『赦しの魔女』なので、復讐はしないと決めています

逢坂ネギ

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第10話 分岐する声

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 カイルは本を捲っていた。小難しい文体のそれは、彼には読むことが出来ず、ただの暇つぶしでしかない。
 朝から雪がちらついている。ひんやりとした空気は、どこか故郷の——アルノの空気に似ていて。カイルは顔をしかめる。

「ただいま」

 ドアがばたんと開いた。ひゅう、と風がふきこみ、暖炉の火が踊るように揺れる。朝っぱらから出かけていた魔女さまのご帰還だ。カイルは肩越しにドアの方をみやる。
 すると、

「……おい、なんだ、その女」
「ちょっと、ね」

 入ってきたのはリュネだけでは無かった。女、それもそこそこ歳のいった女だ。頭からすっぽりフードを被って、その隙間からちらちら窺うような目つきが鬱陶しい。

 カイルが警戒しているのを無視してか、リュネは色あせたケープマントの雪を払いながら早口で言った。

「カイル。しばらくこの方のそばにいてもらえない? わたしの部屋を空けるから、そこにいて」
「なんなんだよ、急に」
「訳は後で話すわ。今から来るお客さまに、絶対に彼女の存在を知られたくないの。お願い」

 なんだなんだ、と戸惑う余裕さえ与えず、リュネが部屋——カイルがいつも入る部屋の反対側のドアを開ける。

 この部屋に入るのは初めてだ。あちこちに干している薬草。積み重なった古い本に、書き物。モノがほとんどないカイルの部屋とは逆に、雑多なモノたちが天井まで埋めつくしそうな勢いで積み重なっている。

(らしいっちゃ、らしいか。何にも捨てない、慈悲深き魔女さま、だもんな)

 女はカイルを見上げたあと、泣きそうな声でリュネに縋りついていた。

「……魔女さま」
「大丈夫。彼は、わたしが信頼に足ると判断した男です。だからどうか泣き止んで。ね?」

 優しい優しい『魔女さま』の声で、リュネは女の肩にかかった雪つぶを指先で弾く。それからカイルに目配せをして、ドアを閉じた。

(あれは、こいつの対応をしろってことか?)

 女はドアの前に立ったまま、未だカイルのことをちらちら見ている。腫れ物みたいなその様子に苛立ち、カイルは椅子を乱暴に差し出した。

 沈黙が部屋を包む。カイルは床に座り、息を吐いた。気の利いたおしゃべりなんて、する気もできる気もしない。何せ相手は、こっちの一挙手一投足に怯えているような始末だから。

 信頼に足る男。

 リュネの言葉が蘇るが……一体何をもって判断したのやら。カイルは眉間にしわをよせたまま、がりがりと頭をかいた。

「……ごめんなさい」

 やがて、女の涙声が、部屋の空気に耐えかねたようにころころとつぶやかれた。

「……別に」
「でも、私のせいで」
「俺がこういう顔なのは、生まれつきだ。この部屋に閉じ込められてんのは、『魔女さま』のせいだ。あんたのせいじゃねえ」

 と、びりびりと怒鳴り声が扉を揺らした。女がひっ、と声を飲む。カイルは音もなく立ち上がり、女とドアの間に入った。
 薄い木の扉の向こうでは、しゃがれ声の男の怒声と、異様なまでに柔らかげなリュネの声が聞こえる。

「落ち着いて……まずはお水を……」
「なあ、もう、魔女さまにお願いするしかないんだ! 俺の妻はどこに行ったんだ!?」

 なるほどね。
 カイルは女の方を見下ろした。フードの下の顔が真っ青になっている。

「……あれ、あんたの」

 ドアを指させば、女は再び泣き出してしまいそうな顔で、くしゃりと笑った。

「そう。うるさくしてしまって、ごめんなさい」

 ドアの外は、相変わらず酷い大声が響いている。その、妙に甘えた声。酔っ払い特有の、聞くに耐えない崩れ方に、カイルは思わず舌打ちをしていた。

「……お酒が入ると、いつもああで。普段は陽気でいい人なのよ」
「でも殴るんだろ」

 女の笑顔が消える。それから、ゆっくりと視線が上がった。カイルは自分の頬骨のあたりをつんとつつき、静かに口を開く。

「あんたのその頬。フードで隠してるつもりだったか?」
「……っ、でも」
「理由がどうあれ、人を殴るやつはクソ野郎だろ」

 その声に、妙に感情がにじんでしまい、カイルは顔を逸らした。思い出したくもない過去が、押さえつけていた感情が、封じたはずのそれらが悪魔のように囁いてくる。
 
 暴力の痛み。罵倒の声。泣いても叫んでも、その声は届かない。痛みを和らげるために、必死で冷たい床に張り付いていたその悔しさ。背中の傷がじくじくと痛む。

(……やめろ。思い出すんじゃねえ)

 もう、あの頃とは違うのに。それでも、記憶は生々しく、カイルの中に帰ってくるのだ。

 ——と、ふふ、と密やかな笑い声が、カイルを現実に戻す。はっとして顔を戻すと、女は痛々しい目元をほんのり細めて、口元に手を当てていた。

「魔女さまのお弟子さんなのに、随分あけすけな物言いなのね。あなた」
「弟子? なわけあるか。俺はただの居候だ」
「まあそうだったの。でも……ふふ、クソ野郎かあ」

 女が、足をゆっくり伸ばす。深い森の中のような空気を吸って、フードを脱ぐ。その柔らかな目元は、痛々しく腫れて歪んではいるものの、遠くを見ていた。
 ドアの向こうの、醜い泣き声に何を思っているのか。カイルはただ、その横顔を見つめる。

「私がいなきゃ……ってずっと思ってたけど。それは、間違った選択だったのかもしれないわね」

 やがて、ドアの向こうの叫び声がふっと途切れた。ややあって、ノックの後にこちらのドアが開く。

「ナティさん」
「魔女さま」

 リュネは一瞬、フードを外した女の姿に驚いたようだった。が、すぐに安心させるようにふわりと微笑んだ。

「旦那さんには、一旦帰ってもらったわ。とりあえず大丈夫。カイルも、ありがとうね」
「本当におふたりともありがとう……ご迷惑おかけして、ごめんなさい」

 魔女さま。女の声にリュネが首を傾げる。くすんだ色の金髪が、はらりと肩で揺れる。
 女はくたびれた様子で、けれどはっきりと口を開いた。

「私、ここを出ていくわ」
「……そう」
「もう、殴られるのは嫌だもの。街の方で仕事を探して……一人で暮らせるようになったら、夫と離縁します」

 リュネが、その決断にどんな顔をしていたのか。カイルからは見ることができなかった。
 けれど、
 
「ええ。あなたの選択を、わたしは赦すわ」

 その言葉は強く優しく、新たな門出に背を押すような響きをしていた。

 そこからはもう、目を剥くような早さで。リュネも女も早々にここから出ていくための準備を進めていた。
 なにせもうその日の夕方には——ここから一番近い街と村を繋ぐ、早馬車の踏み台に足をかけていたのだから。

「こっちは、女工さんを募集してるところの一覧。それで、こっちが紹介状。わたしか、おばあちゃまの名前を出せば、ここの経営者なら理解してくれるはずだから」
「何から何まで……本当にありがとう」
「せめてもの餞別よ。辛くなったら、いつでもここに来て。わたしはあなたを助けたいから」

 夕焼けに、リュネの髪がきらきらと光る。女は、まだ暴力の痕の残る顔を、それでも美しく笑ってみせた。

「カイルさん」

 ふたりから離れたところにいたカイルに、女がおもむろに声をかけてきたものだから。カイルは目をぱちぱちさせてそちらを向く。

「ありがとう」
「……別に、俺は何もしてないぞ」

 違うわ。そう言うみたいに、女は手を振った。
 
「あなたの言葉で目が覚めたの。その勇気が未来を照らすよう、遠くでも神さまにお祈りしているわね」

 さようなら。
 馬車はがらがらと音を立てて、遠くへゆく。夕日に溶けゆくように、見えなくなる。リュネはその影が消えるまで見送ると、ぐっと伸びをして振り返った。

「今日は色々ありがとうね。わたしは家に戻るけど……カイルはどうする?」
「……なあ」
「なあに」

 リュネはいつも通りに答える。まるで、こんなこと当たり前みたいに。カイルは目を何度かまばたきさせて、それから、口をとがらせて言葉を並べた。

「男の方はどうするんだよ。あいつ、妻が逃げたって知ったら、絶対怒るぜ」
「……そうねえ」
「お前は『赦しの魔女』だろ? 女の方に肩入れしちゃって、いいの」

 少なくとも、カイルの視点からは男に同情の余地はない。暴力を振るった時点で、どうしようも無いクソ野郎なのだから。

 でもリュネは——『赦しの魔女さま』は。火遊びをした少年にさえ、赦しを与えた女なら。カイルの視点なんて飛び越えて、『赦し』を与えると思ったのに。

 先に進んでいたリュネが、再び歩き始める。森に向かって。夜に向かって。
 そうして、なんでもないふうな声が、言葉を放った。

「わたしが赦すのは、わたしが赦したいひとだけよ」
「はあ?」

 思わず、口からこぼれ出ていた。強い風がふく。積もっていた薄い雪が舞い上がり、リュネの簡素なスカートやエプロン、紐で結んだだけの月色の髪がはためく。
 
「全員は、赦せない。わたしの手や言葉が届く範囲の人たちしか、助けられない。言い分は聞くし、助言だってする。与えられるなら、時間もお金も、なんだってあげるわ。でも、最後に誰をどう赦すのかを決めるのは、わたし」

 とん、とんと踊るようにリュネが振り返った。柔らかいと思っていた緑色のまなこが、不気味に輝く。

「だってわたし——魔女だもの。誰もかもを救う神さまや、聖女さまではないんだから」
「……じゃあ」

 カイルはそこで口をつぐむ。もし『それ』が本当になってしまったら。リュネが『それ』を肯定したら、きっと何かが壊れてしまうと感じたから。

 カイルが未来を提示しても、リュネは復讐を赦さない。自分の選択肢を否定する。
 
 カイルを、リュネが否定する。
 それはまるで、昔の自分に戻ってしまうみたいで——嫌だ。

 そんな可能性が、わずかにでもあることに、ひどい寒気が走った。まるで、心臓の奥に氷を押し付けられたような……。
 カイルは、その震えを断ち切るように、強く拳を握りしめる。リュネの色味の薄い金の髪が、惑わせるようにちらちらと夕焼け色に染まって見えた。
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