元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

文字の大きさ
2 / 30

第2話 涙の夜と見知らぬ青年

しおりを挟む
夜になっても、クロエの心は静まらなかった。  
ルシアンに婚約破棄を告げられてから一日が経ち、屋敷の空気はどこか重く、沈黙に満ちていた。  
父母はそれぞれ社交界への報告を終え、今後の交際関係の整理に奔走している。  
その姿を見て、クロエは痛みと共に申し訳なさを感じた。彼らには何の落ち度もないのに、娘の婚約破棄が家の評判に影を落としてしまったのだ。

ベッドの上に腰かけ、クロエは静かに息をついた。  
薄明かりの蝋燭の揺らめきが壁に影を落とす。  
必ず幸せになると信じていた相手が、あんなにも簡単に全てを手放す人だったなんて。

胸の中が空っぽだった。  
努力することこそが愛だと――そう思っていた。  
けれど、努力が彼を遠ざけたというのなら、クロエは何を信じればいいのだろう。

「……私、間違っていたの?」  
問いかけても、答える者はいない。  
手元の白いレースのハンカチには、水滴の跡がほのかに残っている。昨日、涙をこぼした痕だ。  
あの日の自分がどれほど惨めで、無力だったかを思い出す。小さな体に押し寄せる絶望を抱えたまま、それでも頭を下げ、礼を尽くして別れを告げた――あの時の冷たい自分の声がまだ耳に残っていた。

窓の外を見ると、曇り夜の下、王都の灯が遠くに瞬いている。  
この街のどこかで、ルシアンもまた別の誰かと微笑み合っているのかもしれない。  
そう思うだけで、胸の奥が締めつけられた。

クロエは立ち上がり、机の引き出しから一枚の手紙を取り出す。  
それはまだ、二人が幸せだった頃の便箋。  
ルシアンの字で、丁寧に「君と共に生きる未来を信じている」と書かれていた。  
震える指先が紙をなぞり、視界が滲む。  
けれど、涙はもう流れなかった。  
悲しみを超えた後には、少しだけ静かな諦めがあった。

窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。  
クロエは外を見下ろす。庭の向こうには森が続き、さらにその先に王都の灯が揺れている。  
あそこに行けば、少しは違う風が吹いているだろうか――そんな衝動が胸を満たした。

彼女はショールを羽織り、屋敷を抜け出した。  
本来なら許されないことだ。だが、今夜だけは心のままに歩いてみたかった。  
夜道はひんやりとして、湿った空気が肌を包む。遠くで教会の鐘が鳴り、静寂を切り裂くように響いた。

王都の外れにある橋の上にたどり着いたとき、クロエは歩を止めた。  
川面に映る月が淡く砕け、流れていく。  
その光景を見つめながら、ふと足元から声がした。

「こんな時間に、ひとりで歩いておられるのですか?」

驚いて振り返ると、そこには昼間出会った青年――ノエルがいた。  
少し厚いコートを羽織り、肩には旅人のような袋を下げている。  
彼女の表情を見るなり、心底心配そうに眉をひそめた。

「またお会いできましたね。……こんな夜に歩くのは、危ないですよ。」  
「……ノエル様。奇遇ですね。」  
「奇遇というより、運命のいたずらかもしれませんね。」

言葉の端に微笑を滲ませながら、彼は静かに橋の欄干にもたれかかった。  
その動作にクロエの緊張が少し和らぐ。  
見知らぬ相手なのに、不思議と警戒心が薄れてしまう。それほど、彼の笑みは穏やかだった。

「お顔が少し……泣いた後ですね。」  
優しい指摘にクロエの背筋が固まる。  
思わず頬を撫でるが、もう涙の跡は乾いていた。  
「少し、息苦しかったのです。ここに来れば、少し楽になれるかと思って。」  
「何かを失ったのですか?」  
詮索するでもなく、ただ相手を気づかうような声音。  
クロエは目を閉じ、頷いた。  
「大切なものを……いえ、大切だと思っていたものを、です。」  
「それが、自分の手の中から零れ落ちた時、人はよく空を見ますね。」  
「え?」  
「失くしたものを探す代わりに、まだ遠くに何かあるはずだと思いたくなるんですよ。」

彼の言葉は不思議な慰めに満ちていた。説教でも同情でもない、ただ寄り添う穏やかさ。  
クロエは小さく笑った。  
「面白いことをおっしゃいますね。」  
「旅人ですから。たくさんの人を見てきました。泣く人、笑う人、怒る人。けれど、絶望したままの人はいません。どんな夜にも、必ず朝が来ると知っているから。」  
「……朝が来る。」  
その言葉を噛みしめると、胸の奥に暖かな火が灯る気がした。

ふと、風が吹いた。クロエの髪が揺れ、ノエルの指先がそっとそれを押さえた。  
至近距離で彼の瞳に映る自分を見て、心臓が静かに跳ねる。  
息を吸うのを忘れるほど、彼の瞳は穏やかで、けれどどこか強い意志を宿していた。

「クロエ嬢、あなたのような人が、悲しみだけで歩くのは似合いません。」  
「……私に、笑う資格などあるのでしょうか?」  
「資格? 笑うのに資格は必要ありませんよ。ただ、勇気だけです。」  
柔らかな言葉が夜の空気に溶けた。  
クロエは小さく唇を結び、視線を落とした。  
そうして、少しだけ息を吐く。  
「……不思議な方ですね、ノエル様は。」  
「不思議なのは、貴女に会ったことの方ですよ。」

その言葉に胸が温かくなった。  
まるで見えない手が、凍った心を優しく包んでくれるようだった。  
どれだけ強くても、辛い時にそっと寄り添う言葉ほど尊いものはない。

「少し歩きましょうか。夜風を浴びると、心が軽くなります。」  
ノエルの提案に頷き、二人は橋を渡りながら歩き始めた。  
石畳が月光を反射し、足音が淡く響く。  
クロエは思い出す。  
これほど穏やかな会話を誰かとしたのはいつ以来だったろう。

ノエルが語る旅の話は不思議と面白く、心に優しく染み入った。  
遠い国で見た祭りの灯、荒野を渡るキャラバンの歌。  
彼の口から紡がれる風景は、クロエにはまるで絵本のように鮮やかに浮かんだ。

「ノエル様は、どこへ向かっていらっしゃるのですか?」  
「うーん、秘密です。」  
「秘密、ですか?」  
「ええ。まだ“自分を見つける途中”なんです。」  
意味深な微笑みに、クロエは小さく笑うしかなかった。  
その“秘密”という言葉が、なぜか彼をより特別に感じさせた。

気づけば、夜はすっかり更けていた。  
別れ際、ノエルは少し寂しげに言った。  
「人の涙は夜の露に似ています。放っておけば乾きますが、誰かの言葉で光ることもある。今夜、少しでも心が軽くなったなら嬉しい。」  
「はい……ありがとう、ございます。」  
「ありがとうは、朝になって心が晴れた時に言ってください。その時の方が、きっと本当です。」

そう言って微笑むと、ノエルは振り返らずに闇の中へ消えていった。  
彼の残した温もりだけが、クロエの中に残る。  
身体よりも心が火照り、指先がかすかに震えていた。

屋敷への帰り道、クロエは何度も夜空を見上げた。  
涙の代わりに、微笑みがこぼれた。  
一瞬しか共に過ごさなかったのに、あの青年と出会えたことが、不思議なほど救いだった。  
悲しみの渦の中に、たしかに希望の光が射しこんだ気がした。

部屋に戻ると、鏡の中の自分が少し違って見えた。  
瞳の奥に、昨日まではなかった光が宿っている。  
ノエルの言葉が、静かに胸の底に響いていた。  
――どんな夜にも、必ず朝が来る。

ベッドに身を預け、彼の言葉を反芻する。  
そのまま穏やかな眠りに落ちていく瞬間、クロエは初めて願った。  
どうか、明日が少しでも優しい一日でありますように――。

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

手作りお菓子をゴミ箱に捨てられた私は、自棄を起こしてとんでもない相手と婚約したのですが、私も含めたみんな変になっていたようです

珠宮さくら
恋愛
アンゼリカ・クリットの生まれた国には、不思議な習慣があった。だから、アンゼリカは必死になって頑張って馴染もうとした。 でも、アンゼリカではそれが難しすぎた。それでも、頑張り続けた結果、みんなに喜ばれる才能を開花させたはずなのにどうにもおかしな方向に突き進むことになった。 加えて好きになった人が最低野郎だとわかり、自棄を起こして婚約した子息も最低だったりとアンゼリカの周りは、最悪が溢れていたようだ。

【完結】婚約破棄、その後の話を誰も知らない

あめとおと
恋愛
奇跡によって病を癒す存在――聖女。 王国は長年、その力にすべてを委ねてきた。 だがある日、 誰の目にも明らかな「失敗」が起きる。 奇跡は、止まった。 城は動揺し、事実を隠し、 責任を聖女ひとりに押しつけようとする。 民は疑い、祈りは静かに現実へと向かっていった。 一方、かつて「悪役」として追放された令嬢は、 奇跡が失われる“その日”に備え、 治癒に頼らない世界を着々と整えていた。 聖女は象徴となり、城は主導権を失う。 奇跡に縋った者たちは、 何も奪われず、ただ立場を失った。 選ばれなかった者が、世界を救っただけの話。 ――これは、 聖女でも、英雄でもない 「悪役令嬢」が勝ち残る物語。

悪役令嬢発溺愛幼女着

みおな
ファンタジー
「違います!わたくしは、フローラさんをいじめてなどいません!」  わたくしの声がホールに響いたけれど、誰もわたくしに手を差し伸べて下さることはなかった。  響いたのは、婚約者である王太子殿下の冷たい声。  わたくしに差し伸べられたのは、騎士団長のご子息がわたくしを強く床に押し付ける腕。  冷ややかな周囲のご令嬢ご令息の冷笑。  どうして。  誰もわたくしを信じてくれないまま、わたくしは冷たい牢の中で命を落とした。

『婚約破棄?結構ですわ。わたくしは何もしないで生きていきます』

鷹 綾
恋愛
内容紹介 王太子ユリウスの婚約者だった伯爵令嬢リュシエンヌは、公衆の面前で一方的に婚約を破棄される。 だが彼女は泣かず、怒らず、復讐も選ばなかった。 「働かないと、決めましたの」 婚約者として担ってきた政務補佐、調整、裏方の仕事をすべて手放し、彼女は“何もしない”生活を始める。 すると王宮は静かに軋み、これまで彼女が支えていた日常だけが浮き彫りになっていく。 新たな婚約者を得た王太子。 外から王宮を支える女性。 そして、何もせず距離を保つ元婚約者。 誰も声高に責めず、誰も派手なざまぁをしない。 それでも、関係は変わり、立場は入れ替わり、真実だけが残っていく。 これは、頑張らないことで人生を取り戻した令嬢の物語。 婚約破棄のその先で、“何もしない”という最強の選択をした女性が、静かに自由を手に入れるまでの40話。

初恋を諦めたあなたが、幸せでありますように

ぽんちゃん
恋愛
『あなたのヒーローをお返しします。末永くお幸せに』  運命の日。  ルキナは婚約者候補のロミオに、早く帰ってきてほしいとお願いしていた。 (私がどんなに足掻いても、この先の未来はわかってる。でも……)  今頃、ロミオは思い出の小屋で、初恋の人と偶然の再会を果たしているだろう。  ロミオが夕刻までに帰ってくれば、サプライズでルキナとの婚約発表をする。  もし帰ってこなければ、ある程度のお金と文を渡し、お別れするつもりだ。  そしてルキナは、両親が決めた相手と婚姻することになる。  ただ、ルキナとロミオは、友人以上、恋人未満のような関係。  ルキナは、ロミオの言葉を信じて帰りを待っていた。  でも、帰ってきたのは護衛のみ。  その後に知らされたのは、ロミオは初恋の相手であるブリトニーと、一夜を共にしたという報告だった――。 《登場人物》  ☆ルキナ(16) 公爵令嬢。  ☆ジークレイン(24) ルキナの兄。  ☆ロミオ(18) 男爵子息、公爵家で保護中。  ★ブリトニー(18) パン屋の娘。

婚約破棄を望むなら〜私の愛した人はあなたじゃありません〜

みおな
恋愛
 王家主催のパーティーにて、私の婚約者がやらかした。 「お前との婚約を破棄する!!」  私はこの馬鹿何言っているんだと思いながらも、婚約破棄を受け入れてやった。  だって、私は何ひとつ困らない。 困るのは目の前でふんぞり返っている元婚約者なのだから。

婚約破棄?結構ですわ。公爵令嬢は今日も優雅に生きております

鍛高譚
恋愛
婚約破棄された直後、階段から転げ落ちて前世の記憶が蘇った公爵令嬢レイラ・フォン・アーデルハイド。 彼女の前世は、ブラック企業で心身をすり減らして働いていたOLだった。――けれど、今は違う! 「復讐? 見返す? そんな面倒くさいこと、やってられませんわ」 「婚約破棄? そんなの大したことじゃありません。むしろ、自由になって最高ですわ!」 貴族の婚姻は家同士の結びつき――つまりビジネス。恋愛感情など二の次なのだから、破談になったところで何のダメージもなし。 それよりも、レイラにはやりたいことがたくさんある。ぶどう園の品種改良、ワインの販路拡大、新商品の開発、そして優雅なティータイム! そう、彼女はただ「貴族令嬢としての特権をフル活用して、人生を楽しむ」ことを決めたのだ。 ところが、彼女の自由気ままな行動が、なぜか周囲をざわつかせていく。 婚約破棄した王太子はなぜか複雑な顔をし、貴族たちは彼女の事業に注目し始める。 そして、彼女が手がけた最高級ワインはプレミア化し、ついには王室から直々に取引の申し出が……!? 「はぁ……復讐しないのに、勝手に“ざまぁ”になってしまいましたわ」 復讐も愛憎劇も不要! ただひたすらに自分の幸せを追求するだけの公爵令嬢が、気づけば最強の貴族になっていた!? 優雅で自由気ままな貴族ライフ、ここに開幕!

姉と妹の常識のなさは父親譲りのようですが、似てない私は養子先で運命の人と再会できました

珠宮さくら
恋愛
スヴェーア国の子爵家の次女として生まれたシーラ・ヘイデンスタムは、母親の姉と同じ髪色をしていたことで、母親に何かと昔のことや隣国のことを話して聞かせてくれていた。 そんな最愛の母親の死後、シーラは父親に疎まれ、姉と妹から散々な目に合わされることになり、婚約者にすら誤解されて婚約を破棄することになって、居場所がなくなったシーラを助けてくれたのは、伯母のエルヴィーラだった。 同じ髪色をしている伯母夫妻の養子となってからのシーラは、姉と妹以上に実の父親がどんなに非常識だったかを知ることになるとは思いもしなかった。

処理中です...