炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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四章「潮風に秋灯る、名もなき火の章 - In the Autumn Wind」

第20話「火の奥に残るもの」

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 の音が穏やかにひびく夜だった。
 炭火すみびの赤は暴れることなく、芯の奥からふつりふつりと息をしていた。げる音は乾いた囁きのように小さく、けれど耳に残る。

 網の上では、ししとうが皮をひらきはじめていた。
 青く苦い実が、火にあてられてしんなりと沈む。皮はわずかにひび割れ、内側の水気が蒸気となって立ち上がる。炭としおと、焦げた青味が重なり、香りの層を店内に落とす。

「……苦いのに、好きです」

 セシアのつぶやきは、ごく小さなものだった。

 椅子の背もたれに手を添え、彼女は焼けてゆくししとうをじっと見つめていた。炭火の赤に照らされて、頬にはあわく陰が射している。唇の端が、ゆるやかに笑みを浮かべていた。

しおが抜けた夜だ。……苦味が立つ」

 オルドがさかずきをあおり、呟くように言葉を添えた。

「火も、そういう味を出してる」

 彼の言葉に、セシアは小さく頷いた。

 火の匂いが満ちる店内で、カウンターの端に座る旅人たびびとの青年が、そっとさかずきを持ち上げた。
 少し前にこの店を訪れたばかりの、名も知れぬ若者だ。物静かな面持ちで、だが料理に対しては素直な反応を見せる。

「……焦げてるのに、香ばしい。酒が欲しくなるのも、わかります」

 彼はそう言って、口元に盃を寄せた。くいと喉を鳴らし、火の香を残したまま、静かに息をついた。

 店内には、それ以上の会話はなかった。
 ただ、炭の音が、すべてを語っていた。

 ──ぱちり。

 その音と重なるように、ごとりと引き戸が鳴った。
 潮風しおかぜが吹き込むほどの開きではなかったが、入り口の灯りがゆらりと揺れた。

 背の高い影が、戸口に現れた。
 無言のまま中へ入り、歩を進める。布袋ほていをひとつ、肩から下げていた。

「……採ってきた」

 そう言ったのは、ガルドだった。

 炭火のように寡黙な男。ベネリオの旧友であり、町の誰もが一目を置く存在。かつて剣を握っていた手は今、布袋ほていの口をゆるりと開いた。

 中には、数本のきのこが並んでいた。傘の丸みは小ぶりだが肉厚で、表面にはうっすらと山の土がついている。

「山か」

 ベネリオが短く言った。

 ガルドは頷くだけだった。
 それ以上は語らない。語らずとも、火が応えてくれることを知っている。

 ベネリオは袋を受け取り、調理場ちょうりばへ戻る。香草こうそうと塩を手に取り、包丁を握った。きのこ石づきいしづきを落とし、軸に切れ目を入れて開き、香草こうそうを詰める。

 網の上に置かれたそれらは、炭の熱にじわじわと焼かれていく。

 ふわり。

 ひときわ濃く、土の匂いが立ち上った。

 きのこの水気が炭の熱で逃げ、香草の香りとともに火の中に解けていく。草の青さ、土の湿り、焦げる炭。音は少ない。だが、香りは雄弁ゆうべんだった。

「……山の匂いですね。でも、火で変わっていく感じがして……」

 セシアがぽつりとつぶやく。

 旅人たびびとの青年もまた、ふっと鼻を鳴らして頷いた。

「さっきのししとうとは、また違って……香りが、もっと柔らかいです」

 火の香りが、味を先に知らせる。
 口に入れる前から、舌が予感を覚えるほどに。

 きのこの傘が、ほんのわずかにしぼむ。その瞬間を見計らって、ベネリオがひとつはしを伸ばし、火から引き上げた。

 皿に乗せられたそれは、炭火の縁をまとっていた。焦げ目は控えめで、だが火が通ったことをはっきりと知らせている。

 干物ひものの準備が並行して進められていた。

 夏の終わりに仕込まれた魚──潮を抜かれ、日に晒されて干された身は、静かに炭火の上に置かれていく。水気を失い、旨味を凝縮させたそれは、火に触れることでじわじわとあぶらをにじませていた。

 炭の赤が、静かに身を照らす。
 その火の色を、誰もが見つめていた。

 セシアは、すこしだけ前のめりになって香りを吸い込んだ。
 旅人たびびとの青年もまた、手元のさかずきに目を落とし、そっと火の音に耳を澄ませた。
 オルドは、視線を動かさないまま、さかずきを持ち上げてひと口。

 そして──ガルドが、ゆっくりとさかずきを掲げた。
 それは、彼にしては珍しい動きだった。

「……火が静かだな。酒が負けるかもしれん」

 炭の息が、ぱちりと音を立てる。

 きのこの皿が、順に手渡されていった。

 セシアは両手で陶器とうきを受け取り、そっと覗き込んだ。傘のふくらみは崩れておらず、焦げ目は香草こうそうの切れ端に寄り添うように散っている。小さなはしで端をつまみ、ゆっくりと口に運んだ。

「……あっ、やわらか……いです」

 ぽつりと、熱にほどけた言葉が漏れた。

 噛むごとに、香草こうそうの香りが広がる。土の匂いは火に和らぎ、舌の上で深く染みこむように感じられた。

「草の匂いがして……でも、嫌な感じじゃなくて……なんだか、深いです」

 隣の旅人たびびとの青年も、静かに頷いた。彼ははしの先でひと口分を割り、慎重に火加減を確認するように咀嚼そしゃくした。

「……ほんとに、柔らかい。焦げがあるのに、苦くないですね。むしろ……香りの輪郭りんかくがはっきりしてる気がします」

 ガルドは何も言わず、ただ自分の皿に手を伸ばし、ひと噛みでひときれを口に入れた。音を立てずに咀嚼そしゃくし、しばらく無言のまま、器を伏せるように伏せたまま、さかずきを持ち上げた。

「……火は、香りの芯を残す」

 それだけ言って、口をつぐんだ。

 オルドはといえば、はしを使わず指でひとつをつまみ、軽く息を吹きかけてから、ひょいと口に放った。

 数秒、咀嚼そしゃくの音すらない静寂が流れる。

「……塩が、下のほうで残ってるな。……焼き足りずとも、焦げすぎずとも、今夜の火なら、ちょうどよくなる。こりゃ……」

 さかずきをあおり、低くひと息。

「……腹が鳴るってやつだ」

 誰も笑わなかった。
 けれど、どこか空気がやわらいだ。

 香りが落ち着くころ、干物ひものの皿が炭火の奥で音を立てはじめていた。

 あぶらのにじむ音が、乾いた炭の表面に落ちる。ぴちり、という細い音が、火の深みに滲む。焦げが広がるほどに、身のほうから湯気が上がる。

 干物ひものの魚は、海で生まれ、太陽で締まり、風で味を整えられた。

 夏の終わりに干されたものだった。
 秋の火に応えて、最後の命を、舌の上に渡すために。

 ベネリオは、それを網から引き上げた。
 皮の表面はぱりりとひび割れ、身はあわくふくらんでいた。香りの中に、しおの香りが立ち戻る。山の匂いを背景に、海の匂いがゆるやかに交差する。

「……干物ひものだ」

 そうつぶやいたのは、旅人たびびとの青年だった。
 彼は自分でも気づかぬうちに、さかずきを置いて身を乗り出していた。

 セシアもまた、音もなく頷いた。
 皿の上に添えられた小さな大根おろしが、ほのかに水気を含んでいた。
 ベネリオはそれにはしを添えて、何も言わずに手渡す。

 静かな時間が、また流れる。

 干物ひものの身を割る音。皮が裂けるとき、炭火の香りがもう一度、湯気に乗って立ち上がった。

 セシアは口を開かず、ただゆっくりと咀嚼そしゃくしていた。
 旅人たびびとの青年もまた、なにも語らず、ただ炭の香りに身を浸していた。

 ガルドは、干物ひものはしをつけなかった。
 さかずきをもう一度持ち上げて、ふっと息をついてから、火の奥を見つめていた。

 オルドがふと、小さく笑った。

「……贅沢だな。山の匂いと、海の塩。火がどっちにも染みてる」
「炭が残ってる間だけの味だ」

 ベネリオが短く返した。

「それも、あと少しだ」

 火の音が、ゆるやかに落ちていく。

 炭の表面が白くなり、赤の部分が芯だけに沈む。音は小さく、呼吸のようになっていた。

 セシアは湯呑ゆのみを両手で包み、ふう、と熱を吐いた。
 旅人たびびとは肩をゆるめ、器を伏せる。
 オルドは、さかずきを空けたまま、もうそれ以上の酒を求める素振りを見せなかった。

 ──ただひとり、ガルドだけが。

 無言のまま、器を掲げた。
 ベネリオが黙って注ぎ足し、酒が満ちる音がひときわ鮮やかに響いた。

「……火がうまい夜は、酒もうまい」

 そう呟いたとき、炭がぱちりと鳴った。

 灯りの影がゆれる。
 暖簾のれんの向こう、外の空気はもう夜気やけをまとい、しおの匂いは遠くで眠っているようだった。

 火はまだ、奥で赤く息をしていた。
 けれどそれは、騒がぬ火。
 燃え広がらぬ火。

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