炭火の夜、潮の香りに灯る店 〜異世界港町グルメ、元冒険者が営む炭火居酒屋〜

夢宮

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七章「秋の芯、静かな火の宴 - Quiet Feast by the Ember」

第35話「炭火の誘い、潮の宵に集う人」

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 夕暮れの潮風しおかぜが、白壁しらかべ町並まちなみに冷たく触れていた。
 秋の気配はもう深く、陽の名残もすでにあかに染まる。軒先のきさきをなぞる風が、朱色しゅいろひさしを揺らし、暖簾のれんの端をひらりと浮かせた。炭としおとが重なる匂いが、通りの空気に淡く漂う。

 名もない店の奥では、火が静かに息をしていた。
 炉の芯に組まれた炭は、赤い芯を潜ませ、ぱちりと小さな音を弾かせるたび、わずかに光を膨らませてゆく。
 炭火すみびは今日も穏やかに呼吸を続け、炉の上には陶板とうばんが据えられていた。

 ベネリオは火箸ひばしを持ち、炭の隙間を整えていた。
 静かな赤を広げ、余計な灰を落とし、火の流れを整える。既に並べられた太刀魚たちうおの切り身が、炉の傍らでその順番を待っている。
 皮目は薄く銀を帯び、わずかな脂がじくりと浮き始めていた。炙りの火にかければ、皮が弾け、脂が跳ねるだろう。しおの香りが、さらに深くなる。

「……悪くねぇ」

 短く呟き、陶板とうばんに一枚ずつ太刀魚たちうおの身を乗せていく。
 炭の熱がじわじわと皮を炙り、細く浮いた脂が、陶板とうばんの上でぷつりと弾けた。

 そのときだった。
 扉の外から、控えめに二度、短い音が鳴った。引き戸がわずかに開き、ひとつの影がすっと差し込んでくる。

「あの、えっと……今日の、採れたて……なんですけど……」

 現れたのは、籠を抱えたセシアだった。
 戸口に立ちながらも、どこか所在なげに視線を揺らし、けれども差し出す手は、しっかりと野菜を包んでいた。

 布包みを解くと、赤みの強い人参にんじんと丸みのある里芋さといもが現れた。
 皮にはわずかに土の粉が残り、果肉の張りは見事だった。

「おう。いいの、持ってきたな」

 ベネリオは受け取り、手早く洗い桶に移した。
 水が布包みに跳ね、石の桶の内側で細かな音が立つ。しおの香りに混じって、青く瑞々しい匂いが微かに立ち上った。

「べ、べつに、あの……無理に使ってくれなくても……!」

 セシアは早口に付け足すが、ベネリオは肩をすくめて笑うだけだった。

「使わねぇ理由もねぇさ。今夜は火が素直だ。こいつらも悪くねぇ」

 陶板とうばんの上では、太刀魚たちうおの皮がぴん、と張った。
 脂が弾け、炭芯に触れてぱちりと火花が踊る。甘いしおの香りと炭の煙が重なり、炉の奥にゆるやかに溶けていく。

 香りがふわりと通りまで抜けた頃、引き戸がまたそろりと開かれた。

「うわ……すごく、いい匂いがしました……」

 旅装りょそうを着崩したエルが、背負った布袋を脇に置いて現れた。
 鼻先を擽る炙りの香りに、自然と表情がほころんでいる。

「ほら、席空いてるぞ。火もいいとこだ」
「はいっ!」

 素直な声を弾ませて、エルはカウンターに腰を下ろした。

 ──その背後から、またひとつ影が射し込む。
 音もなく、炉の奥の定位置へ歩み寄ると、黙って腰を落とした。

「……ガル」

 ベネリオが呼ぶと、ガルドはわずかに頷くだけで応えた。

「……太刀魚たちうお、炙ってたな」
「ああ。火も脂も、いい塩梅だ」

 さらに皮が弾ける。
 陶板とうばんの上で太刀魚たちうおが香りを膨らませ、炭火すみびの芯がゆるやかに呼応する。湯気と煙が交じり合い、炉の上空を静かに満たしてゆく。

 炙り上がった一枚を、陶皿とうざらに移す。
 銀の皮が光り、香草の葉を添え、くし切りのレモンを添える。粗塩あらじおがわずかに光を反射していた。

「熱いうちに食え。冷めりゃ旨味が逃げる」

 まずはエルへ。次いでガルドへと皿を渡す。

「いただきますっ!」

 エルは箸を伸ばし、ひと口含む。
 その瞬間、頬がふわりとゆるみ、目を細めた。

「……口の中で、ほどけました……」

 ガルドは無言のまま、静かにひと口。
 軽く頷いた動きが、言葉以上に満足を伝えていた。

 ベネリオは残る太刀魚たちうおの身を陶板とうばんに並べ直すと、隣に野菜の準備に取り掛かる。
 人参にんじんの皮を剥き、厚めに輪切りにして俎板まないたに並べる。
 里芋さといもも表皮を薄く剥き、丸く整えたものを選んでいく。

 陶板とうばんの一角をずらし、切った野菜を順に炭火すみびへ乗せる。
 じりじりと静かな音が立ち始めた。人参にんじんの断面から甘い土の匂いが漂い、里芋さといもの表面がしっとりと艶を帯びていく。

 炭の芯が熱を吐き、炉の奥にゆるやかな層を作る。
 匂いは少しずつ膨らみ、甘みと炙りの香りが静かに重なってゆく。

 ──その香りに誘われるように、扉がまた開かれた。

「おーい、大将! これは反則だろう!」

 軽快な声が夜気を割って転がり込む。
 香草の束を抱えたリモンが、賑やかに笑みを浮かべて入ってきた。

「……匂いで寄ってくるのは、おまえぐらいだな」
「違う違う、通りの角から引っ張られてきたんだって! 今のはさ……炭と芋と、甘いのと、しおと……たまんないよ!」

 炉の前で、火は静かに膨らんでいた。
 まだ炭の芯は深く眠り、夜の始まりを迎えてゆく。

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