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木立 花音

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第五章「あたしの心が折れた日」

【父との電話】

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 父の電話番号は知っていた。母の遺品を整理しているときに、知人の連絡先をまとめた手帳の中に、父の名前と一緒に携帯電話のものと思しき番号が書いてあったから。
 もっとも、現時点でわかっているのはこれだけだ、この番号が今も使われているのか知らないし、今どこでなにをしているのかもわからない。
 父とあたしとで交流があったのは一度だけ。あたしが十歳の誕生日を迎えた日、誕生日おめでとうのメッセージカードと一緒に、プレゼントとしてネックレスが送られてきたのだ。「まだ紬には早いでしょ」と母が苦笑していたのをよく覚えている。
 送り先は空港になっており、あいにく父の住所はわからなかった。
 もしかしたら母は知っていたのかもしれないが、今となってはもう知る術はない。
 あ、そういえば――。
 確かここにしまってあったなと、荷物が入ったバッグのひとつを探っていく。寮に来てからほぼ手つかずになっていたそれは、幼少期の思い出の品を詰め込んで家から持ってきたものだ。

「あった」

 見つかったのは、父からの贈り物のネックレス。
 慎重に箱から出して、鏡の前で首につけてみる。意外にも、サイズはぴったりだった。
 どうしてだろう? これは小学生の頃にもらった物なのに。もしかして、あたしが成長したときのことまで考えて選んでくれたのだろうか。
 ハート型のアクセサリーが二つあしらわれたネックレスは、小学生が付ける物としては少しばかり派手なのだし。
 まさかな。
 首を振って否定して、ネックレスをもう一度箱に戻した。
 ――試合をしているところを、見せたい相手はいないの?
 メールでいいんじゃなかろうか。脳裏に浮かんだ弱気な考えを力ずくでねじ伏せ、スマホに電話番号を入力する。通話ボタンを押し、応答を待った。

『もしもし』と聞こえてきた第一声は、どこか懐かしく感じられるもので。声なんてもうほとんど覚えていないのに、不思議と電話の相手は父なんだとそう思った。

『もしもし。……ん? どちら様ですか?』

 電話の声に、懐疑の念が混じる。

「あの……あたし」

 あなたの娘の仁藤紬です。
 準備していた台詞は、しかし喉元に絡まるばかりで紡がれない。
 気まずい沈黙が続く。そもそも彼は本当に父だろうか。当時の番号が、今もそのまま使われているとは限らないのだし。
 違っていたら申し訳ないんだが、とその人物が言った。

『もしかして君は、紬なのか? 俺の娘の仁藤紬……?』

 この瞬間、二人の間にあった目に見えない壁が崩れた。
 父と別れたあの日から、今日までの七年間が一瞬で繋がって、電話の向こうにいるのが父なのだとそう確信できた。

「……お父さん……! うん、そうだよ。紬だよ。あたし、紬だよ」

 辛かったとか、寂しかったとか、声が聞きたかったとか、さまざまな感情が際限なくわいてきて、視界が滲んでいくのを止められない。

『そうか、本当に紬なのか。驚いた。どうしたんだいきなり電話なんてしてきて。……いや、そんな言い方はないな。本来であれば、俺のほうから連絡を取るべきだったのにな。すまない』
「ううん、いいよ。父さんは、母さんとも、母さんの実家とも折り合いがよくなかったんだし、いろいろ難しかったでしょ」
『そうなんだよな。すまない……』

 それから、父と別れてからのことを順番に話していった。バドミントンを今でも続けていること。中学のとき、北海道で頂点に立ったこと。母さんが死んだこと。そのあとは、母さんの実家で暮らしていること。

『そういや、母さん亡くなったんだったな』
「知っていたんだ」

 そういえば、母が亡くなったとき引き取り手として父の名前は出なかった。縁が切れているのだしそういうものだと思っていたが、実際のところはどうだったんだろう。今となってはどうでもいいことだが。

『ああ、人伝に聞いてな。あいつ……自分のことはなんにも言わないから、体調が良くなかったのも全然知らずにいたよ。知っていたら、葬儀にも出たかったんだがな』

 その言葉で、まったく連絡を取り合っていないわけではなかったんだな、とわかった。まあ、誕生日プレゼントがきていたくらいだしな。

「しょうがないよ。それに、父さんが来たらうちの祖母ちゃんが機嫌悪くなりそうだし」
『だろうな』

 笑ったその声は、どこか寂しそうだった。

「それでさ」

 本題に入ろうとすると言葉に詰まる。それでも、言わなくちゃ。

「次の土曜日に、バドミントンの大会があるの」

 考える時間が、数秒挟まれた。

『どこで?』

 今、父はどこに住んでいるのだろう。北海道ならいいが、東京かもしれないし、大阪かもしれない。実際、観に来るのは困難だろう。けど、伝えるだけならタダだ。

「札幌市。土曜日が団体戦で、日曜がダブルス。もし良かったら、観に来てくれないかなあって。あっ……、忙しかったら全然いいんだけどさ。ほら、母さんもいなくなっちゃったから……観に来てくれる人いないし」

 学校名と、会場名を伝えた。最後の一言は、もしかしたら余計だったかもしれない……。
 忙しなく動く心臓。少し落ち着いてほしい。
 固唾を呑んで返答を待つが、父はそれきり何も言わない。
 そうだ、失念していた。
 父はあたしがバドミントンをすることに反対だったんだ。折り合いが良くなかった母とのゆかりもあるし。やっぱり、無謀なお願いだった?

『そうか、札幌かあ』
「やっぱり、無理だよね?」
『そうだな。悪いが仕事が忙しくてな。とてもじゃないが、その日は手が離せそうにない』
「うん、わかった。突然変なお願いをしてごめんね」

 それから少しだけ話をしたが、お互いに話題が少なくあまり会話は弾まなかった。
 頑張っている姿を見せる相手なんてやっぱりいなかった。あたしは誰のためにバドミントンをしているのだろう、なんて思ってしまう。
 翼が、完全に折れた気がした。

  ◇ ◇ ◇

 紗枝ちゃんは、一泊二日の入院期間を経て退院した。
 二、三日安静にしている必要があるとのことで、寮には戻って来ず、自宅で療養するらしい。週末くらいから学校には出るけど、大会への参加は見合わせることになった。体を動かすこと自体は問題ないが、念のため、医者からドクターストップがでたのだ。
 あたしのせいだ。
 そう思うと、穴の中に体ごと落ち込んでいくみたいな気持ちになる。


「あっ……」

 打ち損じた、という自覚はあった。
 練習中、小春が打ったシャトルをレシーブしたとき違和感があって、確認したらラケットのガットが切れていた。
「今日、二本目じゃん」と隣に心が来て言う。

「まだ、ラケットある?」
「ある。あと一本だけだけど」
「一本……」
「一度休もうか?」と今度は小春。
「今日、紬の攻めがちょっと甘い気がするんだよね。いつもの切れがないというか。もしかしたら、疲れているのかもよ?」
「そうだね。一回休むよ」

 こちらも自覚があった。最初は気のせいかと思った。違和感と言っても、本当にささいなものでしかなかったから。
 いかないのだ。相手のボディ周りへのショットが。
 それ以外はなんの問題もないのに、相手の真正面に打ったときだけ狙った的からズレるみたいな。
 思えば、ガットが切れたのもこのせいかもしれない。いわゆる下手打ちという現象で、シャトルをスウィートスポット(真ん中)でとらえられていないからなのだ。
 いずれも、ささいなズレでしかないのだろう。たとえるならば、時計の秒針が数秒だけ狂ったくらいの違和感。けれど、この数秒の狂いを抱えたまま、勝てるような相手ではないのだ。姫子は。
 全然、大丈夫じゃなかった。
 大会まで、あと四日。

 翌日、熱が出た。朝起きて、なんとなく体が重怠い気がして熱を測ったら三十八度だった。学校に、体調不良で休む旨を伝えてそのままベッドに横になった。
 大会まで、あと三日。

 そのまた次の日も、熱は下がらなかった。一応、かかりつけの病院に行ってきた。幸いにも、感染性の流行風邪ではなかった。薬をもらって帰ってきた。
 ――ごめんね、私のせいで。
 そんなメッセージが、何度か紗枝ちゃんからチャットアプリで届いていた。
 違う、紗枝ちゃんのせいじゃないよ。全部あたしがしたことだから。
 紗枝ちゃんが、歩み寄ろうとしてくれているのがわかる。それなのに、あたしはうまく心を開けずにいる。
 あたしのせいで、彼女は試合に出られなくなった。生きているのが辛くなるくらい、ここ数日悲しさと悔しさで心中がいっぱいになっている。心が痛い。ずっと心が痛いんだ。
 これから、紗枝ちゃんとどう接していけばいいのかわからない。紗枝ちゃんがここにいないことを、心のどこかで安堵している。どの面を下げて会えばいいのか、皆目検討がつかないから。
 大会の日は、紗枝ちゃんが応援に来てくれるらしい。
 それなのに、あたしは、彼女のメッセージに何ひとつ返信できずにいた。延々と、既読スルー。
 ――いつまでそうして寝込んでいるつもり? さっさと直して出てきなさいよ?
 こちらは心からのメッセージ。口調は強いけど、その中に心なりの優しさが込められていた。
 ありがとう、心。あたしに夢を見させてくれて。心が翼になってくれたから、もう一度飛べる気がしたよ。心がいてくれたから、あたしは。
 でも、もうダメかもしれない。自分でも、自分がおかしくなっているのがわかった。あたしは心がいないと飛べない。誰かの支えがなければ飛べない鳥なんて、そんなのやっぱり鳥じゃないよ。
『熱が出たのは、精神的な理由かもしれません。たぶん疲れているんですよ』
 今日、医者にそう言われた。心当たりがいくつもあった。
 体調不良もプレーにおける不調も、すべて精神的なものからきている可能性があった。
 ――勝負の八割が、試合前に決まっている。
 その通りだ。こんなメンタルのまま試合に出たって勝てるわけがない。
 まずは熱を下げなくちゃ、と薬を飲んで横になった。
『勝たなければ意味ないじゃないですか』
 あたし、そんなことも言ってたっけなあ。
 そうだよ、意味なんてないよ。勝てなければ意味ないんだよ。
 ふと、一年前とまったく同じ状況なのだと気がついた。あのときも、心配して連絡をくれる姫子のメッセージをすべて無視していた。彼女の好意を無下にして、バドミントンから逃げた。
 ――逃げてばかりいたって何も始まらないでしょ! 弱虫!
 あの日の姫子の言葉が胸をえぐる。何も成長していない。やっぱりあたしは、弱いまんまだ。
 スマホの電源を切ってベッドの上に放り投げた。
 誰とも繋がりたくなかった。自分でも驚くほど、大会に気持ちが向いていかない。
 大会まで、あと二日。
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