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第27話 涙の抱擁
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南境の戦いが終わり、王国は再び静寂を取り戻した。
空気の重みが抜け、季節は柔らかな風の香りを取り戻していた。
だが、王城に戻ったノエルの肩には包帯が巻かれ、傷の痛みがまだ色濃く残っている。
彼自身は笑って平然としていたが、クロエの胸には、戦の夜の光景がどうしても消えなかった。
あの赤い血の滴と、冷たい彼の声――「平和のための犠牲」という言葉。
「犠牲なんて、もう聞きたくありません……。」
彼が眠っている部屋の外で、クロエは拳を握りしめていた。
侍医からは「命に別状はない」と言われたけれど、夜になると痛みは増すという。
自分が代わりに傷を負いたかった——そう思わずにはいられなかった。
扉の音。ノエルの側近であるリナードが出てくる。
「陛下は眠られました。包帯の交換も終えましたので、今夜はゆっくりお休みください。」
「ありがとうございます。……でも、少しだけ、様子を見させてくださいませんか。」
「侍女としてではなく、陛下にとって特別な方なのです。誰も止めはしません。」
静かに頷き、クロエは部屋の中へ入った。
蝋燭の明かりが揺れ、月の光が白布の上に落ちている。
ノエルは眠っていた。浅い呼吸。額にわずかな汗。
そっと近づくと、指先が震えるほどに彼の肌が熱を帯びていた。
「痛みますか……? 本当は、もっと休まなければ。」
小さく囁くと、閉じた瞼の奥で何かが動いた。
「……クロエ?」
低い、掠れた声。
目を開けたノエルは驚いたように彼女を見つめる。
「ごめんなさい、陛下。眠っていると思って……。」
「君が来てくれるなら、眠るより嬉しい。」
そう言って、彼は微かに笑う。
その笑顔に安堵しながら、クロエはそっとベッドの傍に座った。
「また無理をなさって……。あの時、私が止められていたら。」
「止められはしないさ。君にも分かっているはずだ。」
「それでも、恐かったんです。貴方を失うのが……。」
彼女の声が震える。
戦場の光景が瞼の裏に蘇る。矢が放たれた瞬間、彼が身を挺して庇ったあの姿。
クロエは唇をかみしめ、握りしめた手を膝に当てた。
「私は……何もできませんでした。ただ見ていることしか。」
すると、ノエルの手がゆっくりと伸び、彼女の指を包んだ。
「君がそばにいたから、私は強くいられた。」
「そんな……私はただ泣いて、震えて……。」
「泣くことが悪いと思うのか? 私は、君の涙を見て生きたいと思った。」
クロエの目が潤む。
「殿下……いえ、陛下。貴方はいつも、私を強くしてくださいます。でも、その分、私は怖いんです。貴方の傷を見て、胸が裂けそうで。」
「傷はいつか癒える。けれど、君のように誰かを想える心は、決して消えない。」
「……ご自分のことばかりではなく、少しは自分を大切にしてください。」
ノエルは静かに笑った。
「君がいれば、自然にそう思える日が来る気がするよ。」
彼の声が弱々しくなる。
クロエは慌てて姿勢を変え、彼の背を支えた。
「寝ていないと駄目です。」
「……君の声が聞きたかった。」
その一言に、クロエの胸の奥が波打つ。
「そんな言葉をまた……一度だけってお約束したはずです。」
「それでも君を愛してしまったんだ。君のいない世界では、王冠も意味を持たない。」
堪えていた涙が溢れた。
彼の頬に落ちた涙が光に反射して揺らめく。
「どうして、そんなこと……。もう私は殿下の侍女ではないのに。」
「侍女だから愛したんじゃない。クロエだから愛した。」
震える手で、クロエはノエルの頬に触れた。
その熱が、彼の痛みの証でもあり、生きている証でもある。
遠い日の記憶が蘇る。婚約破棄で踏みにじられた夜、泣くしかできなかった自分。
けれど今、自分の手で誰かを守りたいと思える。
「私は、ただ貴方のそばにいたいんです。それが許されるなら――何もいりません。」
「何もいらない? 君の誇りや努力を置いてしまっていいのか。」
「それらを手にできたのは、貴方がいたからです。だからもう、失うものはありません。」
ノエルはその言葉に何かを噛み締めるように息を吸い、傷の痛みを押して彼女の手を引き寄せた。
「君を抱きしめてもいいか。」
「……はい。」
その瞬間、彼の腕が彼女を包み込む。
そっと、しかし確かに。
その抱擁は懐かしさと安堵に満ち、互いの心の奥の空白を埋めていく。
クロエは胸に顔をうずめ、ぽつりと呟いた。
「温かい……。生きていてくださって、本当に良かった。」
「君が呼んだから、生き延びたんだ。」
彼の唇が髪を撫で、頬を伝い、額に触れる。
それは慰めでも、儀礼でもなく、静かな感謝の誓い。
「泣かないで。涙は君に似合わない。」
「私は殿下に泣き顔しか見せていません……。」
「それでも美しいよ。」
再び涙が頬を伝う。
だがその涙は、痛みでも悲しみでもなく、ようやく訪れた“安らぎ”の証だった。
クロエは少しだけ顔を上げる。
ノエルの瞳がやさしく光っていた。どんな傷も、人の悪意さえも受け止める穏やかな光。
「いつか……この国が本当に平和になったら、殿下の傷跡も癒えるでしょうか。」
「きっとな。君が傍にいれば。」
「……そんな大役、果たせるでしょうか。」
「君はすでに果たしている。私の心がそれを証明している。」
クロエは頷き、その目に笑みを浮かべた。
「なら、今日だけは私も泣くのをやめておきます。」
「……君がそう決めたのなら、私はそれを王命として受け入れよう。」
「ふふ……何と素直な王でしょう。」
ふたりの間に、静かな笑いがこぼれた。
やがてノエルが再び眠りにつくころには、外では春の雨がしとやかに降り始めていた。
クロエは灯を落とし、彼の隣で小さく祈る。
「どうか、この温もりが消えませんように……。」
頬に残る涙の跡を指でぬぐい、彼の手を握る。
その手のぬくもりが、彼女の心を支えた。
そして彼女は知っていた――この抱擁こそが、彼を守るための力になるのだと。
夜が明ける頃、王城の塔の上には虹が架かっていた。
その虹は、ふたりの未来を静かに祝福しているように見えた。
続く
空気の重みが抜け、季節は柔らかな風の香りを取り戻していた。
だが、王城に戻ったノエルの肩には包帯が巻かれ、傷の痛みがまだ色濃く残っている。
彼自身は笑って平然としていたが、クロエの胸には、戦の夜の光景がどうしても消えなかった。
あの赤い血の滴と、冷たい彼の声――「平和のための犠牲」という言葉。
「犠牲なんて、もう聞きたくありません……。」
彼が眠っている部屋の外で、クロエは拳を握りしめていた。
侍医からは「命に別状はない」と言われたけれど、夜になると痛みは増すという。
自分が代わりに傷を負いたかった——そう思わずにはいられなかった。
扉の音。ノエルの側近であるリナードが出てくる。
「陛下は眠られました。包帯の交換も終えましたので、今夜はゆっくりお休みください。」
「ありがとうございます。……でも、少しだけ、様子を見させてくださいませんか。」
「侍女としてではなく、陛下にとって特別な方なのです。誰も止めはしません。」
静かに頷き、クロエは部屋の中へ入った。
蝋燭の明かりが揺れ、月の光が白布の上に落ちている。
ノエルは眠っていた。浅い呼吸。額にわずかな汗。
そっと近づくと、指先が震えるほどに彼の肌が熱を帯びていた。
「痛みますか……? 本当は、もっと休まなければ。」
小さく囁くと、閉じた瞼の奥で何かが動いた。
「……クロエ?」
低い、掠れた声。
目を開けたノエルは驚いたように彼女を見つめる。
「ごめんなさい、陛下。眠っていると思って……。」
「君が来てくれるなら、眠るより嬉しい。」
そう言って、彼は微かに笑う。
その笑顔に安堵しながら、クロエはそっとベッドの傍に座った。
「また無理をなさって……。あの時、私が止められていたら。」
「止められはしないさ。君にも分かっているはずだ。」
「それでも、恐かったんです。貴方を失うのが……。」
彼女の声が震える。
戦場の光景が瞼の裏に蘇る。矢が放たれた瞬間、彼が身を挺して庇ったあの姿。
クロエは唇をかみしめ、握りしめた手を膝に当てた。
「私は……何もできませんでした。ただ見ていることしか。」
すると、ノエルの手がゆっくりと伸び、彼女の指を包んだ。
「君がそばにいたから、私は強くいられた。」
「そんな……私はただ泣いて、震えて……。」
「泣くことが悪いと思うのか? 私は、君の涙を見て生きたいと思った。」
クロエの目が潤む。
「殿下……いえ、陛下。貴方はいつも、私を強くしてくださいます。でも、その分、私は怖いんです。貴方の傷を見て、胸が裂けそうで。」
「傷はいつか癒える。けれど、君のように誰かを想える心は、決して消えない。」
「……ご自分のことばかりではなく、少しは自分を大切にしてください。」
ノエルは静かに笑った。
「君がいれば、自然にそう思える日が来る気がするよ。」
彼の声が弱々しくなる。
クロエは慌てて姿勢を変え、彼の背を支えた。
「寝ていないと駄目です。」
「……君の声が聞きたかった。」
その一言に、クロエの胸の奥が波打つ。
「そんな言葉をまた……一度だけってお約束したはずです。」
「それでも君を愛してしまったんだ。君のいない世界では、王冠も意味を持たない。」
堪えていた涙が溢れた。
彼の頬に落ちた涙が光に反射して揺らめく。
「どうして、そんなこと……。もう私は殿下の侍女ではないのに。」
「侍女だから愛したんじゃない。クロエだから愛した。」
震える手で、クロエはノエルの頬に触れた。
その熱が、彼の痛みの証でもあり、生きている証でもある。
遠い日の記憶が蘇る。婚約破棄で踏みにじられた夜、泣くしかできなかった自分。
けれど今、自分の手で誰かを守りたいと思える。
「私は、ただ貴方のそばにいたいんです。それが許されるなら――何もいりません。」
「何もいらない? 君の誇りや努力を置いてしまっていいのか。」
「それらを手にできたのは、貴方がいたからです。だからもう、失うものはありません。」
ノエルはその言葉に何かを噛み締めるように息を吸い、傷の痛みを押して彼女の手を引き寄せた。
「君を抱きしめてもいいか。」
「……はい。」
その瞬間、彼の腕が彼女を包み込む。
そっと、しかし確かに。
その抱擁は懐かしさと安堵に満ち、互いの心の奥の空白を埋めていく。
クロエは胸に顔をうずめ、ぽつりと呟いた。
「温かい……。生きていてくださって、本当に良かった。」
「君が呼んだから、生き延びたんだ。」
彼の唇が髪を撫で、頬を伝い、額に触れる。
それは慰めでも、儀礼でもなく、静かな感謝の誓い。
「泣かないで。涙は君に似合わない。」
「私は殿下に泣き顔しか見せていません……。」
「それでも美しいよ。」
再び涙が頬を伝う。
だがその涙は、痛みでも悲しみでもなく、ようやく訪れた“安らぎ”の証だった。
クロエは少しだけ顔を上げる。
ノエルの瞳がやさしく光っていた。どんな傷も、人の悪意さえも受け止める穏やかな光。
「いつか……この国が本当に平和になったら、殿下の傷跡も癒えるでしょうか。」
「きっとな。君が傍にいれば。」
「……そんな大役、果たせるでしょうか。」
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「なら、今日だけは私も泣くのをやめておきます。」
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ふたりの間に、静かな笑いがこぼれた。
やがてノエルが再び眠りにつくころには、外では春の雨がしとやかに降り始めていた。
クロエは灯を落とし、彼の隣で小さく祈る。
「どうか、この温もりが消えませんように……。」
頬に残る涙の跡を指でぬぐい、彼の手を握る。
その手のぬくもりが、彼女の心を支えた。
そして彼女は知っていた――この抱擁こそが、彼を守るための力になるのだと。
夜が明ける頃、王城の塔の上には虹が架かっていた。
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続く
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