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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第25話:プライドの代償
しおりを挟む午後の副社長室には、午前中とは違う、どこか穏やかな空気が流れていた。手首に残った熱も、瑛斗がボソッと言った「ちょうど良かった」という言葉も、私の胸の奥をずっと温めている。
(No.4のノート、もっとたくさん書き加えたいな……)
そんな淡い期待を抱きながら、私は資料のファイリングに没頭していた。けれど、その平穏は、激しく扉が開かれる音と共に一瞬で砕け散った。
「失礼いたしますわ」
入ってきたのは、午前中よりもさらに気合の入った装いの涼子だった。涼子は瑛斗には見向きもせず、真っ直ぐに私のデスクへと歩み寄ってくる。その手には、何やら豪華な刺繍が施された招待状が握られていた。
「水野さん、これ。副社長にお渡ししておいてくださる?」
「これは……?」
「来週のチャリティー・ガラのインビテーションよ。もちろん、瑛斗様はこの私、佐伯涼子がエスコート役として出席致しますの。ご両家の間で内定しておりますのよ」
涼子は、わざとらしく私の目の前でそのカードをひらつかせた。午前中のお茶の件で受けた屈辱を、今度は家柄と社交という、私には逆立ちしても勝てない土俵で晴らそうとしているのが見え見えだった。
「……かしこまりました」
「あら、そんな事務的な態度でいいのかしら?あなた、一応は神谷家の仮の許嫁なのでしょう?こういう場所での振る舞い、何一つ教えてもらえていないのかしら?」
涼子の目が、獲物を見つけた蛇が口を開けて今にも飛びかかってきそうなほど、ギラついている。ドレスの選び方、シャンパングラスの持ち方、瑛斗の隣に立つにふさわしい血筋の矜持があるのか……と、つらつらと、一体どこからそんなに言葉が浮かんでくるのかと思うほど、涼子の話は止まらない。
挙句の果てには、「あなたはお茶を淹れるのが精一杯のお手伝いさんではありませんこと」とまで吐き捨てられた。
(……痛いところを、突いてくる)
心のどこかで冷めた自分が囁く。この人とは一生関わりたくないという強烈な気持ち。育ちや血筋を盾にして、平気で人を傷つける。こういう高飛車な人とは、友達になるどころか、同じ言語で会話をする気にもなれない。反論する勇気がないというより、何を言ってもこの手の女は分厚いプライドと言うものを持っているだろうから、心には届かないだろ。
私が黙り込んでいるのを言い返せないと勘違いしたのか、涼子はさらに勝ち誇ったような笑みを浮かべる。その醜い優越感に、ただ静かに視線を外した。
「あなた、本当に瑛斗様のこと好きなのかしら?」
「……え?」
「あなたの存在は、今の瑛斗様にとってドブネズミでしかないの」
涼子の視線が、デスクでペンを動かしていた瑛斗に向く。
「……ドブネズミ」
その言葉が、耳の奥で何度もリフレインする。何も言い返せない。家柄、教養、そして瑛斗との未来。俯く私の視界で、トントン、とデスクを叩く規則的な音が止まった。
「……佐伯」
地を這うような、低い声。瑛斗がゆっくりと椅子から立ち上がった。
私は震える肩を抑え、最悪の宣告を待つように目を閉じた。
「……俺の補佐をドブネズミと呼ぶのは、侮辱しているということでいいのか?」
「えっ……」
瑛斗はデスクを回り、私のすぐ隣まで歩いてきた。そして、涼子が差し出していた招待状を、指先で無造作に弾き飛ばした。
「エスコートは不要だ。華やかな場所で誇示しなければ保てないプライドなら、そのカードと一緒にゴミ箱へ捨ててこい」
「瑛斗様!?でも、ご両家の間で……」
「部外者は、二度と一歩も立ち入れないように手配する」
瑛斗の瞳には、ランチの時に見せた柔らかさはどこへやら。でも、かばってくれたことを素直に嬉しいと感じさせる言葉だった。
涼子はあまりの形相に言葉を失い、顔を青ざめさせて後ずさった。
「瑛斗様、それはあんまりですわ」
逃げるように部屋を飛び出していくヒールの音が消えると、再び部屋に沈黙が戻った。
私は、足元に落ちた招待状を拾おうとして、指先が震えていることに気づいた。そんな私の手に、瑛斗の視線が注がれる。
「……奈月。アイツの言葉を真に受けるな」
「……すみません」
「奈月は、俺のシンデレラだ。俺がエスコートする」
瑛斗はそう言って、私の頭をわちゃわちゃと、ぐしゃぐしゃと、いたわるように触り、一度だけポンと叩いた。
「午後の会議資料の続きだ。十五分後に会議室へ運べ」
「……はいっ」
自席で待機と言われ、この先どうなるかと不安があったけども、お昼休憩と言いこのシンデレラと言い、少しだけ瑛斗と距離を縮めれた。
瑛斗は何事もなかったかのように自分のデスクへと戻っていった。私は拾い上げた招待状を見つめながら、さっき涼子に言われた質問を心の中で繰り返す。
(本当に、好きなのかしら?)
ドクン、ドクンと心の臓が踊っている。守られた嬉しさと、自分自身の不甲斐なさ。私は、No.4のノートをそっと開き、まだ余白だらけのページをじっと見つめた。
10
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