20 / 26
第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第20話:誰が連れ出してくれるの?
しおりを挟む熱の波が、何度も何度も意識を飲み込もうとする。重たい瞼の裏側で、誰かが私の手を強く、折れそうなほど握りしめていた感覚だけが残っていた。
(……瑛斗?)
冷酷で、傲慢で、私をこの屋敷に閉じ込めた人なのに、その手の熱さだけは、不思議と私を守ろうとしているようにも感じられた。
重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。視界は白く霞み、頭の芯がジンジンと痛む。ぼんやりとした影が、私のすぐ傍に座っているのが見えた。
「……奈月。……」
名前を呼ぶ声が、熱を帯びた空気に混じって耳に届く。語尾が震えているのか、あるいはひどく甘く囁かれているのか。意識が朦朧としていて、うまく聞き取れなかった。頬に、ひんやりとした指先が触れた。その冷たさが心地よく、無意識にその影の方へ顔を寄せた。
「……瑛斗、さん……?」
どうしてだろう。いつも私を射抜くような、あの鋭い切れ長の一重まぶたが、今はなんだか……とても優しく、潤んだ二重に見える。
(熱のせいか……)
私は、その手を、自分から微かに握り返した。指先から伝わる体温が、冷え切った私の心に溶け込んでいくようだった。直接触れることなんて、これまでなかったけれども、今は、その温度こそが、壊れそうな私を現実へと繋ぎ止める、たった一つの確かな温もりだった。
(本当は、こうしてほしかった……)
皮肉を言い合い、傷つけ合う日々なんて、本当はもう嫌だと思っていた。限界だと思った。ただ、この大きな手に包まれて、「大丈夫だ」と言ってほしかっただけ。
「……ごめんなさい……」
たった数日の出来事が、これほどまでに人を不安にさせる。自分を知っている人が周囲にいないだけで、心が削られていくとは思わなかった。
今は、弟の悠真の遠慮のない暴言さえも、宝石のように愛おしい。母の小言も注意も。父の面白くもないギャグや、無口な兄・雅人の無反応な空気でさえ、今の私には何よりも必要な心の関係というものなのだろう。
「家に帰りたい」
震える声で、私は目の前の影に縋り付いた。豪華なシャンデリアも、絹のシーツも、何もいらない。誰でもいいから、私をここから連れ出してほしいと。ただの奈月として呼んでくれる場所へ。
「うん。帰ろう。家に」
その言葉を待っていた。私は涙で視界を滲ませながら、自分を抱き上げるその腕に、力の限りしがみついた。
(こんなにすんなり私を許してくれる人だったんだ……)
契約、支配、冷酷な言葉の数々。それらはすべて、私の思い過ごしだったのではないかとさえ思えてくる。もっと早く、こうして素直に帰りたいと言えていたら。意地を張らずに、この腕に縋れていたら。
(……結果論に過ぎないけど)
世間で言うようなラブラブな恋愛や、穏やかな生活が、私たちを待っていたのだろうか。安堵に身を委ね、自分を軽々と抱き上げたその腕に、宝物にでもしがみつくような力で抱きついた。心地よい揺れ。瑛斗が、私を外へ連れ出してくれる。
私の物語が、ようやく溶け始めていくような気がした。視界はまだぼやけている。けれど、部屋の出口。
重厚な扉が開かれたその先で、逆光の中に立つ人影を見た気がした。
そこにいたのは、日高でも、桐谷でもない。肩を荒く上下させ、微かに額に汗を浮かべて立ち尽くしている。その手には、不釣り合いなほど丁寧に包装された、老舗メーカーの高級ゼリーの箱(らしいき)が握られていた。
(あれ……?)
熱でぼんやりした意識の中でも、その箱が私のために用意されたものだということだけは、本能的に理解できた。何らかの折衝の末に持ち帰ってきたものなのだろうか。けれど、その視線は、抱き上げられて出てきた私を、そして、その男に縋り付いている私の腕を、射抜くような鋭い瞳で見つめている。
「蓮!」
その低く震える声が、私の耳に届いた。その瞬間、私の背中を支える腕の主が、勝ち誇ったような声で告げた。
「あれ~瑛斗。奈月ちゃんは、僕が連れて帰るところ」
(え……?)
聞き慣れた、優しい二重の目の青年。私の髪を愛おしげに撫でているのは、瑛斗ではない。蓮だった。さっき、想像したラブラブなんて、恥ずかしい理想。そして、瑛斗となら、そうなれたかもしれないと空想した、あの言葉。最悪だ。本物の瑛斗の目の前で、他の男の腕に抱かれながら、彼への未練にも似た想いを晒してしまった。
瑛斗の指先が、目に見えて分かる。
(震えている)
大事そうに抱えていたゼリーの箱が、床に力なく落ち、乾いた音を立てて中身が散らばった。
「……俺のベッドへ」
「蓮……!お前、あの人と同じことをするのか」
「それは、心外だな。僕はただ、奈月ちゃんを助けたいだけだよ」
(……あの、ひと……?)
私を抱く蓮の腕に、力がこもって少し痛みを感じた。それに、熱で朦朧としているけども、瑛斗の言葉が棘のように刺さる。誰のことなのか。考える力はもう残っていないけれど、憎しみと絶望が混ざり合ったような悍ましいまでの殺気を感じた。身体が勝手に震える。
(こんなにも、弱かったのか。私は)
すると、凛とした、けれどどこか艶のある女性の声が、張り詰めた空気を切り裂いた。
「――あら。相変わらず、親子揃って不器用なのね。」
全員の視線が、廊下の向こうへと向いた。
そこに立っていたのは、蓮の母親――黒瀬志保だった。名門・黒瀬グループの令嬢として生まれ、現在は世界的な琴奏者としても名を馳せる彼女は、四十代という年齢を微塵も感じさせないほど、残酷なまでに美しい。
(……嘘。あの、黒瀬志保……?)
意識が遠のく中で、私はその圧倒的なオーラに息を呑んだ。贅を尽くした着物の上からでも、その豊潤な曲線美は隠しきれない。同じ女性として、そして神谷家の所有物としてここにいる私を見下ろす、その瞳には冷ややかな優越感と、すべてを使い古したおもちゃのように見做すような、テレビや雑誌で見せる慈愛に満ちた表情では、決してなかった。
それに、二十歳で蓮を産んだとは信じられない、完璧に手入れされた美貌。世の男性を狂わせるというその美しい唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「蓮、あなた……帰国早々、何をしているのかしら?」
志保の視線が、一瞬だけ瑛斗の背後……本館の奥にある、社長(瑛斗の父)の部屋へと向けられた。
10
あなたにおすすめの小説
大嫌い!って100回言ったら、死ぬほど好きに変わりそうな気持ちに気付いてよ…。
菊池まりな
恋愛
25歳の朱里は、同じ部署の先輩・嵩にずっと片想いをしていた。けれども不器用な朱里は、素直に「好き」と言えず、口から出るのはいつも「大嫌い」。彼女のツンデレな態度に最初は笑って受け流していた嵩も、次第に本気で嫌われていると思い込み、距離を置き始める。
そんな中、後輩の瑠奈が嵩に好意を寄せ、オープンに想いを伝えていく。朱里は心の奥で「私は本当は死ぬほど好きなのに」と叫びながらも、意地とプライドが邪魔をして一歩踏み出せない。
しかし、嵩の転勤が決まり、別れが迫ったとき、朱里はついに「大嫌い」と100回も繰り返した心の裏にある“本音”を告白する決意をする――。
【書籍化】小さな恋のトライアングル
葉月 まい
恋愛
OL × 課長 × 保育園児
わちゃわちゃ・ラブラブ・バチバチの三角関係
人づき合いが苦手な真美は ある日近所の保育園から 男の子と手を繋いで現れた課長を見かけ 親子だと勘違いする 小さな男の子、岳を中心に 三人のちょっと不思議で ほんわか温かい 恋の三角関係が始まった
*✻:::✻*✻:::✻* 登場人物 *✻:::✻*✻:::✻*
望月 真美(25歳)… ITソリューション課 OL
五十嵐 潤(29歳)… ITソリューション課 課長
五十嵐 岳(4歳)… 潤の甥
【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~
蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。
嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。
だから、仲の良い同期のままでいたい。
そう思っているのに。
今までと違う甘い視線で見つめられて、
“女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。
全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。
「勘違いじゃないから」
告白したい御曹司と
告白されたくない小ボケ女子
ラブバトル開始
思わせぶりには騙されない。
ぽぽ
恋愛
「もう好きなのやめる」
恋愛経験ゼロの地味な女、小森陸。
そんな陸と仲良くなったのは、社内でも圧倒的人気を誇る“思わせぶりな男”加藤隼人。
加藤に片思いをするが、自分には脈が一切ないことを知った陸は、恋心を手放す決意をする。
自分磨きを始め、新しい恋を探し始めたそのとき、自分に興味ないと思っていた後輩から距離を縮められ…
毎週金曜日の夜に更新する予定ですが、時々お休み挟みます
僕ら二度目のはじめまして ~オフィスで再会した、心に残ったままの初恋~
葉影
恋愛
高校の頃、誰よりも大切だった人。
「さ、最近はあんまり好きじゃないから…!」――あの言葉が、最後になった。
新卒でセクハラ被害に遭い、職場を去った久遠(くおん)。
再起をかけた派遣先で、元カレとまさかの再会を果たす。
若くしてプロジェクトチームを任される彼は、
かつて自分だけに愛を囁いてくれていたことが信じられないほど、
遠く、眩しい存在になっていた。
優しかったあの声は、もう久遠の名前を呼んでくれない。
もう一度“はじめまして”からやり直せたら――そんなこと、願ってはいけないのに。
それでも——
8年越しのすれ違いは、再会から静かに動き出す。
これは、終わった恋を「もう一度はじめる」までの物語。
ワケあり上司とヒミツの共有
咲良緋芽
恋愛
部署も違う、顔見知りでもない。
でも、社内で有名な津田部長。
ハンサム&クールな出で立ちが、
女子社員のハートを鷲掴みにしている。
接点なんて、何もない。
社内の廊下で、2、3度すれ違った位。
だから、
私が津田部長のヒミツを知ったのは、
偶然。
社内の誰も気が付いていないヒミツを
私は知ってしまった。
「どどど、どうしよう……!!」
私、美園江奈は、このヒミツを守れるの…?
駆け出しご当地アイドルがヤクザに一目惚れされた話
一ノ瀬ジェニファー
恋愛
ド田舎の道の駅で、持ち歌もグッズもないまま細々と活動を続けるご当地アイドル・桜あかり(16)。
夢は大きく武道館!……と言いたいところだけど、今はレジ打ちもこなす「なんでもできるマルチな地底アイドル」。
そんな彼女に、ある日転機が訪れる。
地元の道の駅がテレビで紹介され、あかりの笑顔が全国放送で流れたのだ。
その映像を東京で目にしたのが、幸村 静(ゆきむら しずか)。
見た目は完璧、物腰も柔らか──けれどその正体は、裏の世界の男だった。
「会いたいから」というシンプルすぎる理由で、あかりに会いに片道10時間を車で会いに来た。
謎のヲタク知識もを引っ提げて、推し活(という名の執着)が始まる……!
これは、アイドルを夢見る少女と、厄介オタクなヤクザの、ピュアで不穏でちょっと笑える物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる