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第3章:仮面のオフィス・組織に飼われる恋
第23話:琥珀色の逆転
しおりを挟む「あら、水野さん。お元気?」
涼子は、右手のひらをふわりと私に向け、斜めに構えた体で小さく膝を折った。小さな屈伸のように。いかにも私が一番美しく、ここにふさわしいのですと、全身で語っているような完璧な仕草だった。
令嬢の教育と言うものは、本当に関心するほどだ。私も真似をしてみようなどと思ったけれども、物心付く前からあんな風に笑って、あんな風に膝を折ることを訓練していないと、この年齢からでは、身につけるのはあまりにも厳しい。
鏡を見るまでもない。今の私は、まだ病み上がりで顔色も悪く、涼子のような華やかさには程遠い。それに、あの黒瀬志保(蓮の母)のような、凛とした綺麗さにもなれない。
憧れと、嫉妬。そして神谷家という逃れられない重圧。彼女たちが当たり前に持っている知識や振る舞いの全てを、今から把握しない限り、私はこの場所に居続けることすら無理なのかもしれない。
ノートには書いていなかった。瑛斗の隣に立つ女性に、どんな振る舞いが求められるのか。挨拶回りで見かけたどの社員とも違う、涼子だけが持つ圧倒的な華。
(私も、あんな風にやるべきなのかな……)
一瞬、自分の不格好な立ち姿を恥じ、彼女の動きをなぞろうとして、私は踏みとどまった。
「水野さん、ハーブティを頂けるかしら?」
「はい?」
「副社長によ」
涼子は、面白そうに、憐れむような目で私を見ていた。正直、そんな風に見られても困る。これもお嬢様特有の仕草なのだろうか。
高級そうな茶葉の入ったハーブティの小袋をひらひらと揺らしながら、涼子は瑛斗を恋をしている女の目で見つめている。
私からすると、あからさまに媚を売っているようにしか見えないのだが、本人にしてみたら、それがこの世界での普通なのだろう。
当然、涼子はその小袋を私に差し出してきた。ここでは、この小袋をおとなしく受け取るしかない。
(……ちょっと待てよ)
受け取る瞬間に触れた、涼子の指先の微かな震え。
もしかして、涼子は瑛斗を愛しているのではないのかもしれない。瑛斗の隣にいる、完璧な自分を愛している。
(ここにも、自己愛強めがいた)
私をライバルとして見ていると思っていたけれど、そうじゃない。涼子にとって瑛斗は、自分という至高の宝石をより輝かせ、引き立たせるための、最高級の道具なのだ。
(そう思うと、なんだか……)
完璧だと思っていた涼子の仕草が、急に空っぽなものに見えてきた。
「……かしこまりました。すぐに準備いたします」
私は小袋を握りしめ、静かに副社長室を後にした。ドアが閉まる瞬間、「副社長ぅ、人気のお店を予約致しましたの」と、甘ったるい声が聞こえた。振り返ることもできず、何も言えず、逃げるように部屋を出るしかなかった。
急いで給湯室に入り、扉を閉めた瞬間に深い息を吐き出した。
しばらくして、私はトレイに二つのカップを乗せて戻った。涼子は中身を確認もせず、自分が持ってきたハーブティだと思い込んだまま、瑛斗に極上の微笑みを向ける。
「どうぞ、副社長ぅ。最高級ですのよ」
「あぁ」
「お味は…いかがでしょうか」
「いつもの深煎りの紅茶は落ち着くな」
「えっ……?」
涼子の顔から、完璧な笑顔が剥がれ落ちた。私は心の中で思わずガッツポーズをした。涼子に仕返しができたのだ。
涼子が真っ赤な顔で部屋を飛び出していった後、私は自分のデスクで、一冊のノートをそっと閉じた。
(……拍手したい)
実は、給湯室で私は、涼子の茶葉を迷わず脇に置いていた。
前任者のアドバイスを借りれば、今の私にとっての待機は立派な仕事の一つになる。震える指で、部屋を出る際に持参した三冊目のノートを開いた。瑛斗について、何か具体的なヒントがあるはずだ。
パラパラとページをめくるこの状態をはたから見たら、異常行動であろう。けれども、瑛斗の嗜好についての項目を見つけ出さないと気が済まないことの方が重大であり、自分の思考の世界に入るしかない私だった。
そこには、几帳面な文字でこう記されていた。『午前の集中時、フローラル系の香りは厳禁。思考のノイズになるため。香りのない深煎りの紅茶、あるいは……』
小袋からは、封を開けていないのに甘ったるいハーブの香りが漂っている。今の瑛斗にとって、これは癒やしではない。代わりに備え付けの棚から、ノートに記されていた「いつもの茶葉」を手に取る。
前任者がこれほど詳細に記録を残している意味は、まだ正確には分からない。けれど、わざわざ明文化されていることに背けば、どこかに爆弾があることくらいは想像がつく。
もし涼子の言う通りに淹れて、瑛斗の集中を削いでしまったら。
抑えきれない好奇心が溢れてきた。正解に対してどんな反応を示すのか見てみたい気もした。けれど、おそらくその時は私も涼子も副社長室から叩き出されるのだろう。午前中から追い出されてしまっては、本当に居場所がなくなる。それだけは避けなければならない。
特別補佐の仕事は、副社長のパフォーマンスを最大化すること。重苦しい肩書きを忘れたくなるほどの好奇心を、この土壇場で抱けた自分に拍手しながら、私は琥珀色の茶葉に熱い湯を注いだのだというわけです。
仕事としては、私の勝ち。
けれど。去り際に涼子が口にした昨日のパーティーの話。そしてお店を予約したという親密なやり取り。
(……やっぱり、気になる)
仕事での居場所はノートが守ってくれるかもしれない。でも、瑛斗の隣という場所は、まだ私からは果てしなく遠い場所にある。
(……今日のお昼休憩後にでも、少し探りを入れてみるのもありかも)
静まり返った副社長室で、キーボードを叩く音だけが響く。私は自分のデスクに座り直し、黙々と仕事をする瑛斗の顔を、盗み見るように視界の端に捉えた。
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