ」
礼も言わずに軽く顎をしゃくると、漁師の親父はもう別の客の相手に戻っていった。
ベネリオは、手の中の貝をしばし見つめていた。
ふと、目を閉じる。
貝の出汁。根の甘み。潮の香り。塩と、香草──
浮かんだ組み合わせに、胸の奥でひとつのかたちがまとまる。
「……ああ。煮るか」
口に出したとたん、腹の奥が決まったように落ち着いた。
けれど、足だけは止まらなかった。
──まだ、あるかもしれねぇ。
そう思った。
ラーフ。あの赤紫の根。
リモンが持ち込んだ北の芋。土の匂いと芯の甘み。焼けば焦げる皮の下に、やわらかな乳白の身。
火にかければ、言葉をいらなくする食材。
それを、今夜は煮てみたかった。
塩と香草と貝の出汁──そこに、あの根の甘みがひと匙でもあれば、静かな一椀ができる。
ならば、探してみるのも悪くはない。
ベネリオは、いつもの帰り道から意図的に外れた。
市場の北側、乾物屋と香草の並ぶ細い通りを抜け、その先の影になる露地へと足を向ける。
そこは地元の者でもなければ寄らないような、少し湿った一角。
日陰に野菜を積む屋台が三つ、無造作に並んでいた。
「やぁ、大将。珍しいね、こっち通るなんて」
手ぬぐいを頭に巻いた中年の女が、声をかけてきた。
木箱の影から、くすんだ芋をひとつ持ち上げて見せる。
「さっき、北の船がひとつ着いててな。荷が少し流れてきたけど……ほら、こんなもんでいいのかい」
ベネリオは目を細め、黙って近づいた。
それは、似ていた。だが、ちがった。
形も色も近い。だが皮の質がちがう。匂いに、芯がない。
「……悪いな。ちっと違う」
「やっぱり? 朝の若い商人も言ってたよ、“本物はもっと重たい”って」
リモンの顔が浮かんだ。
まったく──あの軽口のくせに、舌だけはまともだ。
肩をすくめて立ち去ろうとしたとき、別の店先にごそっと音がした。
古い布をめくった下に、わずかに赤味の強い皮が覗いた。
長く伸びた根の先が乾いて曲がり、薄く土の粉をまとっている。
ベネリオは、しゃがんでそれを手に取った。
──重い。
見た目より、手応えがある。湿り気は少なく、けれど身は詰まっている。
切ってみなければ分からない。だが、この感触は──近い。
「こいつ、どこで手に入れた」
「さっき、北の爺さんが置いていったやつ。名前も言わずに、“火にくべりゃ分かる”ってさ」
ベネリオの口元が、わずかに動いた。
「火にくべりゃ、か……」
ひとつだけ手に取り、掌で転がした。
煮るなら、薄切りにして、出汁に馴染ませる。皮は剥くか否か。味を見てからだ。
包みに収め、代金を渡す。
女が数を数える間にも、頭の中ではもう献立の並びが組まれはじめていた。
──ひと匙の甘みが、夜を変える。
その予感だけで、今日という昼が報われる気がした。
張られた布の下には干し魚や果実、根菜、海藻、香辛料。
通りを挟んで声が飛び交い、袋を持つ手が揺れるたびに風に晒された魚の尾がひらりと跳ねた。
潮の香りと、人の汗と、野菜の青い匂いが入り混じって、どこを向いても鼻先をくすぐる。
石畳には濡れた足跡が点々と残り、店先には水を撒く音が絶えない。
ひとり、ふたりと擦れ違う背に、麦わらの影と鎧のきらめきが交差する。
粗末な布を頭に巻いた主婦たち、鉤爪を下げた冒険者、革鎧を身に着けた街の衛兵。
市場は、町のすべてを縮めて詰め込んだような雑多さにあふれていた。
その真ん中を、ベネリオ・ファルカが歩いていた。
腕組みをして、足取りは重く、けれど視線だけは絶えず流れている。
昨夜、焼いて出したラーフの──あの根の香りが、まだ鼻の奥に残っていた。
「……あの根菜、こっちにも回ってきてりゃ、文句なしなんだがな」
ぽつりとつぶやき、立ち止まる。
並んだ木箱を覗き込む。
黒ずんだ皮に泥がこびりついた大ぶりの根菜。だが、どれもあの香りではない。
切り口を見れば水気が多すぎ、土の匂いも薄い。
似て非なるもの──と判じ、ため息混じりに立ち去ろうとした、そのとき。
「──おい、大将!」
声が飛んだ。
振り返ると、漁網を巻いた肩越しに、陽に焼けた親父が手を振っていた。
網の奥、貝の入った桶をがしっと掴んで突き出してくる。
「今朝のやつだ。磯で拾ってきた。持ってけ、少しなら分けられる」
ベネリオは目を細めた。
「……見返りは?」
「べつにねぇよ。強いて言やぁ……今夜、汁もんにでもしてくれりゃ、嬉しいってだけさ」
「ったく……恩を売りに来やがって」
笑みを浮かべ、桶からひと握りぶんの貝を受け取った。
掌にのせると、潮を含んだ殻がぬめり、わずかにひらいた口の内側で白い身が震えている。
「これは……干物にすりゃ肴になるし、剥いて炊いても出汁になるな」
「そうだろ? 味の出るやつばかり選った。あんたの火なら、こいつらも喜ぶさ」
礼も言わずに軽く顎をしゃくると、漁師の親父はもう別の客の相手に戻っていった。
ベネリオは、手の中の貝をしばし見つめていた。
ふと、目を閉じる。
貝の出汁。根の甘み。潮の香り。塩と、香草──
浮かんだ組み合わせに、胸の奥でひとつのかたちがまとまる。
「……ああ。煮るか」
口に出したとたん、腹の奥が決まったように落ち着いた。
けれど、足だけは止まらなかった。
──まだ、あるかもしれねぇ。
そう思った。
ラーフ。あの赤紫の根。
リモンが持ち込んだ北の芋。土の匂いと芯の甘み。焼けば焦げる皮の下に、やわらかな乳白の身。
火にかければ、言葉をいらなくする食材。
それを、今夜は煮てみたかった。
塩と香草と貝の出汁──そこに、あの根の甘みがひと匙でもあれば、静かな一椀ができる。
ならば、探してみるのも悪くはない。
ベネリオは、いつもの帰り道から意図的に外れた。
市場の北側、乾物屋と香草の並ぶ細い通りを抜け、その先の影になる露地へと足を向ける。
そこは地元の者でもなければ寄らないような、少し湿った一角。
日陰に野菜を積む屋台が三つ、無造作に並んでいた。
「やぁ、大将。珍しいね、こっち通るなんて」
手ぬぐいを頭に巻いた中年の女が、声をかけてきた。
木箱の影から、くすんだ芋をひとつ持ち上げて見せる。
「さっき、北の船がひとつ着いててな。荷が少し流れてきたけど……ほら、こんなもんでいいのかい」
ベネリオは目を細め、黙って近づいた。
それは、似ていた。だが、ちがった。
形も色も近い。だが皮の質がちがう。匂いに、芯がない。
「……悪いな。ちっと違う」
「やっぱり? 朝の若い商人も言ってたよ、“本物はもっと重たい”って」
リモンの顔が浮かんだ。
まったく──あの軽口のくせに、舌だけはまともだ。
肩をすくめて立ち去ろうとしたとき、別の店先にごそっと音がした。
古い布をめくった下に、わずかに赤味の強い皮が覗いた。
長く伸びた根の先が乾いて曲がり、薄く土の粉をまとっている。
ベネリオは、しゃがんでそれを手に取った。
──重い。
見た目より、手応えがある。湿り気は少なく、けれど身は詰まっている。
切ってみなければ分からない。だが、この感触は──近い。
「こいつ、どこで手に入れた」
「さっき、北の爺さんが置いていったやつ。名前も言わずに、“火にくべりゃ分かる”ってさ」
ベネリオの口元が、わずかに動いた。
「火にくべりゃ、か……」
ひとつだけ手に取り、掌で転がした。
煮るなら、薄切りにして、出汁に馴染ませる。皮は剥くか否か。味を見てからだ。
包みに収め、代金を渡す。
女が数を数える間にも、頭の中ではもう献立の並びが組まれはじめていた。
──ひと匙の甘みが、夜を変える。
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