歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~

YOR

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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

第20話:誰が連れ出してくれるの?

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熱の波が、何度も何度も意識を飲み込もうとする。重たい瞼の裏側で、誰かが私の手を強く、折れそうなほど握りしめていた感覚だけが残っていた。

(……瑛斗?)

冷酷で、傲慢で、私をこの屋敷に閉じ込めた人なのに、その手の熱さだけは、不思議と私を守ろうとしているようにも感じられた。

重い瞼を、ゆっくりと押し上げる。視界は白く霞み、頭の芯がジンジンと痛む。ぼんやりとした影が、私のすぐ傍に座っているのが見えた。

「……奈月。……」

名前を呼ぶ声が、熱を帯びた空気に混じって耳に届く。語尾が震えているのか、あるいはひどく甘く囁かれているのか。意識が朦朧としていて、うまく聞き取れなかった。頬に、ひんやりとした指先が触れた。その冷たさが心地よく、無意識にその影の方へ顔を寄せた。

「……瑛斗、さん……?」

どうしてだろう。いつも私を射抜くような、あの鋭い切れ長の一重まぶたが、今はなんだか……とても優しく、潤んだ二重に見える。

(熱のせいか……)

私は、その手を、自分から微かに握り返した。指先から伝わる体温が、冷え切った私の心に溶け込んでいくようだった。直接触れることなんて、これまでなかったけれども、今は、その温度こそが、壊れそうな私を現実へと繋ぎ止める、たった一つの確かな温もりだった。

(本当は、こうしてほしかった……)

皮肉を言い合い、傷つけ合う日々なんて、本当はもう嫌だと思っていた。限界だと思った。ただ、この大きな手に包まれて、「大丈夫だ」と言ってほしかっただけ。

「……ごめんなさい……」

たった数日の出来事が、これほどまでに人を不安にさせる。自分を知っている人が周囲にいないだけで、心が削られていくとは思わなかった。

今は、弟の悠真の遠慮のない暴言さえも、宝石のように愛おしい。母の小言も注意も。父の面白くもないギャグや、無口な兄・雅人の無反応な空気でさえ、今の私には何よりも必要な心の関係というものなのだろう。

「家に帰りたい」

震える声で、私は目の前の影に縋り付いた。豪華なシャンデリアも、絹のシーツも、何もいらない。誰でもいいから、私をここから連れ出してほしいと。ただの奈月として呼んでくれる場所へ。

「うん。帰ろう。家に」

その言葉を待っていた。私は涙で視界を滲ませながら、自分を抱き上げるその腕に、力の限りしがみついた。

(こんなにすんなり私を許してくれる人だったんだ……)

契約、支配、冷酷な言葉の数々。それらはすべて、私の思い過ごしだったのではないかとさえ思えてくる。もっと早く、こうして素直に帰りたいと言えていたら。意地を張らずに、この腕に縋れていたら。

(……結果論に過ぎないけど)

世間で言うようなラブラブな恋愛や、穏やかな生活が、私たちを待っていたのだろうか。安堵に身を委ね、自分を軽々と抱き上げたその腕に、宝物にでもしがみつくような力で抱きついた。心地よい揺れ。瑛斗が、私を外へ連れ出してくれる。

私の物語が、ようやく溶け始めていくような気がした。視界はまだぼやけている。けれど、部屋の出口。

重厚な扉が開かれたその先で、逆光の中に立つ人影を見た気がした。

そこにいたのは、日高でも、桐谷でもない。肩を荒く上下させ、微かに額に汗を浮かべて立ち尽くしている。その手には、不釣り合いなほど丁寧に包装された、老舗メーカーの高級ゼリーの箱(らしいき)が握られていた。

(あれ……?)

熱でぼんやりした意識の中でも、その箱が私のために用意されたものだということだけは、本能的に理解できた。何らかの折衝の末に持ち帰ってきたものなのだろうか。けれど、その視線は、抱き上げられて出てきた私を、そして、その男に縋り付いている私の腕を、射抜くような鋭い瞳で見つめている。

「蓮!」

その低く震える声が、私の耳に届いた。その瞬間、私の背中を支える腕の主が、勝ち誇ったような声で告げた。

「あれ~瑛斗。奈月ちゃんは、僕が連れて帰るところ」

(え……?)

聞き慣れた、優しい二重の目の青年。私の髪を愛おしげに撫でているのは、瑛斗ではない。蓮だった。さっき、想像したラブラブなんて、恥ずかしい理想。そして、瑛斗となら、そうなれたかもしれないと空想した、あの言葉。最悪だ。本物の瑛斗の目の前で、他の男の腕に抱かれながら、彼への未練にも似た想いを晒してしまった。

瑛斗の指先が、目に見えて分かる。

(震えている)

大事そうに抱えていたゼリーの箱が、床に力なく落ち、乾いた音を立てて中身が散らばった。

「……俺のベッドへ」
「蓮……!お前、あの人と同じことをするのか」
「それは、心外だな。僕はただ、奈月ちゃんを助けたいだけだよ」

(……あの、ひと……?)

私を抱く蓮の腕に、力がこもって少し痛みを感じた。それに、熱で朦朧としているけども、瑛斗の言葉が棘のように刺さる。誰のことなのか。考える力はもう残っていないけれど、憎しみと絶望が混ざり合ったような悍ましいまでの殺気を感じた。身体が勝手に震える。

(こんなにも、弱かったのか。私は)

すると、凛とした、けれどどこか艶のある女性の声が、張り詰めた空気を切り裂いた。

「――あら。相変わらず、親子揃って不器用なのね。」

全員の視線が、廊下の向こうへと向いた。
そこに立っていたのは、蓮の母親――黒瀬志保だった。名門・黒瀬グループの令嬢として生まれ、現在は世界的な琴奏者としても名を馳せる彼女は、四十代という年齢を微塵も感じさせないほど、残酷なまでに美しい。

(……嘘。あの、黒瀬志保……?)

意識が遠のく中で、私はその圧倒的なオーラに息を呑んだ。贅を尽くした着物の上からでも、その豊潤な曲線美は隠しきれない。同じ女性として、そして神谷家の所有物としてここにいる私を見下ろす、その瞳には冷ややかな優越感と、すべてを使い古したおもちゃのように見做すような、テレビや雑誌で見せる慈愛に満ちた表情では、決してなかった。

それに、二十歳で蓮を産んだとは信じられない、完璧に手入れされた美貌。世の男性を狂わせるというその美しい唇が、ゆっくりと弧を描いた。

「蓮、あなた……帰国早々、何をしているのかしら?」

志保の視線が、一瞬だけ瑛斗の背後……本館の奥にある、社長(瑛斗の父)の部屋へと向けられた。
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