しずめ

山程ある

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那須隼人6

ダルバート

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 正直、隼人は圧倒されていた。
 一緒に食事をするのはラジだけだと思っていたのだ。
 交わされるのはそれぞれ微妙に異なるイントネーションの日本語。独特なスパイスの香り。壁に貼られた極彩色のカレンダー。
 まるで突然、国境を越えてしまったような浮遊感がある。自分のような部外者が、ここに混ざっていいのだろうか。
 しかしそんな居心地の悪さを感じていたのは、ラジの料理が運ばれてくるまでのほんの短い間だけだった。

「今日はみんなで食べるから、たくさん作りました。たくさん食べてくださいね」

 ラジが料理を運んできた。湯気と共に、スパイスと、炒めた麺の香りが立ちこめ、胃が反応して鳴りそうになる。

 テーブルの上に、大皿が四つ置かれた。
 普段の日本の食卓とはまったく違う香り。しかし隼人はなぜか懐かしさを覚えていた。おそらくこれらが素朴な家庭料理だからなのだろう。

 ラジがひとつひとつの料理の説明をしてくれる。

 小さめのステンレスのスープボウルに注がれているのがダル。
 豆を煮込んだスープだ。とろりとした、黄土色の液体のなかに、レンズ豆が見える。
 上から散らしたクミンと、油で焦がしたニンニクの欠片が、ところどころ黒い点のように浮いている。
 湯気に香ばしさが混じり、鼻の奥をやさしく突いた。

 タルカリは、特定の料理を指す言葉ではなく、”おかず”というような意味のものらしい。
 ラジの作ったタルカリは、大きめに切った鶏肉とじゃがいも、輪切りの人参、刻んだ青菜が炒め煮になっていて、ターメリックの黄色が全体をうっすらと染めている。
 いかにも家庭料理といった感じで、見た目が整っているわけではないが、野菜の角が煮崩れかけ、油が絡んで光を帯びている様はとても食欲を誘う。

 チャウミンは、焼きそばに似ているが雰囲気はまったく別だった。
 細めの麺がしっかりと炒められ、ところどころ茶色く香ばしい焦げ目がついている。
 ネギとキャベツが混ざり、唐辛子と香辛料の赤がほのかに差していた。
 炒め油が薄く光っていて、箸で持ち上げると湯気と一緒に香りが強まる。

 アチャールは、手のひらサイズの小皿に少しだけ。
 刻んだ大根と人参が、赤いスパイスのペーストをまとっていて、しっとりしているのに乾いた香りがある。
 量は控えめだが、全体的に黄色の料理たちの中で、目を引く鮮やかさがある。

 そして大皿の真ん中にはドーム状に盛られたご飯。どこかナッツを炒ったような豊かな香りがする。粒の形状が細長く、ラジの説明によるとバスマティという米らしい。

 どの皿も、特別な飾りはないが、日々の暮らしの匂いがはっきりと感じられる料理だった。

「ネパールでは、このお皿をダルバートいいます。ダルが豆、バートがご飯。日本の定食みたいなものです。色んなタルカリやアチャールと一緒に食べます。今日は豪華にしてチャウミンも一緒にしました」

 ラジは料理の説明をそう締めくくった。

 それから、皆が手を合わせたので、隼人もそれに倣う。
 ラジが「いただきます」といって、皆もそれに続いた。
 ソヒルとミーナはくすくす笑っている。隼人のために日本式の挨拶にしたのだろう。

「ハヤトさん、シェアハウス、見るの初めて? 日本の家みたいじゃないですよね」

 席についたラジがそう訊いた。
 先ほどから隼人が物珍しそうにあちこちを眺めていたことに気づいていたのだろう。

「うん、招かれたのは初めてだよ。でも、こういうの、なんかいいね」

 実際のところ、きれいでも広くもない。
 リビングにある棚には様々な調味料類が雑多に置かれている。
 テーブルは広くきれいだったが、スペースを確保するためか椅子はすべて重ねることができる、背もたれのないパイプ丸椅子だ。
 トイレは一階と二階にあるらしいが、洗面台はキッチンの奥にあるひとつだけで、洗面台まわりには乾ききらない洗濯物が吊るされている。
 だが、人の気配がほどよく混ざり合っている空間には、不思議な居心地の良さがあった。

「ハヤトさん、まずは、ダルをごはんにかけて食べてください」

 ラジが手本を見せるように、こんもりと盛られたご飯へスプーンですくったダルをたっぷり注ぐと軽く混ぜ合わせる。

「じゃあ……いただきます」

 隼人もラジを真似して、スプーンを口へと運ぶ。
 ひと口食べると、豆の甘みとスパイスの香りが舌に広がった。

 辛さは強いが尖っていない。日本で一般的に食べられるカレーなどと比べれば、旨味こそ強くはないが、どこか温度のある味だった。

「うまい」

 隼人が思わずこぼすと、テーブルの向こうでソヒルが笑う。

「そう、ラジはとても料理うまい。ここのシェフ」

「違いますよ。ボクが作れるのは、ネパールのどこの家でも食べてる、ふつうのご飯だけ。みんな、おだててボクに料理させようとしてる」

 謙遜しているというわけではなく、ラジは本当にそう思っているようだった。
 隼人には皿の湯気の向こうに、彼の家が一瞬だけ垣間見えたような気がした。

 ミーナが穏やかな声で尋ねる。

「ラジくんの料理は、お母さんの味なの?」

「はい。母はもっと辛くしますけど、ハヤトさん日本人だから、ちょっとだけ優しくした」

 ラジは笑ったが、その言い方にはどこか誇らしさがある。

 食事が進むにつれて、リビングの空気は柔らかい賑やかさに変わっていった。

 本当なら言語も国も違うのに、同じ料理を食べておいしいと言いあうことが、皆を自然にひとつの空間にまとめあげていた。

「ハヤトさん、チャウミン、もっと食べますか。足りますか」

「食べる。これもめちゃくちゃおいしいよ」

 隼人が空になった皿を差し出すと、受け取ったラジはうれしそうにキッチンのフライパンから麺をよそった。
 おかわりのチャウミンをフォークですくったところで、不意に隼人は胸の奥にあった重さが、さっきよりずっと軽くなっていることに気がついた。

 泥の庭も、しずめの姿も、まだ完全には消えていない。
 けれど、スパイスの熱気とラジたちの声が、薄い膜のようにその記憶を遠ざけていた。
 見学に言われた、「生きている人間の世界にいなければいけない」という言葉がすっと胸に収まるのを感じた。
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