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那須隼人6
土地のせい
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皿がほとんど空になったあたりで、ラジは急須に淹れたチャイを人数分のステンレスカップに注いで並べた。
カルダモンとシナモンの甘い香りが立ち上り、食事の熱気でほてった室内にほどよい落ち着きをもたらしている。
ソヒルがチャイを一口すすり、隼人の皿を見て言う。
「ハヤト、いっぱい食べたね。スパイスもう慣れた?」
「うん。おいしかったから」
「ラジが、コンビニの友だちが最近元気がないって心配してた。ハヤトさんのことだよね。もう元気になった?」
ミーナが唐突に尋ねた。
深刻な声ではない。ごくごく自然と出てきた問いかけのようだった。
隼人は、少し返事を迷った。
ラジが鍋を片づけながら、横目でこちらを気にしている。
どう答えるべきか、まとまらないままに言葉が口をついて出た。
「少し前に、ちょっと変な体験をしたんです。隣の県のとある町で」
ミーナとソヒルは言葉を止めたが、表情は変わらない。
驚きや心配ではなく、ただ話の続きを待つ姿勢だった。
それがかえって話しやすかった。
隼人はごく簡潔に、腐った泥の庭で体験したことを説明した。
余計な形容も、感じた恐怖も付け加えず、出来事だけを淡々と話した。モリサマやしずめの説明も省いた。
説明を聞き終えたソヒルが、少し軽い調子で言う。
「日本にもあるんだね、そういうの。パキスタンにもあるよ。若い女の幽霊の話。川のそばとか墓の近くに出るやつ。きれいな顔してるけど、足が後ろ向きだったりする」
「足が、後ろ向き?」
隼人が思わず繰り返すと、ソヒルは肩をすくめた。
「うん、そう。だから足跡を見て逃げたら逆に追いかけてたって話もある。チュレルっていうおばけだよ。男を川に引きこむとか言われてるけど、たぶん、夜の川には近付くなって意味だと思う」
ミーナもチャイのカップを置き、小さくうなずく。
「インドにも似てるのあるよ。夜の道に白いサリー着た女が立っていて、車止めようとするの。乗せたらよくない、とか。顔見たらいけない、とか」
どちらも、隼人に寄りそうような素振りではなかった。
ただ、自分たちの国ではこんな話があるのだと、自然に差し出しただけだった。
「ネパールにもあります」
空いた食器をシンクに下げて、席に戻ってきたラジが言った。
「山でね、人を呼ぶ声がするんです。知ってる人の声に聞こえる。でも、返事したり、振り向いたりしちゃいけない。したら、崖の下に落ちるって、おばあちゃんが言ってました」
「知ってる人の声、なんだ」
「はい。しかも名前を呼ぶんです。『おい、ラジ』とか『ソヒルじゃないか』とか。でも、本当の人じゃないから、無視して歩かないといけない」
「それは怖いな」
言って、隼人は少し息を吐いた。
重さが抜けた、というのとは違う。けれど、自分だけが異常なものを抱えているわけではないという、奇妙な安堵のような感覚があった。
「でも、ハヤトの場合は川とか崖に落とされそうになったんじゃない。家の庭の地面に引きずり込まれたんだろ。だったら、幽霊っていうより、その土地のせいかも」
ソヒルが真剣な顔をして言う。
「土地のせい」
六守谷のモリサマのことは伝えていなかったのだが、ソヒルの言葉は核心をついている。
「うん。パキスタンでも“ここは行ってはダメ”って場所、けっこうあるんだよ。理由わからないのに事故ばっかり起きる道とか、夜に人が入らない谷とか。
古い宗教を信じているカラシャ族が住んでるチトラル谷には、男の人が入ったらいけない場所や女の人が入ってはいけない場所、入るには儀式をしてからじゃないと入れない場所などもあるらしいよ。あと、ジアラトにあるジュニパーの森も、精霊が住んでるって言われてて、奥の方へ行ってはいけないとか、勝手に木を切っちゃいけないとか言われているよ。それを守らないと精霊や森そのものが怒って、不幸なことが起きるって言われてるよ」
ミーナが続ける。
「インドもそう。村のはずれとか、木の下とか。“夜に行かない”って決まってるとこある。科学では説明できなくても、そういう場所はあるね」
二人の話はモリサマにも通じるように隼人は感じていた。
「たしかに、そういうやつかも。オレが怖い思いをした場所も、元は神さまと信じられてた森があった場所だったらしいんだ」
「神さまの森」
ソヒルが呟くように繰り返した。
深刻になったわけではないが、思考の淵に降りていきそうな隼人の様子を見て、ラジが話題を変えた。
「次はもっと辛いタルカリ作りますね。ハヤトさん、辛いの好きですから」
それを受けて、ソヒルが茶化す。
「ハヤト、辛いの平気って言ったから、今度ボクもパキスタンの料理を食べさせてあげる。ネパールの料理よりパキスタンの料理のほうが辛いからカクゴしておいてね」
ミーナも小さく笑う。
「私も料理作るね。インドのやつ」
隼人の胸には相変わらず重みが残っていた。だがここに来る前に比べるとずいぶんとその輪郭がぼやけていた。
ネパール料理のスパイスのせいか、あるいは、ただ普通に話を聞いてくれた三人の空気のせいなのか、隼人には判別がつかなかった。
チャイのカップがそれぞれの手の中でいよいよぬるくなった頃、玄関のほうで鍵の回る音がした。
続いて、ドアが開く音がし、パーテーションの向こうで靴を脱ぐ気配がする。
「ただいま」
少し低めのハスキーな女性の声だった。
パーテーションの向こうから、赤い色の髪をショートカットにした小柄な女性が顔をのぞかせる。
年齢は二十前後だろうか。
肩から下げたトートバッグを外さないまま、リビングを見回す。
「あれ、今日はにぎやかだね」
カルダモンとシナモンの甘い香りが立ち上り、食事の熱気でほてった室内にほどよい落ち着きをもたらしている。
ソヒルがチャイを一口すすり、隼人の皿を見て言う。
「ハヤト、いっぱい食べたね。スパイスもう慣れた?」
「うん。おいしかったから」
「ラジが、コンビニの友だちが最近元気がないって心配してた。ハヤトさんのことだよね。もう元気になった?」
ミーナが唐突に尋ねた。
深刻な声ではない。ごくごく自然と出てきた問いかけのようだった。
隼人は、少し返事を迷った。
ラジが鍋を片づけながら、横目でこちらを気にしている。
どう答えるべきか、まとまらないままに言葉が口をついて出た。
「少し前に、ちょっと変な体験をしたんです。隣の県のとある町で」
ミーナとソヒルは言葉を止めたが、表情は変わらない。
驚きや心配ではなく、ただ話の続きを待つ姿勢だった。
それがかえって話しやすかった。
隼人はごく簡潔に、腐った泥の庭で体験したことを説明した。
余計な形容も、感じた恐怖も付け加えず、出来事だけを淡々と話した。モリサマやしずめの説明も省いた。
説明を聞き終えたソヒルが、少し軽い調子で言う。
「日本にもあるんだね、そういうの。パキスタンにもあるよ。若い女の幽霊の話。川のそばとか墓の近くに出るやつ。きれいな顔してるけど、足が後ろ向きだったりする」
「足が、後ろ向き?」
隼人が思わず繰り返すと、ソヒルは肩をすくめた。
「うん、そう。だから足跡を見て逃げたら逆に追いかけてたって話もある。チュレルっていうおばけだよ。男を川に引きこむとか言われてるけど、たぶん、夜の川には近付くなって意味だと思う」
ミーナもチャイのカップを置き、小さくうなずく。
「インドにも似てるのあるよ。夜の道に白いサリー着た女が立っていて、車止めようとするの。乗せたらよくない、とか。顔見たらいけない、とか」
どちらも、隼人に寄りそうような素振りではなかった。
ただ、自分たちの国ではこんな話があるのだと、自然に差し出しただけだった。
「ネパールにもあります」
空いた食器をシンクに下げて、席に戻ってきたラジが言った。
「山でね、人を呼ぶ声がするんです。知ってる人の声に聞こえる。でも、返事したり、振り向いたりしちゃいけない。したら、崖の下に落ちるって、おばあちゃんが言ってました」
「知ってる人の声、なんだ」
「はい。しかも名前を呼ぶんです。『おい、ラジ』とか『ソヒルじゃないか』とか。でも、本当の人じゃないから、無視して歩かないといけない」
「それは怖いな」
言って、隼人は少し息を吐いた。
重さが抜けた、というのとは違う。けれど、自分だけが異常なものを抱えているわけではないという、奇妙な安堵のような感覚があった。
「でも、ハヤトの場合は川とか崖に落とされそうになったんじゃない。家の庭の地面に引きずり込まれたんだろ。だったら、幽霊っていうより、その土地のせいかも」
ソヒルが真剣な顔をして言う。
「土地のせい」
六守谷のモリサマのことは伝えていなかったのだが、ソヒルの言葉は核心をついている。
「うん。パキスタンでも“ここは行ってはダメ”って場所、けっこうあるんだよ。理由わからないのに事故ばっかり起きる道とか、夜に人が入らない谷とか。
古い宗教を信じているカラシャ族が住んでるチトラル谷には、男の人が入ったらいけない場所や女の人が入ってはいけない場所、入るには儀式をしてからじゃないと入れない場所などもあるらしいよ。あと、ジアラトにあるジュニパーの森も、精霊が住んでるって言われてて、奥の方へ行ってはいけないとか、勝手に木を切っちゃいけないとか言われているよ。それを守らないと精霊や森そのものが怒って、不幸なことが起きるって言われてるよ」
ミーナが続ける。
「インドもそう。村のはずれとか、木の下とか。“夜に行かない”って決まってるとこある。科学では説明できなくても、そういう場所はあるね」
二人の話はモリサマにも通じるように隼人は感じていた。
「たしかに、そういうやつかも。オレが怖い思いをした場所も、元は神さまと信じられてた森があった場所だったらしいんだ」
「神さまの森」
ソヒルが呟くように繰り返した。
深刻になったわけではないが、思考の淵に降りていきそうな隼人の様子を見て、ラジが話題を変えた。
「次はもっと辛いタルカリ作りますね。ハヤトさん、辛いの好きですから」
それを受けて、ソヒルが茶化す。
「ハヤト、辛いの平気って言ったから、今度ボクもパキスタンの料理を食べさせてあげる。ネパールの料理よりパキスタンの料理のほうが辛いからカクゴしておいてね」
ミーナも小さく笑う。
「私も料理作るね。インドのやつ」
隼人の胸には相変わらず重みが残っていた。だがここに来る前に比べるとずいぶんとその輪郭がぼやけていた。
ネパール料理のスパイスのせいか、あるいは、ただ普通に話を聞いてくれた三人の空気のせいなのか、隼人には判別がつかなかった。
チャイのカップがそれぞれの手の中でいよいよぬるくなった頃、玄関のほうで鍵の回る音がした。
続いて、ドアが開く音がし、パーテーションの向こうで靴を脱ぐ気配がする。
「ただいま」
少し低めのハスキーな女性の声だった。
パーテーションの向こうから、赤い色の髪をショートカットにした小柄な女性が顔をのぞかせる。
年齢は二十前後だろうか。
肩から下げたトートバッグを外さないまま、リビングを見回す。
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