炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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一章「香る火、沈む根 - root of the evening」

第8話「湯気の底、根と潮と」

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 店が開く前の夕刻ゆうこく。通りには、まだ人通りがまばらだった。けれど、火の匂いはすでに空気に溶けていた。しおと熱気と、わずかな炭の気配が混ざり合い、町の奥へと、ゆるやかに流れてゆく。

 朱色しゅいろひさしの下。名もなき居酒屋の奥では、ベネリオが炭の加減を見ていた。火箸ひばしを手に、赤くともった芯をひとつずつ並べ直していく。炭の組み方で火の息は変わる。今日の火は、昨日よりも弱く、深く沈む──出汁だしをじっくり引き出すための火だった。

 鉄鍋には、すでに水が張られ、殻つきの貝が沈められている。午前中に親父おやじから受け取ったばかりの貝。砂は抜け、香りだけが澄んでいた。火を入れてすぐ、白い湯気がふわりと立ちのぼる。それは、いその気配と火の奥行きを混ぜた、静かな香りだった。

 その脇に添えられていたのは、“ラーフ”の薄切り。昨日とは違う個体。芯が白く、熱を通せばとろりと崩れる。焼くよりも煮るに向いた、やわらかな根。ベネリオはそれを、ゆっくりと鍋へ落とすと、炭に目を戻す。火は、応えていた。

 ふいに、戸が控えめに鳴った。音はふたつ。続けて、そろそろと扉が開いた。

「……あの、やってます?」

 声は遠慮がちだったが、どこか熱を帯びていた。現れたのは、黒髪の少女──セシアだった。

「火は起きてる。入んな」

 ベネリオが手を止めずに言うと、セシアは小さくうなずいて、そっと店内へ入ってきた。

「……なんだか、通りまで匂いがしてて。それで……つい、足が向いてしまいました」
「そりゃ鼻が利くな」

 笑いはしなかったが、機嫌は悪くなかった。ベネリオは鍋の泡をひとすくいし、湯の表面を静かにませる。

 セシアは遠慮がちにカウンターの端へ立ち、鍋の湯気をじっと見つめていた。
 火は喋らない。ただ、音を立てず、香りだけで語っていた。

「この香り……出汁だしですか? 貝と……何か、甘いような……」
「ラーフだよ。根だ。甘みがある」
「へぇ……火って、そういうふうに香りを運ぶんですね」
「火が運ぶんじゃねぇ。……火が、黙って引き出すんだ」

 ベネリオはそう言い、さかずきを湯にくぐらせると、鍋の端から一匙だけをすくって注いだ。
 出汁だしはまだ煮きっていなかったが、それでも味は立っているはずだった。

「舐めてみろ」
「……いいんですか?」
「試したいやつには、試すだけの火はある」

 セシアは両手でさかずきを受け取り、そっと口をつける。
 ふわりとしたいその香りが広がり、根の甘さがその後に続いた。
 深くも、強くもない。けれど、心の奥で静かに響いてくる味だった。

「……おいしい」
「まだ仕込みの段階だ」
「でも、あったかくて、みてくるっていうか……」
「火がそうしたいっつってるなら、そうなんだろうな」

 セシアは湯気の向こうで、くすりと笑った。
 火は、静かに揺れていた。

──と、その時。

 勢いよく、引き戸が開いた。

「おーい、大将! これは反則だろう!」

 賑やかな声が店内に転がり込む。リモンだった。
 入り口で肩を払うと、香草こうそうの束を片手に笑いながら歩み寄ってくる。

「通りでこの匂い! 特にこの……甘いやつ! 根の香りが鼻を突いて離れねぇ!」
「ラーフだよ。煮てる」
「うわ、そうか……ラーフかぁ。やられたな、これは」

 リモンは深く息を吸い込み、鍋の匂いを味わうように鼻を鳴らす。
 思わず表情が緩み、セシアに目配せをして笑った。

「この匂い、看板かんばんより効くよ」
暖簾のれんも出してねぇのに、よく来たな」
「この鼻をなめんなよ、大将。みなとで商売するには、嗅覚も立派な武器だ」

 セシアに軽く会釈えしゃくして、リモンはカウンターへ腰を下ろした。
 香草こうそうの束を放り出すように置きながら、鍋の中を覗き込む。

「おっ、これはいい火だ。煮てるな? 根と貝……あと香草こうそうはこれか?」
「まだ入れてねぇ。様子見て決める」
「へえ、慎重だな。……じゃあ、ついでにひとつ言っていい?」
「言わなくても喋るだろ、おまえは」
「ひどいなぁ。でもまあ、聞いてくれよ。最近ね、ちょっと面白いもん食ったんだ」

 リモンは言いながら、指で空中に円を描いた。
 旅先の港で出会った、炭焼きの甘い芋の話。
 仕上げに塩をひとつまみ振ると、味がひっくり返るという。

 塩を打つかどうかで、芋の甘さが別物になるらしい。

「なるほどな。……火を通してから、塩を立たせるのか」
「そうそう、しかも炭が弱いと全然ダメなんだ。強すぎても焦げるし、見た目より火の声を聞かないといけないやつだったよ」

 ベネリオはその話を聞きながら、火箸ひばしをひとつ動かした。
 炭の芯をずらし、熱の流れを整える。

「……それ、真似できそうだな」
「お、大将の火がどう料理するか、興味あるねえ」

 湯気は鍋のふちから立ち上り、セシアの髪をやさしくなぞった。
 火は、まだ喋らない。ただ、次の言葉を待つように揺れていた。

 カウンターには、笑い声がひとつ、ふたつ落ちた。
 けれど、火の音はそれよりも静かだった。
 鍋の中では、出汁だしがゆっくりと満ちてゆく。貝の旨味うまみと、ラーフの甘さ。
 香草こうそうの束は、まだ沈黙を守っていた。

 リモンが湯呑を片手に話を続けていたとき、店の外にふと影が差した。
 引き戸はまだ開かない。けれど、そこには確かに誰かが立っていた。
 そして次の瞬間、音もなく、扉が開いた。

 現れたのは、黒衣こくいの男──ガルドだった。

 男は無言のまま扉を引き、言葉なく中へと入ってきた。
 視線だけが鍋に向けられ、湯気の立つそれを確かめると、黙ってカウンターの端に腰を下ろす。

「……煮てるな」

 短く低い声に、ベネリオは鍋を見たままうなずいた。

「ああ」

 ただ、それだけ。
 だが、旧友きゅうゆうには、それだけで足りる。

「さっすが、無駄がないねぇ」

 リモンが肩をすくめながら笑い、セシアも小さく微笑んだ。

「火があると、みんな集まってきますね」
「うまいもんがあれば、言葉はあとでいい」

 ベネリオはそう言って、鍋のふちに並んだ炭の位置をひとつ動かした。
 弱まった炭の代わりに、小ぶりな赤をひとつ加える。

 香草こうそうが、ようやく鍋に落とされた。
 その瞬間、空気の層がふっと変わる。
 青く、かすかに苦味をはらんだ香りが、貝と根の甘さを深く沈めてゆく。

「……ああ。これ、絶対うまい」

 リモンが言う。
 湯気を吸っただけで、腹の底に火が灯るようだった。

「試すか?」

 ベネリオがそう言って、出汁だしをすくう。
 さかずきにそっと注がれたそれは、色のにごりがほとんどなかった。
 けれど、香りだけで味がわかるほど、濃く、静かな出汁だしだった。

 まずはガルドが手を伸ばす。
 さかずきを受け取り、口に含み、ひと息ついて、言った。

「……わるくねぇ」

 それは、彼にしては上等じょうとうな褒め言葉だった。

 次いでセシアが口をつけ、「……みます」とつぶやいた。
 リモンは一口で飲み干し、「大将、これ売ろう」と真顔で言う。

 そこへ、もうひとつの影が扉をくぐった。
 ひときわ明るい声とともに現れたのは、昼間に貝をくれた漁師の親父おやじだった。
 おけのふたを脇に抱え、満足げに店内を見渡す。

「どうだ、貝の火、うまくいったか?」
「……あんたの眼は節穴ふしあなじゃなかったみてぇだな」

 ベネリオが火箸ひばしを持ち直し、にやりと笑って返す。

 親父おやじは鍋をのぞき、ふわりと立ちのぼる湯気に顔をしかめてから、「こりゃたまらん」とつぶやいた。

「空いてるなら一杯やらせろ。……もちろん、味見もな」
「椅子がある限り、火は誰にも文句言わねぇよ」

 そう言って、ベネリオは新しいさかずきを湯で温める。
 続けて、小鉢こばちをひとつ取り、鍋から崩れかけたラーフと開いた貝をそっと盛りつける。
 湯気が立つそれを、親父おやじの前へ差し出した。

「……いただくぜ」

 さかずきを手に取り、親父おやじはひと口含む。
 鼻に抜ける香り、舌に残る旨味うまみ
 目を細めて、それを喉へ落とす。

「……こりゃ命取りだな」

 そうぼやくと、ふうっと息を吐いた。

「食う前からわかってたんだがな。火と香りで、腹が決めてやがった」

 ガルドが肩をすくめ、セシアが笑いをみ殺す。
 リモンがすかさず、「これは前菜ぜんさいだよ、礼儀として鳴らす音」と冗談を飛ばすと、
 ベネリオが火箸ひばしで炭を軽く突いた。

「……ったく、客が揃ってんのに、まだ暖簾のれんも出しちゃいねぇ」

 誰かが笑い、誰かがまたさかずきを傾けた。
 火は静かに燃えていた。その奥で、もうひと品が待っている。
 暖簾のれんが出る前に始まる夜も、ここにはあるのだ。
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