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第28話 「貴方がいれば、恐れはない」
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春の匂いが王城を包み、柔らかな風が庭園の白百合を揺らしていた。
戦の影が去り、王国には穏やかな時間が流れている。
だが、クロエの胸の奥にはまだ消えない緊張の名残があった。
王ノエルの傷が癒えてから数日、政務は滞りなく進み、民の生活も安定を見せている。
それでも、日ごとに彼の周りに集まる視線が変わり始めていた。
「王妃となるクロエ・ラングレー殿は、あまりに慎ましすぎる」
「王の隣には、もう少し華やかな者がふさわしい」
そんな声が小さく、しかし確実に届き始めていたのである。
クロエは分かっていた。
自らの立場が、必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを。
それでも彼の隣に立つと誓った以上、怯んではいけない。
彼の誇りは民を信じる力。ならば、自分は――彼を信じる力でありたい。
その日、ノエルは議事堂での会議を終えると、執務室の窓辺に立っていた。
遠くの空に薄い雲が流れ、春雨が落ちる気配を孕んでいる。
「陛下。」
控えめな声に振り向くと、そこにはクロエがいた。
彼女は薄い桃色のドレスに身を包み、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「政務は順調と伺いました。お体の方は……?」
「もう痛みは忘れた。君のおかげで。」
「私は何もできておりません。」
ノエルは首を振る。
「いや。君のいる場所が、私の治癒の時間だ。」
その言葉にクロエの頬が少しだけ赤く染まる。
「殿下――いえ、もう“陛下”ですものね。慣れるのに少し時間がかかりそうです。」
「ならば、君が私を“ノエル”と呼ぶ限り、私は殿下のままでいよう。」
「そんなことを仰るなんて……。」
「君の声がないと、王でいられる気がしない。」
優しい笑いがこぼれた。
だが、すぐにクロエの表情は真剣に変わる。
「陛下。ここ数日、宰相派の一部が再び集まろうとしていると耳にしました。」
「……どこで?」
「侍女たちは知らぬふりをしますが、人づてに流れる噂では、王家への忠誠を偽り、私を“王妃の器ではない”と責める声と共に――。」
ノエルの瞳が静かに光を増した。
「君に向けられた悪意は、私への敵意と同じだ。」
「いいえ、陛下。民の中にまだ不安を抱く者がいるのです。恐怖と嫉妬が混じるのは、当然のこと。」
「君はいつも相手の痛みまで受け取ろうとする。」
「人は誰しも、理解されたくて叫ぶのです。それがどんなに歪な形でも。」
ノエルは近寄り、クロエの手を取った。
「君の優しさに甘える者がいたら、私は王としてそれを許さない。」
「陛下……。」
「この国を導く誓いを立てたとき、私は同時に心の誓いもした。君を痛ませるものは、何であろうと排除すると。」
彼の声は炎のように穏やかで、それでいて決意の熱を宿していた。
クロエは小さく首を振る。
「排除するより、赦す方が強さだと、陛下が教えてくださったではありませんか。」
「君には敵わないな。」
ノエルは苦笑を漏らし、そっとその手に唇を触れた。
クロエの指先がぴくりと震えた。
「でも、陛下。」
「何だ。」
「私は、貴方の隣に立つことを恐れる夜があります。人々の期待と、比べられる数々の影。
それを乗り越えようと思っても、心がまだ追いつかないときがあるのです。」
その告白は、まるで吐息のように静かに零れた。
ノエルはその言葉にしばらく答えなかった。
そして深く息を吸い、静かに言った。
「クロエ。君が恐れているものは、君の心を成長させるためにある。恐れは悪ではない。」
「……悪では、ない?」
「恐れは、愛と同じだ。何かを失いたくないと願えるからこそ、人は前へ進める。」
「……陛下は、本当に器の大きな方ですね。」
「いいや。君が教えてくれたんだ。」
そう言って、ノエルは突き放すような力を使わずに、彼女の肩を抱いた。
クロエは驚いたように目を見開いたが、すぐにその胸に身を委ねた。
「陛下……。」
「こうしていると、不思議だ。どんな重責も恐れも遠のく。」
「それは、陛下が強いからです。」
「違う。君がいるから、怖くないだけだ。」
その一言に、クロエの瞳から涙が溢れそうになった。
抱きしめ返す腕に力がこもる。
鼓動が静かに重なっていく。
「……ずっと、そう言っていただけるでしょうか。」
「もちろんだ。」
「私が弱くても?」
「君が弱いからこそ、支えたくなる。」
「もし私が失敗しても?」
「君の失敗は、この国の未来を正す導きになる。」
涙が頬を伝う。
ノエルは髪を撫で、静かに微笑んだ。
「君の涙を見て、私は恐れることをやめた。だからもう、君も恐れなくていい。」
クロエは小さく頷いた。
「陛下。貴方がいれば、私はもう何も怖くありません。」
「その言葉こそ、私が生きる力だ。」
二人は窓の外を見上げた。
天を覆っていた雲が切れ、陽が差し始める。
黄金色の光が二人を包み、床に長い影を落とした。
まるでその光が“約束”を照らすように温かい。
ノエルはその光の中で言った。
「君に王妃としてではなく、一人の人間としてのお願いをする。」
「どんなことでしょう。」
「どんな時も、笑っていてほしい。たとえ私が離れた先にいても。」
「……はい。でも、できるだけ遠くには行かないでくださいね。」
「約束しよう。」
クロエの笑顔が涙の中で咲いた。
風が吹き抜け、窓辺の花が揺れる。その香りが穏やかに漂う。
「陛下。私の心は、恐れよりも、ずっと貴方の愛で満たされている気がします。」
ノエルは彼女の頭を優しく包み込み、小さく囁いた。
「それを聞けた今、私はどんな闇も踏み越えられる。」
王と王妃ではなく、ひとりの男と女として。
二人の世界は、あの戦場よりも静かで、そして深く広い。
抱きしめ合うその腕の中に、これからの未来が確かに息づいていた。
交わされた言葉は、愛よりも確かな絆の証。
それは、どんな苦難にも折れない誓いとして刻まれていく。
窓の向こうで春の光が一層強くなり、白百合が風に柔らかく揺れた。
それはまるで、彼らの心そのもののように、静かで、揺るぎない強さを宿していた。
続く
戦の影が去り、王国には穏やかな時間が流れている。
だが、クロエの胸の奥にはまだ消えない緊張の名残があった。
王ノエルの傷が癒えてから数日、政務は滞りなく進み、民の生活も安定を見せている。
それでも、日ごとに彼の周りに集まる視線が変わり始めていた。
「王妃となるクロエ・ラングレー殿は、あまりに慎ましすぎる」
「王の隣には、もう少し華やかな者がふさわしい」
そんな声が小さく、しかし確実に届き始めていたのである。
クロエは分かっていた。
自らの立場が、必ずしもすべての人に受け入れられるものではないことを。
それでも彼の隣に立つと誓った以上、怯んではいけない。
彼の誇りは民を信じる力。ならば、自分は――彼を信じる力でありたい。
その日、ノエルは議事堂での会議を終えると、執務室の窓辺に立っていた。
遠くの空に薄い雲が流れ、春雨が落ちる気配を孕んでいる。
「陛下。」
控えめな声に振り向くと、そこにはクロエがいた。
彼女は薄い桃色のドレスに身を包み、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
「政務は順調と伺いました。お体の方は……?」
「もう痛みは忘れた。君のおかげで。」
「私は何もできておりません。」
ノエルは首を振る。
「いや。君のいる場所が、私の治癒の時間だ。」
その言葉にクロエの頬が少しだけ赤く染まる。
「殿下――いえ、もう“陛下”ですものね。慣れるのに少し時間がかかりそうです。」
「ならば、君が私を“ノエル”と呼ぶ限り、私は殿下のままでいよう。」
「そんなことを仰るなんて……。」
「君の声がないと、王でいられる気がしない。」
優しい笑いがこぼれた。
だが、すぐにクロエの表情は真剣に変わる。
「陛下。ここ数日、宰相派の一部が再び集まろうとしていると耳にしました。」
「……どこで?」
「侍女たちは知らぬふりをしますが、人づてに流れる噂では、王家への忠誠を偽り、私を“王妃の器ではない”と責める声と共に――。」
ノエルの瞳が静かに光を増した。
「君に向けられた悪意は、私への敵意と同じだ。」
「いいえ、陛下。民の中にまだ不安を抱く者がいるのです。恐怖と嫉妬が混じるのは、当然のこと。」
「君はいつも相手の痛みまで受け取ろうとする。」
「人は誰しも、理解されたくて叫ぶのです。それがどんなに歪な形でも。」
ノエルは近寄り、クロエの手を取った。
「君の優しさに甘える者がいたら、私は王としてそれを許さない。」
「陛下……。」
「この国を導く誓いを立てたとき、私は同時に心の誓いもした。君を痛ませるものは、何であろうと排除すると。」
彼の声は炎のように穏やかで、それでいて決意の熱を宿していた。
クロエは小さく首を振る。
「排除するより、赦す方が強さだと、陛下が教えてくださったではありませんか。」
「君には敵わないな。」
ノエルは苦笑を漏らし、そっとその手に唇を触れた。
クロエの指先がぴくりと震えた。
「でも、陛下。」
「何だ。」
「私は、貴方の隣に立つことを恐れる夜があります。人々の期待と、比べられる数々の影。
それを乗り越えようと思っても、心がまだ追いつかないときがあるのです。」
その告白は、まるで吐息のように静かに零れた。
ノエルはその言葉にしばらく答えなかった。
そして深く息を吸い、静かに言った。
「クロエ。君が恐れているものは、君の心を成長させるためにある。恐れは悪ではない。」
「……悪では、ない?」
「恐れは、愛と同じだ。何かを失いたくないと願えるからこそ、人は前へ進める。」
「……陛下は、本当に器の大きな方ですね。」
「いいや。君が教えてくれたんだ。」
そう言って、ノエルは突き放すような力を使わずに、彼女の肩を抱いた。
クロエは驚いたように目を見開いたが、すぐにその胸に身を委ねた。
「陛下……。」
「こうしていると、不思議だ。どんな重責も恐れも遠のく。」
「それは、陛下が強いからです。」
「違う。君がいるから、怖くないだけだ。」
その一言に、クロエの瞳から涙が溢れそうになった。
抱きしめ返す腕に力がこもる。
鼓動が静かに重なっていく。
「……ずっと、そう言っていただけるでしょうか。」
「もちろんだ。」
「私が弱くても?」
「君が弱いからこそ、支えたくなる。」
「もし私が失敗しても?」
「君の失敗は、この国の未来を正す導きになる。」
涙が頬を伝う。
ノエルは髪を撫で、静かに微笑んだ。
「君の涙を見て、私は恐れることをやめた。だからもう、君も恐れなくていい。」
クロエは小さく頷いた。
「陛下。貴方がいれば、私はもう何も怖くありません。」
「その言葉こそ、私が生きる力だ。」
二人は窓の外を見上げた。
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まるでその光が“約束”を照らすように温かい。
ノエルはその光の中で言った。
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「どんなことでしょう。」
「どんな時も、笑っていてほしい。たとえ私が離れた先にいても。」
「……はい。でも、できるだけ遠くには行かないでくださいね。」
「約束しよう。」
クロエの笑顔が涙の中で咲いた。
風が吹き抜け、窓辺の花が揺れる。その香りが穏やかに漂う。
「陛下。私の心は、恐れよりも、ずっと貴方の愛で満たされている気がします。」
ノエルは彼女の頭を優しく包み込み、小さく囁いた。
「それを聞けた今、私はどんな闇も踏み越えられる。」
王と王妃ではなく、ひとりの男と女として。
二人の世界は、あの戦場よりも静かで、そして深く広い。
抱きしめ合うその腕の中に、これからの未来が確かに息づいていた。
交わされた言葉は、愛よりも確かな絆の証。
それは、どんな苦難にも折れない誓いとして刻まれていく。
窓の向こうで春の光が一層強くなり、白百合が風に柔らかく揺れた。
それはまるで、彼らの心そのもののように、静かで、揺るぎない強さを宿していた。
続く
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