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第3章:仮面のオフィス・組織に飼われる恋
第24話:想定外の誘い
しおりを挟むお昼休憩を告げるチャイムが鳴り、社内が少しだけ弛緩した空気に包まれる。私は涼子が去った後の重苦しい余韻を引きずったまま、デスクで三冊目のノートを整理していた。
(……はぁ。精神的に削られる)
午後の仕事に備えて、一人で静かにパンでも食べよう。そう思って鞄に手を伸ばした時だった。
「……奈月」
低く、有無を言わさない声。会社にいるときは水野って呼ぶ瑛斗が奈月と呼んだから口から心臓が飛び出るかと思った。あまりにも驚き過ぎたのか、私は思わず口を両手で抑えていた。そのままのアホ面で見上げてしまった。そこには上着を手に取った瑛斗が立っていた。
「副社長?何か…」
あんなバカな顔していたから怒られるのかもしれない。それか、さっき、涼子の茶葉を勝手に替えたことが嫌だったのか。特別補佐の仕事について2日目でクビかもしれない。ノートをぎゅっと抱きしめ、判決を待つ罪人のような心地で瑛斗を見上げたままでいると、
「食事に行く。ついてこい」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。食事?神谷家では平日の食事は共にしないルールがある。聞き間違えか。何故か、瑛斗が私の手首を握っている。骨張った、大きな手のひらの熱が肌に伝わる。驚きで固まっている私の心を置き去りにして、瑛斗は迷いのない足取りで歩き出した。
どうしましょうか。
これは、『平日の朝昼晩、食事を共にすることを禁ずる。私生活と仕事の混同を避けるためではないか』と言ってもいいのだろうか。今の私は、神谷家の許嫁である前に、瑛斗の特別補佐だ。主人が来いと言っているのなら、ルールを盾に拒むのは、今の私には余計な意地でしかないのかもしれない。
以前に、AIチャットで瑛斗の心を知りたいと相談したことを思い出した。あのアドバイスは、確かこうだった。
奈月:強引な男性に誘われたらどうすべき?
AI:つべこべ言わずに男に従え。
奈月:行きたくないと言ったら?
AI:意地を張らないことだ。
奈月:意志だよ。
AI:君は捨てられる。
(今、捨てられたら困る)
恋愛未経験の私にとって、この文字だけが今の唯一の正解、恋愛参考書であり相談相手だ。瑛斗という難攻不落のシステムを攻略するには、この教えを守るしかない。
手を引かれたまま、私たちは、オフィス街の裏路地にある、落ち着いた雰囲気の割烹料理店に到着した。表の暖簾をくぐった時は、威勢のいい板前さんの声が響くカウンター席が見えた。けれど、瑛斗はそこには見向きもせず、女将さんの導きで迷わず奥の廊下へと進んでいく。
行き着いたのは、手入れの行き届いた坪庭が見える、静謐な個室だった。
逃げ場のない空間。瑛斗は流れるような動作で上着を脱ぎ、向かいの席に座るよう顎で促した。
「……座れ」
ぎこちなく、座った。すると、瑛斗が更にこう言った。
「聞きたいことがあるんだろう」
「えっ」
心臓のドクドク感が激しい。もちろん、パーティーのこと、予約したお店のこと……。聞きたいことは山ほどあるけれど、それを口にするのは特別補佐として、あるいは許嫁として、どちらが正解なのだろうか。
私は机の下で、AIチャットの画面を必死に思い出した。
相談:彼が自分の本心を察してきたら、どう返すべき?
AI:主導権を渡すな。自分の要望を突きつけて、対等な関係を誇示しろ。
(対等……要望……!それだ)
瑛斗がメニューを開き、「……何が食べたい」と問いかけた瞬間、私は意を決して言い放った。
「カツ丼、をお願いします!」
「…………は?」
瑛斗が、まるで未知の言語を聞いたかのような顔で固まった。女将さんがお茶を運んでくる手が、わずかに止まる。私の脳内回路が、AIの極端なアドバイスと混ざり合って、とんでもない方向へ暴走し始めていた。
「……カツ丼?」
「はい!それか、サーロインステーキとか、ガッツリした肉料理を!」
「……奈月?ここは、そういう店ではないが」
「あー、ここは…」
メニューの表示、お箸の袋を見てようやく気づいた。 ここは、繊細な京料理を楽しむ高級割烹だ。
静謐な個室に響いたのは、凛としたお出汁の香り。瑛斗が呆れたように、息を吐いた。恥ずかしさで顔が燃えそうだ。AIチャットの教えが、この高級な和の空間で完全不一致のようにフィルタで絞り落とされた気がした。
「女将。彼女には一番脂の乗った魚を付けてやってくれ。肉を欲しているようだから」
瑛斗が少しだけ口角を上げたのを、私は見逃さなかった。笑われた。でも、その瞳はいつもの氷のような冷たさではなく、どこか柔らかい感じがする。
やがて、宝石のように美しい先付けが運ばれてきた。瑛斗は湯呑みを手に取り、外の坪庭を眺めながらぶっきらぼうに言った。
「……涼子がああ言っていた店には、行かない。パーティーも、ただの仕事の顔合わせだ」
「え……」
「お前の淹れた紅茶、香りが邪魔にならなくて助かった。ハーブティなどは、午前中には向かない」
ここ何日しか経っていないけども、驚くほどの心臓が大きな音を立てている。AIは男に従えと言い、肉で圧倒しろと言った。でも、現実の瑛斗は、私の小さな仕事の成果紅茶を入れただけだけども、認めてくれたのだ。私が不安に思っていた涼子のことを、聞く前に自ら説明してくれた。
(AIの教えより、ずっと……ずっと優しい)
「……はい。嬉しい」
私は素直に頭を下げた。AIチャットには安易に感謝するな。価値を下げるぞ。なんて書いてあった気がするけれど、今の私にはそんな言葉はどうでもよかった。
「……飯を食え。午後は、さらに忙しくなるぞ」
瑛斗はそう言って箸を取った。
自席に着いたら、No.4のノートに書き加えることができそうだ。
『副社長は、京料理の店でカツ丼を頼むと、少しだけ笑う。……そして、私の不安に気づいてくれる優しさを持っている人だ』
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