氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

sika

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第1話 氷の令嬢と呼ばれる私

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「リディア=グランベル侯爵令嬢。その冷たさは冬の湖にも匹敵すると……また噂になっておりますわ」

 サロンの隅で紅茶を掲げる伯爵令嬢の声が、周囲の笑いとともに私の耳に届いた。  
 まるで氷に閉ざされたように、空気は冷たく、透き通って、そして残酷だった。

 私は紅茶のカップを静かに傾け、ゆるく微笑んだ。こぼれる一滴の紅茶が、皿に波紋を描く。

「それは光栄ね。氷は清らかで、濁りがないもの」

「まあ……!」

 伯爵令嬢たちは、さざ波のような笑い声を上げて退いた。その程度の挑発には慣れている。  
 婚約者である王太子アーヴィン殿下の隣に並んで以来、私は常に注目と嫉妬の的だった。

 けれど、私は彼女たちに反撃するつもりも、同情を求めるつもりもなかった。  
 そんなものを求めても、結局は空虚に終わることを、よく知っていたから。

 

 王太子殿下が私を選んだのは、家柄のため。  
 グランベル侯爵家は代々、財政と外交を担う名家。  
 私は、殿下の未来を安定させるための“駒”でしかない。

 けれど、私はその役割を恥じたことはない。  
 背筋を伸ばし、冷静に、礼節を忘れず。  
 王太子妃としてふさわしい教育を受け、その務めを果たしてきた。

 それが、気に入らなかったのだろう。  
 彼の隣で泣きもせず、追いすがりもせず。  
 感情をあらわにしない“氷”の令嬢は、殿下の自尊心を満たさなかった。

 

「殿下、今宵の舞踏会にはお出ましでしょうか?」

「……ああ、行くつもりだ」

 昼下がりの王城。  
 アーヴィン殿下は私を見ようともしないまま、窓辺に立っていた。

 彼の声は、以前よりも遠く感じる。  
 壁にかけられた金織のカーテンが風に揺れ、光がちらちらと彼の金髪を照らした。  
 昔はその姿を眩しいと思った。だが今は、胸の奥底に深く沈む冷たい湖のような感情しか残っていない。

「リディア。おまえは……少し変わった方がいい」

「変わる、とは?」

「もっと感情を見せるとか、笑顔を……いや、そういう問題ではない。おまえは、人を寄せつけなさすぎるんだ」

「そうでしょうか。私は、王太子妃として恥ずかしくない態度を取っているつもりですが」

「……それだよ、まさにそれだ」

 殿下が苛立たしげに息を吐いた。  
 カーテンの向こう、遠くに王都の尖塔が見える。  
 整った横顔が曇り、柔らかな金の光が翳る。

「最近、エミリアを知っているか?」

「伯爵令嬢のエミリア様のことですか?」

「ああ。彼女といると……心が穏やかになる。笑顔が自然に出てくるんだ。おまえとは違ってね」

 私の喉がかすかに鳴った。  
 驚きではなかった。むしろ、ようやくこの時が来たのだと、静かな諦めが胸を満たす。

「そうですか。殿下がお幸せなら何よりでございます」

「……そうやって、おまえはいつも冷静だ。感情が感じられない。まるで心がないみたいだ」

「心があろうとなかろうと、私は殿下の婚約者として役目を果たすのみです」

 再び沈黙。  
 殿下は苦い顔で私から目をそらした。

 私は知っていた。  
 この人は、私を愛したことなど一度もない。  
 ただ、“理想的な妻”という飾りが欲しかっただけ。

 

 その夜の舞踏会は、美しく、そして残酷だった。

 宮廷の灯が万華鏡のように揺れ、楽団の旋律が響く。  
 私は銀糸を織り込んだ淡青色のドレスで舞踏の輪に立った。  
 笑顔を浮かべる貴婦人たち、ささやく令息たち、そして王太子の隣には――

「ああ……まるで童話のようだわ」

「本当に。王太子殿下と、あの伯爵令嬢……」

 場の視線が一点に集まる。  
 アーヴィン殿下は、眩しいほどに笑っていた。  
 その腕の中にいるのは、淡いピンクのドレスをまとった少女――エミリア・バーネット伯爵令嬢。

 彼女は愛らしく殿下に寄り添い、恥じらいと幸福を滲ませていた。  
 その姿を見た瞬間、人々は理解したのだろう。

 “氷の令嬢の時代は終わった”と。

 私はグラスを口に運び、指先を震わせるまいとする。  
 けれど、胸の奥では確かに何かが軋み始めていた。  
 氷の表面に、ひびが走るような音がする。

 

「リディア=グランベル侯爵令嬢」

 会場の中央で、アーヴィン殿下が私を呼んだ。

 その声が広間に響いた瞬間、音楽が止まり、誰もが息を詰める。  
 エミリア嬢の手を握ったまま、殿下はまっすぐに私を見つめていた。

「お前との婚約を、今日この場で破棄する!」

 誰かのグラスが落ちて、甲高い音を立てた。

 私は――驚きもしなかった。  
 心の奥にあった冷たい湖が、透明な氷のまま静かに波打つのを感じただけ。

「……理由を伺っても、よろしいでしょうか?」

 静かな声。  
 周囲のざわめきが、遠くで海鳴りのように響く。

「おまえは冷酷だ。人の心を理解しようとしない。エミリアのような温かい女性こそ、私の隣にふさわしい」

「つまり、私はふさわしくなかったということですね」

「そうだ。おまえは王妃となる器ではない」

「左様でございますか。ならば、これまでの誤りを正せて何よりです」

「なっ……」

 アーヴィン殿下が言葉を失うのを見て、私は微笑んだ。  
 胸の奥に、ようやく自由の風が吹くのを感じた。

「では殿下。どうか末永く、お幸せに」

 ドレスの裾を持ち上げ、深く一礼する。  
 静寂の中、私は背を向けて歩き出した。  
 周囲の視線が突き刺さる。あざけりも、同情も、驚きもあっただろう。  
 けれど、一度も振り返らなかった。

 氷の令嬢は泣かない。  
 ただ静かに、すべてを受け入れて、立ち去るだけだ。

 

 王城を出て馬車に乗ると、夜風が髪を揺らした。  
 月が高く、冷たく光っている。  
 まるで、今の私を映す鏡のようだった。

「これでよかったのね……」

 ぽつりと呟いた言葉が、夜に溶けて消える。  
 胸の奥は不思議と痛まなかった。  
 ただ、長い chain がほどけていくような軽さだけが残る。

 窓の外には、夜更けの町並み。  
 ふと、広場の片隅に佇む黒ずくめの男性が目に入った。  
 風に揺れるマント、その背筋の伸びた佇まい。  
 不思議と、視線がそちらに吸い寄せられる。

 男がこちらを一瞬だけ見た――灰色の瞳が、月光を掬うように光った。

 その瞬間、胸の奥に、かすかな温もりが灯った。  
 けれど、自分でもまだそれが何なのか、わからなかった。

 

続く
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