婚約者の前で奪われる!?王太子が僕の番だった夜

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婚約者からの祝福と、殿下の気配

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 何かを返すこともできないまま、僕はただ黙って殿下の横顔を見つめていた。

 殿下は食器を片づける侍従に軽く頷き、立ち上がる。

 「しばらくの間、この部屋で過ごすといい。必要なものがあれば、何でも言ってくれ」

 「……はい」

 扉に向かう背中が、遠ざかるほどに胸が妙にざわついた。

 殿下は扉の前で一度だけ振り返り、穏やかな微笑みを向ける。

 「すぐに、また来る」

 そう言って扉が閉じられると、静寂が貴賓室の隅々まで満ちた。

 殿下がいないだけで、空気がこんなにも静まるのか。

 落ち着くはずなのに、なぜだか胸の奥がひどく騒がしくなる。

 リリアナのことが、思い浮かんだ。

 婚約者。

 僕を案じ、殿下に「無事ならそれでいい」と伝えた人。

 あの優しさを裏切るように、僕は今 “番” としてここにいる。

 逃げたくても逃げられない。
 だけど、この部屋が嫌だと感じるわけでもない。

 心が、二つに裂かれていた。

 コン、コン。

「失礼いたします、レオン様。王宮侍従長にございます。今後の滞在について、ご説明をさせていただきます」

 扉が開き、穏やかな気配の壮年の男性が姿を現した。

 翡翠の石を思わせる淡い青緑の髪。
 深い皺の刻まれた瞳は落ち着きがあり、立ち姿は隙がない。

(……この人が、侍従長)

 自然と背筋が伸びた。

 「まず、この貴賓室は王族区画に位置しており、王族の御許しがなければ立ち入りできません。レオン様の身の安全は、王宮が責任をもってお守りいたします」

 淡々と説明される事実が、そのまま僕の状況を形作っていく。

 「外出をご希望の場合は、王太子殿下の許可が必要です。また、護衛が常に同行いたします」

 “逃げ出せない”という事実を柔らかく言い換えると、こうなるのだろう。

 侍従長は続ける。

 「お召し物、日用品等はすべてこちらで準備いたします。アステリア公国の品が必要であれば、取り寄せの手配も可能です」

「……ありがとうございます」

 声が少し掠れた。

 侍従長が退出して部屋に静寂が戻ると、窓から吹き込む風がカーテンを揺らす。

 その揺れを眺めていると……

 コン、と軽いノックが再び響いた。

 さきほど侍従長が退出してから、ほとんど間を置かずに訪れた音だった。

 「……どうぞ」

 返事をすると、扉が静かに開く。
 姿を現したのは、上品な年配の女性だった。

 灰がかった金髪をきっちりとまとめ、深い群青色の制服に身を包んでいる。

 その立ち姿からは、ただ者ではない気品と威厳が漂っていた。

 彼女は一歩進み出て、丁寧に一礼する。

 「初めまして、レオン様。私は王宮侍女長のメレディアと申します」

 侍女長。

 王族付きの侍女を束ねる、王宮内でも限られた者しか接することのない地位。

 思わず姿勢を正すと、メレディアは柔らかく微笑んだ。

 「突然の訪問をお許しくださいませ。昨夜の夜会にて、リリアナ・バレンティア様より伝言をお預かりしております。」

 胸の奥が強く跳ねた。

 彼女の両手には、小さな封筒。
 王家の封蝋が押されており、正式な経路で届けられたものだと分かる。

 「王妃陛下のご許可をいただき、お渡しに参りました」

 「……ありがとうございます」

 手を伸ばすと、わずかに指先が震えた。

 封を切り、便箋を開く。

 ──────

 レオンへ。

 昨日は、本当に驚きの連続だったわね。

 あれだけ堂々と王太子殿下にさらわれていくなんて、正直、目を疑ったもの。

 でも、よかったじゃない。
 運命の“番”に……それも、よりによって王太子殿下に出会えるなんて。

 殿下の、あのとろけるような表情、見てしまったわ。

 番に出会えると、人ってあんなにも変わってしまうのね。

 噂とは全然違っていて……本当に驚いたの。

 思わず口が開いてしまいそうだったわ。

 さて、心配しているかもしれないから、先にひとつ伝えておくわね。

 両陛下への挨拶は、第二王子殿下がエスコートしてくださったの。

 とても紳士的な方で、緊張もすぐに薄れて、ちゃんと務めを果たせたから安心して。

 ……レオン。
 たぶん、私たちの婚約はなかったことになるでしょうね。

 でも、それでいいの。

 あなたには、あなたの運命があるもの。

 私は、それを心から祝福するわ。

 それにね、形は変わっても、私たちの“絆”が消えることはないのよ。

 ……ああ、そうそう。
 驚くかもしれないけれど、もうひとつ報告があるの。

 実は、第二王子殿下から
 「もしよければ、今後ゆっくりお話する機会がほしい」
 なんて言われてしまったの。

 もちろん、その場ですぐ返事をしたりはしていないわ。

 ただ……もしかしたら近いうちに、あなたにも“少し明るい知らせ”を届けられるかもしれない。

 だから、レオン。

 私のことで思い悩んだりしないでね。

 あなたはあなたの道を歩いていい。

─────

便箋の最後の一行を目で追った瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。

 ……リリアナらしい。
 あの人らしい、明るくて、強くて、優しい言葉。

 僕の心配よりも、僕の“これから”を気遣って。

 自分の不安や寂しさは、文字ひとつでさえ滲ませていない。

 それなのに……

 「……ずるいよ、リリアナ」

 声に出した途端、喉がひどく痛くなった。

 彼女が僕に向けてくれた想いを裏切ったのは、僕の方だ。

 僕は“番”として殿下に選ばれた。

 その瞬間、婚約者である彼女への責任から逃げたようなものだ。

 けれど、リリアナは怒りも悲しみも見せず、ただ優しく背中を押す手紙を書いてくれた。

 第二王子殿下のことにも触れていた。

 もしかしたら、彼女も新しい道を歩むのかもしれない。

 そう思うと、胸の片隅に小さな安堵が芽生える。

 でも同時に、なぜだろう……涙が滲んだ。

 「……君は、いつだって……強いな」

 便箋をそっと胸元に抱き寄せると、その温かさが少しだけ僕を落ち着かせてくれた。

 ふと視線を落とすと、右手の甲に刻まれた印が、薄く光を帯びている。

 殿下の指が触れた場所。
 “運命の番”として選ばれた証。

 その熱は、先ほどまでよりも強く脈打っていた。

 (リリアナは前を向いて歩こうとしている……じゃあ僕は?)

 胸の奥がざわついたまま、答えの出ない問いが静かに渦を巻く。

 でも……彼女がくれた言葉が、そっとその渦を押し返した。

 「あなたはあなたの道を歩いていい」

 その一文が、まるで僕の迷いに手を伸ばしてくれたように思えた。

 そっと便箋を折り畳み、封筒に戻す。

 返事を書きたい。
 すぐにでも伝えたい。

 「……ありがとう、リリアナ」

 声に出すと、少しだけ胸の痛みが薄れた。

 その瞬間、扉の向こうに人の気配がした。

 静かに、しかし確かな足音。

 ……殿下だ。

 心臓が、大きく跳ねた。
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