婚約破棄された令嬢は、幸せになると決めました~追放先で出会った冷徹公爵が、なぜか溺愛してくる件~

sika

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第11話 置き去りにした過去

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春の終わりを告げる雨が降り出した。  
細い雨粒が窓を叩き、ぼんやりとした音が屋敷全体に響いている。  
朝から空は灰色で、庭の花々も静かに頭を垂れていた。  

雨の匂い――それは、アイリスにとって過去の記憶を呼び覚ます香りだった。  
王都での日々。  
リュシアンと婚約していた頃、よくこの季節に庭園でお茶をした。  
彼はいつも穏やかな笑みを浮かべていたが、どこか遠くを見ていた。  

その目に、今どんな後悔が映っているのだろう。  
そんなことを考えても意味がないと思いながらも、  
心の奥でまだ整理のつかない何かがくすぶっていた。  

***  

午前、アイリスは屋敷の資料室にいた。  
公爵から新しい仕事を任されていたのだ。  
王都との交易が再開する前に物資の配分を見直す――  
領の安定を支える、重要な任務だった。  

積み上げられた古い帳簿を読み込みながら、ふと一枚の紙に目が留まる。  
それは王都の商人による申請書。  
筆跡を見た瞬間、手が止まった。  

“パートナー商会 代表 ガレス・アルベール”  

父の名。  
数か月前に届いた絶縁の手紙を思い出す。  
喉の奥がきゅっと締めつけられた。  

「……取引の申請?」  
独り言のように呟く。  
内容は、王都からの穀物供給と商路の整備に関するもので、  
署名の脇には王家の紋章が添えられていた。  

まるで“王太子のお許しを得ている”と誇示するかのようなその印。  
胸の奥に黒い波が滲み出す感覚がした。  

なぜ今さら――。  
父が自分を切り捨てたその口で、公爵領に媚びるような書面を出すとは。  

思わず紙を握りしめた。  
怒りでも悲しみでもない、ただ冷たい絶望が込み上げてくる。  

「……父は、変わらないのね。」  

***  

その日の夕方。  
執務室でレオンに報告を済ませた後、アイリスはその申請書を机に置いた。  
「この取引、王都を通じて父が申請しています。確認していただきたいのですが……」  

レオンは眉をひそめ、書類を手に取る。  
「アルベールか。」  
短く呟くと、彼の表情にかすかな苦味が浮かんだ。  
「やはり、動いてきたか。」  

「ご存じだったのですか?」  
「予想はしていた。王太子の意向がある程度落ち着けば、必ず動くと思っていた。」  

「殿下の意向……?」  
「商路の再開は王都にとっても重要だ。だが、恐らくそれだけではない。」  
レオンは書類を机に置くと、指で軽く叩く。  
「『アイリス・アルベールを引き取る』という名目で、再びお前を王都に戻すつもりかもしれん。」  

まるで時間が止まったようだった。  
あの日、婚約破棄を告げたときの冷たい声がよみがえる。  

——君には、王妃の器がない。  

あの言葉が胸の奥を刺したまま抜け落ちずにいた。  

「わたくしを……戻す?」  
かすれる声で問うと、レオンが静かに頷く。  

「お前の存在は、王都にとって“傷”だ。彼らはその痕を隠したいのだ。」  
「まるで、物みたいに扱いますのね。」  
「貴族とはそういうものだ。人を名で呼び、名で切り捨てる。」  

アイリスは拳を握りしめた。  
長い沈黙のあと、震える声で言う。  

「戻りません。二度と。」  
「分かっている。」  

短い言葉。だがそれに込められた確信に、なぜか涙が出そうになった。  
彼は怒りでも同情でもなく、ただ彼女の意思をそのまま受け入れてくれた。  

「書類は破棄します。」  
そう言って、レオンは紙を手に取ると暖炉の火の中へ投げ入れる。  
炎が瞬く間に封印を焼き、紙を黒い灰に変える。  

「……これで終わりだ。」  
「公爵様……」  
「お前が望まぬ過去に、これ以上誰も手を伸ばさせはしない。」  

その低い声に、不思議と涙がこみあげる。  
優しさが胸にしみ込んで、息が詰まる。  

「ありがとうございます……わたし、本当にここに来てよかった。」  
「そう思うなら、これからも前を向け。過去は振り返るな。」  
「はい。」  

***  

夜。  
雨は静かに上がっていた。  
外には月が薄く浮かび、庭の水たまりに光が映っている。  

アイリスはベランダに出て、その光を見つめた。  
あの日、王都を出る時の雨も、こんな風に静かに降っていた。  
同じ雨なのに、感じるものは全く違う。  

「……戻らない。わたしは、もうあの場所には。」  

そう呟く声が夜風に溶け、胸の奥から重い鎖が少しだけ外れていくのを感じた。  

ふと、屋敷の中から足音がした。  
振り向くと、レオンが廊下に立っていた。  
「こんな時間に外にいるとはな。」  
「眠れなくて……ごめんなさい。」  

彼は軽く首を振り、肩に外套をかけてくれた。  
「風が冷える。夜はまだ春とは言えん。」  
「ありがとうございます。」  

沈黙のまま並んで空を見上げる。  
雲の切れ間から月が覗き、雫がきらめいた。  

「……お前は強いな。」  
「いいえ。強く見せているだけです。」  
「それでもいい。偽物の強さでも、人は前に進める。」  

その言葉が妙に心に残った。  
本当は、彼の方がずっと不器用で優しい。  
その姿に支えられて、自分もここまで来たのだと思う。  

「公爵様。ひとつだけ……お願いがあります。」  
「なんだ。」  
「いつか、この地が本当に穏やかになったら――  
わたしの記録を、領民の記録として残してもいいでしょうか?」  

レオンが少し目を細めた。  
「お前の名で、か?」  
「はい。アイリスではなく、グレイスとして。」  

一瞬の沈黙。  
やがて彼は微かに、しかし確かに微笑んだ。  
「いいだろう。未来の者がその名を見て、“誰だろう”と思うくらいには残るだろうな。」  
「それで十分です。」  

風が吹き、枝の滴が二人の間に落ちた。  
それは涙のように冷たく、けれど心地よかった。  

「グレイス。」  
「はい?」  
「お前がここにいる限り、俺の過去も少しずつ変わっていく気がする。」  

その言葉に、息が詰まった。  
胸が痛くて、苦しくて、それでも少しだけ笑えた。  

「それなら、わたしがお手伝いします。」  
「どう手伝う?」  
「あなたの明日のために、記録を残します。もう二度と、誰の痛みも忘れられないように。」  

レオンがうなずく。  
二人の間に、静かなぬくもりが流れた。  

過去を置き去りにしても、人は生きていける。  
けれど、それを共に背負える誰かがいるなら――  
きっとその未来は、少しだけ温かい。  

(第11話 置き去りにした過去 了)
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