炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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六章「秋の炭火に、語らいは香る - Words Rise in Autumn Flame」

第28話「火の香る宵」

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 町の喧騒けんそうが、しおのように遠のいていく頃だった。
 陽はまだ残っていたが、光の質は変わりはじめていた。石畳いしだたみの通りに影が伸び、裏路地には昼とは違う温度の風が流れ込む。

 ベネリオは、店の奥で包みをひとつ解いた。
 昼前に仕入れておいた香草こうそうが、編まれた布の隙間すきまから、かすかに青みを帯びた香りを滲ませている。
 その香りは、干しきのこの乾いた匂いとまじじることで、火に近いところへと引かれていった。

 炭床すみどこには、昼のうちに種火を仕込んでおいた。
 まだ完全には起きていない。けれど、しんには赤があった。
 灰にうずもれたその光は、薪を少し重ねるだけでゆっくりと息を吹き返していく。

 細く割った木を載せ、その上に香草こうそうをひとつまみ。
 炭の温度が草の水気に触れ、じり、と音を立てた。
 音はそれだけだった。だが、空気が変わる。
 香りが──よいの気配を告げはじめる。

 陶皿とうざらに載せた干しきのこを、炭の脇へ置く。
 香草こうそうの葉を敷いて、その上にかさを伏せるように並べた。
 まだ火のしんには近づけない。ゆっくり、炭と香りが言葉を交わすように、じわりと炙っていく。

 きのこは小ぶりだが、波打つかさの内に味が詰まっている。
 リモンが置いていったそれは、よほど天日をよく吸ったのだろう。乾いてなお、豊かな香りがあった。

 じわ、という音がひとつ。

 きのこの裏から、かすかに汁が浮いた。

「……こいつは、夜の前の火だな」

 ベネリオはそうつぶやいて、椅子を引き、身を屈める。
 火はまだ静かだ。けれど、赤が店の奥にまで届きはじめている。

 そのとき、戸が控えめに叩かれた。

 風が、戸の桟をすべって抜けていく音と重なる。
 ベネリオは炭にひとつ水を打ち、ゆっくりと立ち上がった。

「──よう」

 引き戸を開けると、そこに立っていたのは、くりの包みを抱えたふたりだった。

 ユリオとミーナ。
 町の外れに住む、若い夫婦。
 彼らがこの店を訪れるのは、今夜で三度目だった。

「こんばんは。……あの、くり、拾ったんです。裏の林のほうで」

 ユリオがそう言って、手にした包みを少し持ち上げる。
 隣のミーナも、小さく頭を下げた。

「まだ炒ったりはしてないんですけど……焼けるかな、って」
くりか。ちょうどいい。火、起きてるぞ。入んな」

 ふたりはうなずき、引き戸を閉めてから、静かに中へと歩を進めた。
 外気をまとった姿が、店の空気に溶けていくようだった。

 席に着いたユリオは、包みをそっと膝に置いた。
 ミーナがその包みを解くと、布の中には、殻のまだらなくりがいくつか転がっていた。

 ベネリオはそのくりをひとつ取り、親指で軽く叩く。

「……張ってるな。火にかけりゃ、じきに開くだろ」

 彼はくりをいくつか選び、香草こうそうの葉でくるみ、火の端へと置いた。
 干しきのこの香りとまじじることを避け、少し距離をとって炭の奥に滑り込ませる。

 そのときだった。

 ぱち、と炭が鳴いた。

 音は小さく、それでいてしんがある。
 炭と炭のあいだで、火が育ちはじめている証だった。

「……ああいう音、聞いたの初めてかも」

 ユリオがつぶやいた。

「炭が鳴くのは、しんが立ったときだ。……火が、腹を決めたってこった」

 ベネリオはそう言いながら、干しきのこをそっと返す。
 香草こうそうの葉の上で、かさの縁がゆっくりとたわんだ。

「……いい香り」

 ミーナの声は、小さく、それでいてはっきりとひびいた。

 ふたりの前に、小皿が置かれる。
 陶器とうきの縁には、青緑あおみどり釉薬ゆうやくが薄くかかっていた。
 その中央に、炙られた干しきのこが一枚、香草こうそうの葉に乗っていた。

「通しだ。……まずは火を食っていけ」
「いただきます」

 ユリオが小さく頭を下げる。
 ミーナも、そっとはしを取った。

 きのこは、ほろりと崩れた。

 舌に触れた瞬間、乾いていた香りが戻ってくる。
 むほどに、火のしんが染みるような味わいが広がった。

「……こういうの、ちょっと好きかも」
「やさしい、香り……」

 ふたりの言葉に、火はまた、ひとつ音を立てた。

 包み蒸しにされたくりは、葉の内でふくれ、やがて湯気を立て始めていた。
 焦げ目が葉の端に滲み、香草こうそうの香りがわずかに甘さを伴って炭の上にただよい出す。

 ミーナはその香りにそっと目を細め、ユリオは静かに椅子に背を預けていた。

 そして、戸の外から小さな音がした。
 引き戸がゆっくりと開き、影がひとつ、店内に差し込む。

「……あれ?」

 声にならないような声とともに、秋色のかごを抱えた娘が現れた。

 セシアだった。

 その足が止まったのは、見慣れぬ若い夫婦の姿に気づいたからだった。
 彼女はそっと戸を閉め、かごを胸に引き寄せる。

「……こんばんは。あの、ちょっとだけ……持ってきたんですけど」
「おう、野菜か。奥のかごに置いとけ。火はちょうどいいところだ」

 ベネリオの言葉に、セシアはうなずいて歩を進める。
 途中、ふたりと目が合った。

「あ……はじめまして。旅の人……ですよね?」
「いえ、えっと、運び屋なんです。……町のはずれに住んでて」

 ユリオが苦笑いを浮かべながら答える。

「わたしは、ミーナといいます。……八百屋さん?」
「そ、そうです。……店の人というより、娘なだけですっ」

 言葉がぎこちなくなる。けれど、そのやりとりに柔らかな笑いがこぼれた。
 ミーナの視線が、炭火の上の包みへと向かう。

くり、焼いてもらってて」
「……よかったら、そのくりで、もうひと皿つくりますか?」

 セシアの声は小さかったが、言葉は真っ直ぐだった。
 ミーナが少し驚いたように目を見開き、それから、微笑んでうなずいた。

「うれしいです……ありがとうございます」

 くり香草こうそうを葉でくるみ、再び火の端に置かれる。
 焦げ目が葉に映ると同時に、くりの香りが甘く、そして深く立ち昇る。

「火のまわり、ちょっと寄せるぞ。香りが逃げちまう」

 ベネリオの手が炭を組み替え、香りの層を整えていく。
 それは、料理というより──火を重ねて音を整えるような、静かな作業だった。

 やがて、戸がふたたび開く。

「……火の匂いがしてると思ったら、ちょうどいい頃合いだ」

 その声に、セシアが顔を向ける。
 入口に立っていたのは、旅装りょそうを軽くまとった男──リモンだった。

「リモンさん……」
「おう、娘さんも来てたか。大将、きのこ、届いたんだって?」
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