元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

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第1話 婚約破棄の冷たい言葉

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「クロエ・ラングレー嬢、君との婚約を破棄させてもらいたい。」

その言葉が発せられた瞬間、時間が止まったように感じた。  
窓の外では春を告げる光がゆるやかに降り注ぎ、白いカーテンが風に揺れている。けれど、胸の奥には氷が這い登るような冷たさしか残らなかった。

「……今、なんと?」  
喉が震えて、かすれた声になった。クロエは慎重に姿勢を保ちながら、目の前の青年を見つめた。彼——ルシアン・フェルナンド公爵家の嫡男。幼いころから許嫁として人生を共にすることが決まっていた相手であり、クロエがずっと慕い、信じ、支えようとしてきた人だった。

だが彼は、まるで重荷を降ろしたかのように肩の力を抜き、淡々と口を開く。  
「君は完璧すぎるんだ、クロエ。何事にも理想を求め、努力を惜しまない。けれど、その努力が僕には息苦しい。君の理想に合わせるのは、疲れるんだ。」

まるで瑣末なことを告げるような声音だった。  
クロエは微かに握りしめた指先に力を込める。けれど、その白い手が震えてしまうのを止められなかった。

「……私が、貴方を苦しめていたと?」  
「そうだ。君はいつも完璧で、他人の評価ばかりを気にする。僕はもっと自由に生きたい。君とでは、それが叶わない。」

彼の瞳には一片の躊躇もなかった。  
クロエは深く息を吸い、すぐに涙をこぼしてはいけないと心の中で自分を叱る。ラーングレー伯爵家の娘として、取り乱すことなど許されない。礼儀を最後まで守るのが、自分の矜持だった。

それでも、心は悲鳴を上げていた。  
——努力を惜しまなかったことが、罪だというの?  
——あなたのために完璧でいようとしたのに、それがいけなかったの?

唇の裏を噛みしめ、顔を上げる。  
「……わかりました。婚約の件、父と母にも私から説明いたします。」

ルシアンは一瞬だけ躊躇したように見えたが、すぐに眼差しをそらした。  
「気の毒だが、それが一番だろう。君はもっと相応しい相手を見つければいい。」

言い捨てるような言葉とともに立ち上がり、背を向ける彼。その背中を見送るしかなかった。  
クロエは立ち尽くしたまま、ただカーテン越しの日差しを見つめる。美しい光が白いドレスの裾を撫でていく。  
その光はあまりにも優しく、今の彼女には残酷だった。

やがて彼が去った音が完全に遠のくと、クロエはゆっくりと片膝をついた。  
足元に、白いレースのハンカチが滑り落ちる。涙がそれを濡らした。  
何度も深呼吸をしても胸が痛く、呼吸がうまくできない。  
それでも、声を上げて泣くことはできなかった。  
それは、誇りを守る最後の防壁のように思えたから。

数刻後。  
部屋に戻ったクロエを迎えたのは、侍女のリディアの驚いた声だった。  
「お嬢様!? お顔が……どうされたのですか!」  
「……少し外で転んだの。気にしないで。」  
その嘘は薄く、寂しい笑みにかすれていた。

夜。  
父母に婚約破棄を伝えると、伯爵夫妻はただ重くうなずいた。  
父の顔には怒りが浮かび、母は静かにクロエの肩を抱いた。  
「クロエ……あなたは、よく頑張りましたね。」  
その優しい声に、ようやく涙があふれた。  
でも、泣きながらもクロエの心の奥には、どこかで冷えた光が灯り始めていた。  
——このまま終わりなんて、嫌。  
——努力が無駄だったなんて、そんなふうに思われたくない。

翌朝、彼女は鏡の前で静かに髪をまとめた。  
いつもより少しだけ高く、凛々しい印象になるように結い上げる。  
涙の痕も、夜の痛みも、化粧で隠す。  
鏡の中の自分に、小さく囁く。  
「大丈夫。私はやり直せる。」

その声はまだ震えていたが、確かに前を向いていた。

その日、クロエは屋敷を出て王都へ向かった。  
久しく訪れていなかった中央街——社交界の中心。すれ違う視線が痛かった。噂は早い。数日のうちに、「完璧すぎる令嬢が婚約者を追いつめた」という話が社交界に広がっていたのだ。  
それでもクロエはうつむかず、静かに歩いた。

ふいに、馬車通りの角を曲がったとき。  
小さな悲鳴とともに、クロエは誰かにぶつかった。  
「きゃっ——あっ……す、すみません!」  
転びそうになったのを、相手が素早く受け止めてくれる。  
温かな手の感触が腕に残った。

「こちらこそ。お怪我はありませんか?」  
穏やかで、どこか懐かしい響きのする声。  
顔を上げると、陽の光を受けて輝く金色の髪と、優しく笑う翠の瞳があった。  
青年の身なりは質素で、平民のようにも見える。けれど、ただ者ではない空気を纏っていた。

「いえ、本当に失礼いたしました。ぼんやりしていて……」  
「何か辛いことでもありましたか?」  
不意に問いかけられ、クロエは言葉を失う。  
彼は、ただ心配そうに見つめていた。その瞳の奥には打算も好奇心もなく、純粋な思いやりが宿っていた。  
「……いえ。一つ、夢が終わっただけです。」  
「夢が終われば、次にやってくるのは新しい始まりですよ。」  
ふっと微笑むその笑顔に、胸の奥の氷が一瞬だけ溶けた気がした。

「名前を、伺っても?」  
「クロエ・ラングレーと申します。」  
「クロエ嬢。いい名前だ。」  
青年は短く頷き、柔らかく礼をする。  
「僕はノエル。機会があれば、またお会いできるといいですね。」  
そう言って去っていく後ろ姿を見送りながら、クロエは小さく息を吐いた。  
心の奥で何かが静かに動き始める。  
あの笑顔の余韻が消えず、胸が温かくなる。  
久しく感じなかった感情だった。

屋敷に戻る道すがら、クロエは自分の胸に手を当てる。  
失恋の痛みがまだ深く刺さっているのに、確かにそこにはほのかな希望のぬくもりがあった。  
それが何であるかは、まだわからない。  
けれど、もう誰かに“完璧を求められる”だけの自分ではいたくなかった。  
今度こそ、自分の意志で生きて、自分の幸せを掴みたい。

夕暮れの風がそっと頬を撫で、クロエは微笑んだ。  
「新しい始まり、ね……。」

その言葉は、彼女の未来を告げる小さな予感になって胸に灯った。

続く
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