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3話 はじめての課題
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例えばスポーツ選手なんかで飛行機恐怖症だったりすると商売にならないわけで、何が何でも克服しなくちゃいけない。きっと、中にはいると思うんだよね、そういう人。
つまり、やろうと思えばできるはずなのだ。理論的には……。
かつ、全世界的に上司の命令は『絶対』ときてる。
「ああ~……」
ちくしょう、上司め!
私はとぼとぼと新宿の端くれを歩いていた。
「えーっと、ここか。第一産業ビル」
見上げるビルはうちに負けず劣らずでっかい。
時刻は8時半過ぎ。
丁度いいかな。
そう思って目的の場所にたどり着いた私だったが、見るなりぎょっとした。
すごい、長蛇の列!
何これ。まだ早朝なのに。
サラリーマン風のおじさん、OL、お年寄り、お母さんに連れられた子供……。
私はうんざりした。
『え? 病院? どうしたの、どこか具合でも悪いの?』
とは室長の反応。通勤途中に病院へ寄ると連絡を入れたのだ。
『いや、特に平気なんですけど……地上では。その、ちょっと高度上げるとダメなんですよ』
『ええ? どういうこと』
『すみません、今から出ますので失礼します』
意味不明な病状を伝えて切った。
言えるわけねーや。飛行機恐怖症だなんて。みっともない上に私が転勤するなんてまだ秘密みたいだから。
ああ、情けない。
ネットで情報募ったところ、『ここいいよ』と教えてもらった診療所に来てみた。
のはいいけれども。
患者多すぎ!
開院8時30分からなのに、既にずらーっと番号札持って待ってるなんてどういうことよ。
世の中病んでる人が多いのかなあ。大丈夫か、ニッポン!
ぼやぼやしてる間に何人か札を取っていく。
仕方ない。
私は札を取りベンチの端っこに座って問診票を書いていた。
ブツブツブツ。
妙な声がしたので無意識にそちらを向くと、すぐ目の前におじいさんが座っていた。
何やら呟いている。視線はうつろで、私の耳には念仏のように聞こえる。
このおじいさんも精神を病んでいるのだろうか。
一人……じゃないよね。付き添いの人は?
そっと見回すが、それらしい人はいない。
「うおら、ばーたれがぁー」
突然、おじいさんは声を上げた。
私は弾みで席を立ってしまった。
おじいさんの手がぶるぶる震え始めた。
「あらまあ、道方さん……」
看護士さんがやってきて、おじいさんの顔を覗き込む。
おじいさんはずっと、何かを呟いている。うらめしそうに。
看護士さんに背中をなでられても。
その光景だけでも異常なのに、更に尋常でないのがみんなの視線だ。しらっとも冷たいとも微妙に違う覇気のない眼の色。
ひぃぃ。
座るに座れない、チキンな私。
こそこそ受付に行って待ち時間を聞いてみる。
「2時間くらいでしょうか」
実にあっさりと言われ、がっくり肩を落とした。
ちょ、2時間もこんなとこにいるの~?
病院なんてめったに来ない私には刺激が強すぎる。私は保険証を返してもらい、そこを出た。
すごすごと引き返していつものルートへ。
ロッカーから会長室へ上がる途中に室長が駆け寄ってきた。
「市川さん、具合悪いの?」
挨拶もしないうちに。本気で心配してくれてるみたいだ。小さな声で「おはようございます」と言いながら私は首を横に振った。
「大したことじゃないんですけど。治すよう言われたのでぼちぼち通ってみようかなと思いまして」
「言われたって、会長に?」
「はい。あ、そんな大げさなものじゃないですよ。あはは、高所恐怖症の一種みたいです」
バカみたいな言い訳だ。だが私の頭じゃこれくらいしか思いつかない。
「えっ、高所恐怖症だったの!?」
室長は大げさに手を動かした。いや、違うんだけど。高所恐怖症でもないのに何故飛行機はダメなのだろう。ふと私は思った。
「わかんないです。そうかもしれないって」
「大丈夫? 高い所が苦手、なんて。ブラインドをつけるとかじゃダメなのかしら」
つくづくこの人はいい人だ。などと、じーんとしつつも、ちくちく良心が痛む。お気持ちは嬉しいけれども、ブラインドなんかしたら絶景が見れなくなっちゃうわ。
「その、何ていうか、静止してる景色は平気みたいです。ただ、動いてるのがちょっと」
「まあ、揺れるの?」
いや、揺れませんよ、こんな金がかかってそうなビル、耐震強度も抜群なんだろうし。まあ、地震の際は上の階ほど揺れるという話だが。
本当は閉所恐怖症の方だろうな。どっちかと言うと。
「会長はご存知なのね」
「はあ」
「あまり無理をしないでね。気分が悪くなったらいつでも休憩していいのよ」
休憩し放題なのだが。
もうこれ以上嘘を広げるわけには行かない。
私はへらへら薄ら笑いを浮かべて、ゆっくり、その場を離れた。
とりあえず、クリニックに行きはしたのだから一歩前進だ。と自分に言い聞かせて上に上がると、荷物が届いていた。
「開けてみなさい」と言われて、そのクール便のシールが貼られたダンボールを開封する。
スッキーニ、トマト、オイルサーディン、アンチョビーの瓶詰め。
何このイタリア尽くし。どっさり、太陽の恵み。
「知り合いが送ってきたんだ。好きに使ってくれ」
と、会長は言った。
「房総の海沿いに住んでいるんだ。アメリカにいた頃の同期なんだが。畑や釣りが趣味になってしまったようだな。そんな人間じゃなかったんだがね」
フフと微笑む。
「えーと、このアンチョビーは」
私は瓶を手に取った。クール便なのでひんやりしている。結構大き目のガラス瓶にアンチョビーがぎっしり。市販のアンチョビーといえば大抵小さな瓶詰め入りだ。このサイズは珍しい。
「自家製だよ。ご自慢の品だそうだ。是非、料理に使ってくれと言われた」
へえ~、自家製? すごいなあ。サーディンの方は、何となく作れそうな気がするけれど。いかにも美味しそうな肉の色。
ちらっと箱を見ると、送り主は『亜蘭』。何じゃ、こりゃ。
あて先をこのビル名にして、会長の名前を書いておけば、まず間違いなく届くところがすごい。さすが、自社ビル……。
奥に引っ込んで、早速献立作りに取り掛かる。
千葉の田舎住まいのアランさん特製アンチョビー&オイルサーディンに山ほどのズッキーニ、トマト。トマトは大小様々なサイズ、形があり、色々使えそうだ。モリモリとハート型に熟したでっかいのもある。
考えた結果、ズッキーニのファルシ、トマトの冷製パスタ、夏野菜のキッシュをお昼に、デザートはズッキーニとライムのケーキ、とした。
「これは美味しい!」
しょっぱな、付き出し代わりにちょっと焦げ目をつけたオイルサーディンを口にした途端、唸ってしまったのは私だ。やられたぁ~。レモンと玉ねぎと一緒に口の中に広がるこのエキス。絶妙な塩加減。ああ~、一杯やりたくなる~。
「ワインが進みそうなのにな。残念」
手でグラスを傾ける振りをすると会長はふっと笑った。
「旨いね」
会長、機嫌よさそう。
きっと、クリニックに行ってきたのだと思われてるのだろう(確かに行ったことは行った)。
そのせいかどうか知らないが、今日は久しぶりに同じテーブルで食べるよう言われた。
並べてるだけで幸せな気分になる。イタ飯ってそういう良さがある。見た目おしゃれなのに気取りがない。案外重くないし。
「オリーブオイルにも挑戦すると言っていたよ。すっかり、人が変わってしまったようだ」
ふうん。仕事人間だったのかなあ。アランさんとやら。
「イタリアの方なんですか?」
「いや。アメリカ人」
会長って、友達いなさそうで、そうでもない。
アメリカにいた頃はもっと普通だったのだろうか。
あの緑川さんにしろ、会社に届け物をするほどの間柄だ。
『アメリカにいらした頃のお知り合いが官庁にもいらっしゃって……』
いつだか、吉永さんも言ってたな。
「日本に来て、日本人と結婚して、いずれは帰国することになるのだろうが、田舎の生活を満喫しているよ。釣りやサーフィンや、会えばその話ばかりだ。よほど、気に入ってるんだな」
「へえ。イワシなんて釣り放題ですね」
「そう。私に、仕込みを手伝えと言ってくる」
会長に?
まあエビや大物がさばけるのだからイワシなんてちょろいわな。
手開きでちょちょいのちょいですわ。
会長は極細のカッペリーニをフォークに巻きつける。
ふわんと伸びた前髪が額にかぶさる。
きれいな目にかかりそうな、珈琲色の髪が、とてもいい感じ。
この人の地色なのか、本当に、珈琲の香りがしてきそうなほど、いい色合いなの。
こんなにかっこいいのに、左手の薬指に何もしてないのって、つくづく信じられない。
御年34歳。
「お互い日本にいるうちに、一度行ってみようとは思ってるんだが、中々機会がない」
「そうですか」
日本にいるうちに、なんておっしゃらずに。
ずっと……いようよ?
つまり、やろうと思えばできるはずなのだ。理論的には……。
かつ、全世界的に上司の命令は『絶対』ときてる。
「ああ~……」
ちくしょう、上司め!
私はとぼとぼと新宿の端くれを歩いていた。
「えーっと、ここか。第一産業ビル」
見上げるビルはうちに負けず劣らずでっかい。
時刻は8時半過ぎ。
丁度いいかな。
そう思って目的の場所にたどり着いた私だったが、見るなりぎょっとした。
すごい、長蛇の列!
何これ。まだ早朝なのに。
サラリーマン風のおじさん、OL、お年寄り、お母さんに連れられた子供……。
私はうんざりした。
『え? 病院? どうしたの、どこか具合でも悪いの?』
とは室長の反応。通勤途中に病院へ寄ると連絡を入れたのだ。
『いや、特に平気なんですけど……地上では。その、ちょっと高度上げるとダメなんですよ』
『ええ? どういうこと』
『すみません、今から出ますので失礼します』
意味不明な病状を伝えて切った。
言えるわけねーや。飛行機恐怖症だなんて。みっともない上に私が転勤するなんてまだ秘密みたいだから。
ああ、情けない。
ネットで情報募ったところ、『ここいいよ』と教えてもらった診療所に来てみた。
のはいいけれども。
患者多すぎ!
開院8時30分からなのに、既にずらーっと番号札持って待ってるなんてどういうことよ。
世の中病んでる人が多いのかなあ。大丈夫か、ニッポン!
ぼやぼやしてる間に何人か札を取っていく。
仕方ない。
私は札を取りベンチの端っこに座って問診票を書いていた。
ブツブツブツ。
妙な声がしたので無意識にそちらを向くと、すぐ目の前におじいさんが座っていた。
何やら呟いている。視線はうつろで、私の耳には念仏のように聞こえる。
このおじいさんも精神を病んでいるのだろうか。
一人……じゃないよね。付き添いの人は?
そっと見回すが、それらしい人はいない。
「うおら、ばーたれがぁー」
突然、おじいさんは声を上げた。
私は弾みで席を立ってしまった。
おじいさんの手がぶるぶる震え始めた。
「あらまあ、道方さん……」
看護士さんがやってきて、おじいさんの顔を覗き込む。
おじいさんはずっと、何かを呟いている。うらめしそうに。
看護士さんに背中をなでられても。
その光景だけでも異常なのに、更に尋常でないのがみんなの視線だ。しらっとも冷たいとも微妙に違う覇気のない眼の色。
ひぃぃ。
座るに座れない、チキンな私。
こそこそ受付に行って待ち時間を聞いてみる。
「2時間くらいでしょうか」
実にあっさりと言われ、がっくり肩を落とした。
ちょ、2時間もこんなとこにいるの~?
病院なんてめったに来ない私には刺激が強すぎる。私は保険証を返してもらい、そこを出た。
すごすごと引き返していつものルートへ。
ロッカーから会長室へ上がる途中に室長が駆け寄ってきた。
「市川さん、具合悪いの?」
挨拶もしないうちに。本気で心配してくれてるみたいだ。小さな声で「おはようございます」と言いながら私は首を横に振った。
「大したことじゃないんですけど。治すよう言われたのでぼちぼち通ってみようかなと思いまして」
「言われたって、会長に?」
「はい。あ、そんな大げさなものじゃないですよ。あはは、高所恐怖症の一種みたいです」
バカみたいな言い訳だ。だが私の頭じゃこれくらいしか思いつかない。
「えっ、高所恐怖症だったの!?」
室長は大げさに手を動かした。いや、違うんだけど。高所恐怖症でもないのに何故飛行機はダメなのだろう。ふと私は思った。
「わかんないです。そうかもしれないって」
「大丈夫? 高い所が苦手、なんて。ブラインドをつけるとかじゃダメなのかしら」
つくづくこの人はいい人だ。などと、じーんとしつつも、ちくちく良心が痛む。お気持ちは嬉しいけれども、ブラインドなんかしたら絶景が見れなくなっちゃうわ。
「その、何ていうか、静止してる景色は平気みたいです。ただ、動いてるのがちょっと」
「まあ、揺れるの?」
いや、揺れませんよ、こんな金がかかってそうなビル、耐震強度も抜群なんだろうし。まあ、地震の際は上の階ほど揺れるという話だが。
本当は閉所恐怖症の方だろうな。どっちかと言うと。
「会長はご存知なのね」
「はあ」
「あまり無理をしないでね。気分が悪くなったらいつでも休憩していいのよ」
休憩し放題なのだが。
もうこれ以上嘘を広げるわけには行かない。
私はへらへら薄ら笑いを浮かべて、ゆっくり、その場を離れた。
とりあえず、クリニックに行きはしたのだから一歩前進だ。と自分に言い聞かせて上に上がると、荷物が届いていた。
「開けてみなさい」と言われて、そのクール便のシールが貼られたダンボールを開封する。
スッキーニ、トマト、オイルサーディン、アンチョビーの瓶詰め。
何このイタリア尽くし。どっさり、太陽の恵み。
「知り合いが送ってきたんだ。好きに使ってくれ」
と、会長は言った。
「房総の海沿いに住んでいるんだ。アメリカにいた頃の同期なんだが。畑や釣りが趣味になってしまったようだな。そんな人間じゃなかったんだがね」
フフと微笑む。
「えーと、このアンチョビーは」
私は瓶を手に取った。クール便なのでひんやりしている。結構大き目のガラス瓶にアンチョビーがぎっしり。市販のアンチョビーといえば大抵小さな瓶詰め入りだ。このサイズは珍しい。
「自家製だよ。ご自慢の品だそうだ。是非、料理に使ってくれと言われた」
へえ~、自家製? すごいなあ。サーディンの方は、何となく作れそうな気がするけれど。いかにも美味しそうな肉の色。
ちらっと箱を見ると、送り主は『亜蘭』。何じゃ、こりゃ。
あて先をこのビル名にして、会長の名前を書いておけば、まず間違いなく届くところがすごい。さすが、自社ビル……。
奥に引っ込んで、早速献立作りに取り掛かる。
千葉の田舎住まいのアランさん特製アンチョビー&オイルサーディンに山ほどのズッキーニ、トマト。トマトは大小様々なサイズ、形があり、色々使えそうだ。モリモリとハート型に熟したでっかいのもある。
考えた結果、ズッキーニのファルシ、トマトの冷製パスタ、夏野菜のキッシュをお昼に、デザートはズッキーニとライムのケーキ、とした。
「これは美味しい!」
しょっぱな、付き出し代わりにちょっと焦げ目をつけたオイルサーディンを口にした途端、唸ってしまったのは私だ。やられたぁ~。レモンと玉ねぎと一緒に口の中に広がるこのエキス。絶妙な塩加減。ああ~、一杯やりたくなる~。
「ワインが進みそうなのにな。残念」
手でグラスを傾ける振りをすると会長はふっと笑った。
「旨いね」
会長、機嫌よさそう。
きっと、クリニックに行ってきたのだと思われてるのだろう(確かに行ったことは行った)。
そのせいかどうか知らないが、今日は久しぶりに同じテーブルで食べるよう言われた。
並べてるだけで幸せな気分になる。イタ飯ってそういう良さがある。見た目おしゃれなのに気取りがない。案外重くないし。
「オリーブオイルにも挑戦すると言っていたよ。すっかり、人が変わってしまったようだ」
ふうん。仕事人間だったのかなあ。アランさんとやら。
「イタリアの方なんですか?」
「いや。アメリカ人」
会長って、友達いなさそうで、そうでもない。
アメリカにいた頃はもっと普通だったのだろうか。
あの緑川さんにしろ、会社に届け物をするほどの間柄だ。
『アメリカにいらした頃のお知り合いが官庁にもいらっしゃって……』
いつだか、吉永さんも言ってたな。
「日本に来て、日本人と結婚して、いずれは帰国することになるのだろうが、田舎の生活を満喫しているよ。釣りやサーフィンや、会えばその話ばかりだ。よほど、気に入ってるんだな」
「へえ。イワシなんて釣り放題ですね」
「そう。私に、仕込みを手伝えと言ってくる」
会長に?
まあエビや大物がさばけるのだからイワシなんてちょろいわな。
手開きでちょちょいのちょいですわ。
会長は極細のカッペリーニをフォークに巻きつける。
ふわんと伸びた前髪が額にかぶさる。
きれいな目にかかりそうな、珈琲色の髪が、とてもいい感じ。
この人の地色なのか、本当に、珈琲の香りがしてきそうなほど、いい色合いなの。
こんなにかっこいいのに、左手の薬指に何もしてないのって、つくづく信じられない。
御年34歳。
「お互い日本にいるうちに、一度行ってみようとは思ってるんだが、中々機会がない」
「そうですか」
日本にいるうちに、なんておっしゃらずに。
ずっと……いようよ?
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