歩く15億の花嫁~契約婚約から始まるオフィス・シンデレラ~

YOR

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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)

第22話:秘密の三冊

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熱の引いた三日後の朝、鏡の中の私は一回り小さくなったように見えた。青白い肌に、鋭く削げた頬。不謹慎にも「ダイエットの手間が省けた」なんて思ったけれど、それは間違いだ。

落ちたのは必要な筋肉で、残ったのは疲労感だけ。綺麗な痩せ方ではない。その不健康なシルエットが、神谷家に徐々に削れていく今の私を象徴しているようで、目を逸らしたくなった。

そういえば、瑛斗は、途中から一度も様子を見に来ることはなかった。

あの夜、朦朧とする意識の中で瑛斗だと思って縋り付いてしまった、あの腕。熱のせいだったとはいえ、憧れのお姫様抱っこに一瞬でも胸を躍らせてしまったのがいけなかったのだ。

つかの間の幸福感に浮かれた罰が、あの修羅場だったのかもしれない。そう思うと、瑛斗が来ないのは自業自得なのだと、自分を納得させるしかなかった。

(期待していたけど)

それと、蓮からのSMSには、心配する内容と、『逃げたい?それとも憤る?どちらを選ぶ?』という短い言葉が並んでいた。まだ、返事は送っていない。

この意味、分かる人いる?私には、全く分かならい。

逃げたい?それは、瑛斗の視線や態度、言動から?それとも、私を駒としてしか見ていない神谷の家そのものから?

もし「逃げたい」と言えば、蓮はあの夜の言葉通り、私をこの籠から連れ出してくれるのだろうか。でも、それは自由になることではなく、今度は蓮の所有物になるだけのような気がする。

それとも、憤る?憤るって、誰に?瑛斗に?健太?蓮に?それとも……何もできずにただ心の中でもがいて、泣いている自分自身に?

蓮は、私が牙を剥くのを待っている?おとなしく飼われる小鳥でいるか、それとも、自分を閉じ込める籠を壊して戦う猛獣になるかを選べと言っている?

そもそも、誰が私の敵(私を傷つける人なのか)、誰に怒ることがあるのかなんて分からない。

(選べないよね)

ただ、一つだけ言えることは、私の大切な家族を傷つけられたら、その時は迷わず「憤る」を選ぶ。

けれど、それ以外は、普通に笑って、時には泣いて、時には怒って、普通に仕事をしたいだけ。他人からすれば、つまらない人生だと思うかもしれない。でも、怒り(憤り)に身を任せてエネルギーを使い果たす方が、私にとっては人生をよっぽどつまらないものにするし、何より時間がもったいない。

(世界は、私中心に動いていると思ってもいいくらいだよ)

私の人生を穏やかに守りたいだけ。

結局は、答えは出ない。

でも、一つだけ確かなのは、今の私は逃げる場所すら持っていないということだ。

「奈月様、お迎えに上がりました」と、いつもの日高と桐谷が迎えに来た。

私は、元気に「今、行きます」と向かった。

向かうのは、スターライト企画本社・副社長室。そこは、邸宅(家)での瑛斗とは違う、プロフェッショナルとしての彼が存在する場所。

副社長室の扉を押し開けた瞬間、他とは違う静けさがあった。聞こえるのは、一定のリズムで刻まれる瑛斗のキーボードの音と、加湿器の微かな動作音だけ。窓から差し込む光さえも、ここでは透明な色に塗り替えられているようだった。

その時、デスクの電話が鳴った。瑛斗は迷いのない動作で受話器を取ると、流暢な英語で話し始めた。

低く、落ち着いたトーン。時折混じる鋭い響き。一度も言葉に詰まることなく、淡々と相手を追い詰めていくようなその声音に、私は入り口で立ち尽くしてしまった。

仕事に向き合う彼の横顔は、彫刻のように美しく、冷徹なまでに研ぎ澄まされている。そのまま、瑛斗を見つめながら。不覚にも「かっこいい」と、思ってしまった。

ようやく電話を切った瑛斗は、私に視線を向けることすらなく、ただ次のタスクへと指を動かし始めた。

「……おはようございます。先日は、ご迷惑をお掛けいたしました」

震える声を絞り出す。けれど、瑛斗はパソコンの画面から目を離さないまま、まるでもう口を開くなと言わんばかりに短く命じた。

「自席で待機」
「え……?」
「それが君の最初の『仕事』だ」

(待機……?)

戸惑いながらも、自分のデスクへと向かった。
パソコンを立ち上げることも、資料を整理することも許されない。ただ、静寂に包まれた部屋で、忙しく働く瑛斗を見守ることしかできない。

一分が、一時間にも感じられた。何もすることがない。誰からも必要とされていない。周囲のビル群が見下ろせるこの豪華なオフィスで、私だけが透明な存在になってしまったような、耐えがたい疎外感。

(……仕事がないことが一番辛い)

手持ち無沙汰に耐えきれず、私はすがるような思いでデスクの引き出しをそっと開けた。初日はデスクのネームプレートだけに目が行き、引き出しを開けていなかった。するとそこには、使い込まれた三冊のノートが重なっていた。表紙にはNo.1~No.3と太文字黒色のマジックペンで書かれていた。

表紙をめくると、それぞれ、違う筆跡で『副社長補佐・引継ぎ事項』と記されている。

(前任者の方たちの……?)

パラパラとページをめくると、一冊目は、几帳面な文字で瑛斗の『完璧主義』と『無駄を嫌う性格』。二冊目は、少し感情的な筆跡で『彼の地雷を踏まないための対策』。そして三冊目は、走り書きのような文字で『冷徹な仮面の裏にある、底知れない執念』について。

表現は違うけど、書かれている本質は驚くほど一致していた。

『彼は人間ではない、システムそのものだ』
『感情で訴えても無駄。数字と結果だけが彼の言語』
『苦手な社員:無能な者。嫌いな行動:理由のない遅延』

けれど、読み進めるうちに私は奇妙な記述に目を止めた。二人目のノート、その最後のページに、震えるような筆跡でこう記されていたのだ。

『年齢20歳。エリート大卒。計算が合わない。……彼は何者?』

(20歳……?)

私と同い年。それなのに、すでに大学を卒業し、この巨大な企業の副社長として君臨している?混乱する私に、三人目のノートが追い打ちをかける。最後のページに、悟ったような、あるいは諦めたような文字でこう書かれていた。

『この男、本当に20歳だった。大卒も嘘ではない。年齢に関係なく進級できる特殊な環境で育ったらしい。……私たちが生きている時間の概念すら、彼には通用しない』

私の背中に巨大な業務用冷凍庫の扉が開いたかのように、寒気が走った。

(20歳で、大卒……)

飛び級を繰り返し、幼い頃から知識と数字だけの世界で生きてきた「怪物」。瑛斗の冷徹さは、ただの性格ではない。他人と情緒を分かち合う時間を奪われ、効率と結果だけで世界を構築してきた結果なのだ。

ふと顔を上げると、瑛斗がふいに眼鏡を外し、眉間を強く押さえていた。

ノートには「怪物」と書かれている。けれど、その仕草は一瞬だけ、私と同じ「人」の重みを背負っているようにも見えて。

「……何を見ている。早く進めろ」

視線だけで射抜かれ、私は慌ててノートに目を落とした。三人の先人たちが敗北し、恐怖した二十歳の副社長。

(どう生き残ればいいのか)

震える指で、もう一度、三冊目のノートの続きをめくる。そこには、瑛斗のスケジュールや好みの影に隠れて、『注意すべき人物リスト』が記されていた。

「ブランド戦略部・佐伯涼子。副社長を執拗に追い回す。彼女が部屋に来た時は、即座に……」

その先を読み終える前に、背後で扉が開く音がした。

「副社長ぅ~!昨日のパーティー、お疲れ様でしたぁ。楽しかったですわ」

――甘ったるい、けれど、まとわりつくような温度を感じさせる声。

(パーティー……?)

私はノートを伏せる暇もなく、その場に固まった。私が熱でうなされていた、あの時に瑛斗は、私の知らない場所でこの人と華やかな時間を過ごしていた。瑛斗は、何も話してくれなかった。それに、日高も桐谷も。

目の前で、涼子が親しげに瑛斗のデスクへ歩み寄る。瑛斗は追い出すこともせず、ただ無言でその接近を許していた。あんなに私を寄せ付けなかった瑛斗が、涼子には場所を与えている。

(涼子と親密な関係?)


ノートに記された『外敵』。けれど、瑛斗にとってはそうではないのかもしれない。元々、二人は私が入り込めないほど深い場所で繋がっている。

(……私だけが、何も分かっていない。何も知らない)

三冊のノートを抱えたまま、私は自分の居場所がどこにもないことを、再び思い知らされることになる。


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