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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第8話:舞台裏の語り手(黒瀬 蓮・視点)
しおりを挟む――突然で申し訳ないが、帰国したばかりの僕、黒瀬 蓮の話をさせてもらってもいいだろうか。ああ、心配しなくていい。君たちの許可なくとも、僕は話すつもりだ。
なぜなら、ロビーで見たあの水野奈月という女性は、君たちにとっても、そして僕自身にとっても、この退屈な世界を変える鍵になりそうだからね。
僕は、会長室での挨拶を終え、エレベーターで一階ロビーに戻るためにホールへ向った。
祖父(会長)も叔父(社長)も、僕には依然として外部の人間に対するような距離感を保っていた。それは、父が病で倒れ、僕の代で跡継ぎの座が父の弟・家系に移ってから、ずっと変わらない空気だった。
もちろん、祖父も叔父も祖母も、僕の父を亡くした悲しみは深く、今も僕を温かく迎え入れてくれる。特に会長である祖父は、孫として僕を案じている。
だが、叔母である瑛斗の母だけは違った。彼女にとって、僕は居てはいけない存在なのだろう。夫を現社長に押し上げ、息子を次期トップにするために、邪魔な元の跡継ぎの血筋を遠ざけたいのだ。
そして、僕が『黒瀬』という母の姓を名乗っているのも、神谷家内部のルールによるものだ。正式な跡取りの直系以外は、神谷姓を名乗らない。僕は、神谷家の血筋でありながら、そのルールによって神谷ではないという烙印を押されている。
財閥ではあるあるの話だ。
そんな複雑な血族のしがらみから解放され、早く自宅へ戻りたかった。
が、エレベーターから降りると、広大な大理石のロビーホールに、洗練されたスーツ姿の群れの中に、明らかに異質な一点が目に入った。その横には見慣れた日高と桐谷が居た。
彼女は、ネイビーのスーツに身を包んでいたが、どこか落ち着かない様子だ。
――完璧な衣装だ。
上質なネイビーの生地は体のラインに沿って無駄なく仕立てられ、カバン、靴、アクセサリーに至るまで、全てが一流ブランドの最新コレクションで揃えられているのが見て取れた。だが、その完璧な装いと彼女自身の間に、決定的なズレがある。
まるで、値札を付けられたばかりのマネキンのように、衣装と持ち物が、彼女の意志とは無関係に、外側から無理やり彼女という器に詰め込まれたような、場違いな華やかさがあった。
本来、最高の服は着る人の自信と馴染むものだが、彼女のスーツは、彼女の不安な心を覆い隠しきれていなかった。
(あれが、例の契約の許嫁か)
瑛斗が連れてきた、借金返済のための契約婚約者——水野奈月。
僕はすぐに二人に声をかけた。
「日高さん、桐谷さん、お久しぶりです。」
日高は驚きを隠せず、慌てて僕を紹介した。一瞬だけ視線を向けた奈月は、まるで氷の彫刻のような従兄弟しか知らないと言いたげに、目を丸くしていた。
彼女の顔は整っている。だがそれ以上に、僕の目に留まったのは、彼女の瞳の奥にある、諦めきれていない庶民特有の反骨精神だ。
それは、巨大な富と権力に押しつぶされそうになりながらも、決して目を逸らさない、まっすぐな光だった。
普通の人間なら、この神谷家のルールや契約の重圧に屈し、与えられた豪華な生活に満足して、感情を殺すだろう。だが、彼女の瞳は違った。
『私は、あんたたちが決めたルールなんて認めない』
そんな無言の主張を、僕は彼女の視線から読み取れた気がした。この環境に馴染もうとする表層的な努力と、内面で猛烈に抵抗しているギャップが、彼女を異質に見せている。
(もし、父が生きていたら、この女性は僕の許嫁だったはずだ)
胸の奥で、微かな確かな支配欲がざわめいた。この女性は、神谷家の冷たい支配の鎖を、内側から破壊できる唯一の鍵になるかもしれない。
彼女は純粋だ。故に、瑛斗の冷たい無関心とは対極にある、僕の熱狂的な関心と執着を注ぐに値する。
――愛?それは惜しみなく奪うことだ。
恋心も、僕の大義も、この神谷家の地位も、どれも分かち合えぬもの。
僕が手に入れる。すべて。
僕は、甘い笑みを浮かべ、優雅に挨拶をした。
「水野さん、初めまして。黒瀬 蓮です。」
その瞬間、彼女の瞳に射し込んだ光を、僕は見逃さなかった。まるで、氷の洞窟の中で、初めて太陽の光を浴びたような、驚きと、戸惑いと、そして微かな安堵の色。
彼女は「は、はい...失礼します」と、か細く、たどたどしい声で答えるのが精一杯だった。その声は、この広大なロビーのざわめきにかき消されそうだった。
――やはり、僕だと気づいていないようだな。
数日前、近所の寂れた公園で声をかけた、あの疲れた様子の女性と、この最高級のスーツに身を包んだ契約婚約者が同一人物だと、彼女の頭はまだ処理できていないのだろう。
あの時、僕は言ったはずだ。
「人生、大変なことほど、面白いんですよ。意外と、どうにかなるものです」と。
彼女はあの言葉に、涙腺が緩むほどの純粋な感情を見せていた。あの偽りのない反応こそが、この会社の誰とも違う、彼女の持つ最大の武器だ。
瑛斗が、彼女をどのように扱っているかは想像付く。だから僕なら、決して泣かせないし、もっと丁寧に扱う。
そして、僕が本来持つべきだったものを、すべて取り戻すための舞台装置として、最大限に活用するだろう。
挨拶を終え、僕は奈月の背中に向かって、心の中で呟いた。
(面白い。君は、僕がこの家に帰ってきた理由になるかもしれない)
その足で、自分の部署であるブランド戦略部へ向かった。本当は、そのまま祖母へ挨拶しに戻るつもりだったが、もう少しこの会社内に居たいと思った。
僕の姿を見つけるやいなや、オフィスに小さな歓声が上がった。
「蓮様♡お帰りなさいませ!」
「蓮室長、出張お疲れさまでした!このお土産、有名ですよね!」
女性社員たちが、まるでアイドルの帰還を歓迎するかのように、明るい笑顔と声援で出迎えてくれる。彼女たちの顔には、偽りのない好意と尊敬が滲んでいた。
もちろん、男性社員たちもだ。
「蓮室長、お戻りでしたか。明日の会議、ご一緒できますか!」
彼らは僕を、単なる上司としてではなく、スターライト企画の未来を担うリーダーとして信頼してくれている。
(瑛斗、君の周りには氷しかないだろうが、僕の周りには人がいる)
瑛斗は頭が切れるが、その冷徹さゆえに人を遠ざける。それが彼の弱点だ。そして、その弱点こそが、僕がこの会社で生き残るための武器になる。
僕は社員たち一人ひとりに笑顔を返し、彼らの労をねぎらう。その中で、佐伯涼子の姿を捉えた。涼子は、僕が次期社長と目されていた頃、最も熱烈な視線を送っていた女性の一人だ。
跡継ぎの座が瑛斗の父の家系に移ると知るや否や、涼子はすぐに瑛斗の周りを嗅ぎまわるようになった。涼子の顔には今も変わらず笑顔があるが、その瞳は愛ではなく、損得勘定で光っている。
この温かい空気に浸っていると、先ほどロビーで見た、氷のような瞳に怯えていた奈月の姿を思い出した。
奈月の瞳には、計算された打算が見えなかった。それが、この会社で最も異質な、そして魅力的な要素かもしれない。
(僕が、奈月の太陽になるだろう)
そう決意し、僕は自分の執務室へと足を進めた。
――さて、僕の舞台裏の解説はここまでにしておこう。
そろそろ、主役である水野奈月の話に戻る時間だ。これから彼女は、あの氷の従兄弟と、彼の父が待つ社長室へ向かうはずだ。
そこが、この契約結婚という名の檻の、本当の始まりだろう。
まあ、心配するな。奈月。
また、すぐに会うことになるさ。
(つづく)
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