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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第26話:今週末の約束
しおりを挟む嵐のような涼子が去り、午後の業務が一段落した頃。
私はまだ、瑛斗に言われた俺のシンデレラという言葉の熱に浮かされていた。
(シンデレラ……)
頬が熱い。心臓がうるさいのではなく、脈の音がうるさく仕事に集中できない。そんな時、デスク越しに瑛斗がペンを置く音がした。
「……奈月」
「はいっ!」
「……今週末、ショッピングモールに行く」
「えっ……?」
あまりの想定外の言葉に、手に持っていたペンを落としそうになった。瑛斗と、ショッピングモール?
けれど、初出勤の日、車内で桐谷と週末、ショッピングやランチをしようと話をしていたのだ。
正確にはまだ約束という段階ではなかったけれど、任務でしかカフェに来たことがないという桐谷に、プライベートの楽しさを知ってほしいと思って切り出した話だった。あの時は、私もこんなに余裕のない日々を過ごすなんて思っていなかったけれど、問題は、外出には瑛斗さんの許可がいること。桐谷も一緒にショッピングに連れて行けるだろうか。
ボディーガードである桐谷は、出会ってたった数日だけれど、本音で話せる同性の友人と思えるほどの人だ。なぜそう思えるかといえば、私の高校時代の友人である「香山涼子」に似ているからだ。優等生で真面目、そして物凄い努力家。そんな彼女に似た桐谷に、私は勝手に親近感を抱いていた。
これはどっちを優先すべきか。そう考えていると、
「ドレス、靴を、他一式、俺が選ぶ」
瑛斗は一度もこちらを見ず、不機嫌そうに端末の画面を見つめている。でも、その耳の端が少しだけ赤い。
(なんか、可愛い)
私は意を決して、切り出した。
「あの、桐谷さんも、一緒ではダメでしょうか」
瑛斗のペンが止まる。
「……桐谷?あの不器用なボディーガードか」
「不器用かどうかは…以前、ランチに行く話をしていて」
「分かった。ボディーガードとして同行させる」
瑛斗は、基本言葉数が少ない人だ。他にも言いたいことがあるだろうけども、桐谷も一緒に行けるのであれば、今の私にはそれ以上に深く考える必要もなかった。
(……でも、だからこそ人が寄り付かないのかもしれない)
言葉の表面でしか気持ちを感じ取らない人から見れば、ただの冷徹な人間に映るだろう。誤解を生みやすい不器用な生き方。その沈黙の裏にある意図を読み取ろうとする人なんて、きっとこの家には私以外にいないのではと思ってしまう。
(あ、蓮は、瑛斗のことよく理解しているのだろうな)
けれど。
ふと見えた、瑛斗の口角。ほんの、ほんの数ミリだけ上がった表情。何か別の意味があるのではないかと、少しだけ疑ってしまう私がいた。
(気のせいだと思うようにしよう)
***
週末の朝。ゲスト棟の私の部屋には、華やかな笑い声が響いていた。
「奈月様、動かないでくださいね。まつ毛、もう少し上げますから」
そう言って私の顔を覗き込んでいるのは、日高の娘である美月(みづき)だ。芸能界を目指しているという彼女は、モデルのようなスタイルで、驚くほどメイクの技術が高い。
「母から『とても可愛らしい方だよ』って聞いてたんですけど、本当ですね。素材が良いから、少し色をのせるだけで見違えます」
日高の娘さんということもあって、最初は緊張していたけれど、彼女の明るい性格にいつの間にか私も笑顔になっていた。美月が選んでくれた服を着て、彼女に魔法のようなメイクをしてもらう。鏡の中にいるのは、いつもの冴えない私ではなく、どこか自信に満ちた一人の女性へと変えてくれた。
「よし、完成!瑛斗様、びっくりすると思いますよ」
美月に茶目っ気たっぷりに送り出され、私はロビーへと向かった。外からは、約束の時間ぴったりに車のエンジン音が聞こえてくる。
同じ敷地内に住んでいるのだから、本館の車庫で落ち合えばいいのに、わざわざゲスト棟の入り口まで私を迎えに来たのだ。
自動ドアが開いた瞬間、私は呼吸を忘れた。
(なんだろう。物凄く爽やかに見える)
いつも隙のないスーツ姿とは違う、少しラフなシャツにダークトーンのジャケット。表情もいつものような険しさはなく、硬さが取れている。きっと、ONとOFFの切り替えがとてもうまい人なのだろう。
私を見た瞬間、瑛斗は目を見開き、一瞬だけ硬直した。あまりに無言で凝視されるので、私はだんだん不安になってきた。
(不相応だったか)
「日高さんの娘さんに、全身コーディネートしてもらったけども、変かな」
私の問いかけに、瑛斗は弾かれたように視線を逸らした。そのまま口元を片手で覆い、落ち着かない様子で一度天を仰ぐ。
「…………悪くない。日高、余計な知恵がついたな」
絞り出すような低い声。瑛斗にしては珍しく素直な言葉だと思った。それに、耳の端が隠しきれないほど真っ赤に染まっているの。
「……行くぞ」
瑛斗はいつものように短く言ったけれど、私はしばらく、彼の背中に見惚れてしまっていた。
パーティーの洋服を選びに行くと言っても、私にしてみれば、これは初めてのデートのようなものだ。そう思えたのも、日高の娘・美月におめかししてもらったからだと思う。本当は、こんなにお化粧をして、素敵な洋服を着てお出かけするなんて思ってもいなかった。瑛斗が用意してくれていたクローゼットの中から、適当に選んで済ませるつもりでいたから。
適当と言っても、あのクローゼットの中身は全部とんでもない高級ブランドばかりだから、語弊がないようにしなきゃ。私にとっては、どれを選んでも一張羅になっちゃうんだけど。
そんな贅沢な悩みを頭の隅で転がしていた。
「早く乗れ」
ぶっきらぼうに促され、瑛斗が助手席のドアを開けてくれた。
私は慌てて「はい」と答え、おそるおそるシートに腰を下ろした。
ふと振り返ると、その後ろでは日高と美月が「お熱いことで」と言いたげな、でもどこか満足そうな顔で私たちを見送ってくれていた。
(美月さん、本当にありがとうございました!)
心の中で手を振っていると、後部座席のドアが静かに開き、桐谷が乗り込んできた。彼女は涼しい顔で「失礼します」と短く告げ、気配を消すように座っている。
瑛斗はルームミラー越しに一度だけ桐谷を鋭く牽制するような視線を向けたけれど、すぐに前を向き、滑らかに車を発進させた。
「……桐谷。今日の任務は、俺の邪魔はするな」
「……承知しております。瑛斗様」
車内に漂う、少しだけピリついた、でもどこかおかしな空気。こうして、私と瑛斗と、そして任務の桐谷の三人による、不思議なショッピングデートが始まった。
車が滑らかに動き出し、ゲスト棟の入り口が遠ざかっていく。何気に、私はサイドミラーに目を向けた。
一瞬だけだけども、ゲスト棟201号室の窓から、こちらをじっと見下ろす二つの人影があった。カーテンの隙間から覗く彼らの表情までは分からなかったけれど。
車がカーブを曲がると、その気配はすぐに朝の眩しい光の中に消えてしまった。
「……奈月、どうした」
「えっ?いえ、なんでも…」
瑛斗の声に我に返り、私は小さく首を振った。せっかくの初めての外出なのだ。嫌な予感に振り回されてはいけない。
そう自分に言い聞かせながら、私は流れる景色を見つめた。この先に、あの二人が、そしてあの嵐のような涼子が待ち構えているなんて、今の私はまだ、知る由もなかった。
10
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