氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

hotate

文字の大きさ
2 / 10

第2話 王太子の冷たい瞳

しおりを挟む
翌朝、王城の鐘が六つ鳴った頃、私は静かに目を覚ました。  
昨日の喧騒が夢であればと願ったが、枕元に置かれた淡青の髪飾りが、すべてが現実なのだと告げていた。  
それはアーヴィン殿下から贈られた最初で最後の贈り物。もう身につける意味はない。

侍女のクラリスが部屋に入ってきて、私を見るなり泣きそうな顔をした。  
「お嬢様……本当に、婚約破棄を……?」  
「ええ。殿下の決定よ。これ以上語ることは何もないわ」  
「そんな……あんな公の場で……」  
クラリスは言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。  
私はその肩に手を置き、微笑んだ。  
「いいの。私の誇りは失われていないから」  
「ですが、お嬢様のお立場が……」  
「失ってはいけないものは、名誉ではなく心の静けさよ」  
その言葉を口にしたとき、自分でも驚くほど冷静だった。涙も、怒りも出てこなかった。むしろ、胸の奥にあるのは奇妙な静寂。まるで長い冬の終わりを待つ湖のような静けさだけ。

支度を終えると、王城へ返還すべき物をまとめた。贈り物、装飾品、公式文書、どれも一つずつ正確に封をする。貴族令嬢として最後の務めだ。  
「グランベル侯爵家の名に恥じぬように」と父が常に言っていた。  
その言葉を胸に、私は荷を整え、城下へ向かう馬車を出す準備を命じた。

「リディア!」

扉の向こうから呼ぶ声がした瞬間、嗜虐的な運命が笑ったように感じた。  
聞き慣れた、あの声。王太子アーヴィン殿下。  
クラリスが驚きで息を呑む気配の中、私はゆっくりと彼を迎え入れた。

殿下は昨日と変わらぬ整った姿で立っていた。だがその瞳の奥には、何か焦燥にも似た影があった。  
「どうしてまだ城内にいる。すぐに侯爵家に戻ると思っていた」  
「今しがた荷をまとめたところでございます。すぐに発ちます」  
「……そうか。いや、その……」  
殿下は言葉を濁し、視線を彷徨わせた。珍しい。彼が言葉を選ぶ姿など、過去一度も見たことがなかった。  
「一応、正式な記録のためにも話をしておこうと思ってな」  
私に理由を告げる“義務”を果たすというわけだろう。  
「なんでもお話しくださいませ。ですが、私はすでに承知しております。殿下はエミリア様を選ばれた。それ以上の説明など要りません」  
「いや、そういうことではない!」  
鋭い声が室内を切り裂いた。  
クラリスが身を跳ねさせる。

「リディア、お前は誤解しているかもしれんが、これは政治的にも――」  
「政治的?」  
思わず微笑いがこぼれた。  
氷のように冷たい笑みだったのだろう。彼の眉がぴくりと動いた。  
「政治的名分で、私を公の場で辱めたと?」  
「……そういうつもりでは……だが、王太子として、王国の民に親しまれる妃を選ぶ必要がある。おまえは……少し、距離を置きすぎる」  
「それは殿下が望まれた妃の姿ではなかったのですね」  
「違う。私が望んだのは、共に国を愛し、民を支える温かい心の持ち主だ」  
「それが、あの伯爵令嬢なのですね」  
「エミリアは純粋だ! おまえとは違う!」  

殿下の声が熱を帯びた。私の胸の奥に小さな痛みが走る。それは恋の余韻ではなく、冷たい現実の刃。  
「純粋さは、美徳でしょう。でもそれを理由に、他人を踏みにじるのは……高貴ではありません」  
「何を……!」  
殿下が眉を吊り上げた。  
私はそっと息を整え、ゆっくりと一礼した。  
「ご安心ください。私から王に上奏いたします。婚約破棄について異議はございませんと」  
「そうか……それでいい」  
その言葉の奥に、わずかな安堵があった。彼は私が泣き崩れることを恐れていたのだ。  
けれど氷の令嬢は泣かない。泣いても誰も救わないと知っている。

殿下が部屋を後にする。ドアが閉まる音が響くたび、胸の奥の何かがひとつずつ剝がれていくようだった。  
窓の向こうでは、灰色の雲がゆっくりと流れていた。  
雪が降りそうだ。

私はクラリスに馬車の準備を命じ、王城を後にした。  
長い白亜の回廊を抜けると、城門の前でひそひそと話す声が耳に入る。  
「やっぱり本当だったのね。あの冷たい令嬢、婚約破棄されたって……」  
「当然よ。殿下に釣り合うとは思えなかったもの」  
「でも見て、あの姿勢。全然取り乱してないわ」  
「……まるで氷像みたい」  
氷像。それでいい。ぬるい感情に浸るより、私にはこの冷たさの方が似合っている。

城を出て馬車に乗ると、雨のような雪が窓を叩いた。  
城下の店々がまだ灯りをともしている。馬車が広場を抜けようとしたとき、ふと視線を感じた。  
昨夜見た、黒い外套の男――。  
彼は変わらぬ姿でそこにいた。今日も、同じ場所で。  
そして、私に気づくと、ゆっくりと頭を下げた。  
誰だろう。  
一瞬、時間が止まったような錯覚に陥る。雪が降る音がやけに鮮明に響いた。

「……お嬢様?」  
「ええ、何でもないわ、クラリス」

だが心の奥では、何かがざわめき始めていた。  
昨日までは感じなかった微かな熱。  
その正体を、私自身まだ知らない。

数日後、王城から正式な通達が届いた。婚約破棄が王家の名で承認されたという書状。  
父であるグランベル侯爵は、書状に目を通し、静かにため息をついた。  
「リディア、お前はよく耐えた。だが、もう王都には長くおられぬ。少し離れた別邸で静養しなさい」  
「はい。父上のご意志に従います」  
「……心配するな。遠くから見守っている者もいる」  
「え?」  
一瞬、父が誰のことを指しているのか問おうとしたが、その瞳の奥に微かな笑みが浮かんだだけで答えはなかった。  
私はそれ以上聞かず、頷いた。

そして出立の日。雪がちらつく朝、私はグランベル家の馬車で王都を離れた。  
車輪が石畳をなでる音がやけに静かで、旅路が永遠に続くように思えた。  
窓の外に薄く霞む街並みの向こうで、あの黒衣の男の姿が一瞬だけ見えたような気がした。  
けれど次の瞬間には、雪の帳の中に溶けていった。

やがて馬車は街を出て、冬の森へと差し掛かる。  
私は深く息を吐き、心の奥に凍りついた何かが解け始めるのを感じた。  
裏切りの痛みも、屈辱も、遠い記憶に変わっていく。  
ただ、目の前の白い世界が、少しだけ優しく見えた。

――あの灰色の瞳が、ほんの少し温かかったから。

続く
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

王子妃教育に疲れたので幼馴染の王子との婚約解消をしました

さこの
恋愛
新年のパーティーで婚約破棄?の話が出る。 王子妃教育にも疲れてきていたので、婚約の解消を望むミレイユ 頑張っていても落第令嬢と呼ばれるのにも疲れた。 ゆるい設定です

結婚十年目の夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。彼は「送り間違えた」というけれど、それはそれで問題なのでは?

ぽんた
恋愛
レミ・マカリスター侯爵夫人は、夫と政略結婚をして十周年。侯爵夫人として、義父母の介護や領地経営その他もろもろを完ぺきにこなしている。そんなある日、王都に住む夫から「結婚契約更新書」なるものが届いた。義弟を通じ、夫を追求するも夫は「送り間違えた。ほんとうは金を送れというメモを送りたかった」という。レミは、心から思った。「それはそれで問題なのでは?」、と。そして、彼女の夫にたいするざまぁがはじまる。 ※ハッピーエンド確約。ざまぁあり。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい

神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。  嘘でしょう。  その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。  そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。 「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」  もう誰かが護ってくれるなんて思わない。  ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。  だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。 「ぜひ辺境へ来て欲しい」  ※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m  総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ  ありがとうございます<(_ _)>

殿下が恋をしたいと言うのでさせてみる事にしました。婚約者候補からは外れますね

さこの
恋愛
恋がしたい。 ウィルフレッド殿下が言った… それではどうぞ、美しい恋をしてください。 婚約者候補から外れるようにと同じく婚約者候補のマドレーヌ様が話をつけてくださりました! 話の視点が回毎に変わることがあります。 緩い設定です。二十話程です。 本編+番外編の別視点

彼女の離縁とその波紋

豆狸
恋愛
夫にとって魅力的なのは、今も昔も恋人のあの女性なのでしょう。こうして私が悩んでいる間もふたりは楽しく笑い合っているのかと思うと、胸にぽっかりと穴が開いたような気持ちになりました。 ※子どもに関するセンシティブな内容があります。

あなたなんて大嫌い

みおな
恋愛
 私の婚約者の侯爵子息は、義妹のことばかり優先して、私はいつも我慢ばかり強いられていました。  そんなある日、彼が幼馴染だと言い張る伯爵令嬢を抱きしめて愛を囁いているのを聞いてしまいます。  そうですか。 私の婚約者は、私以外の人ばかりが大切なのですね。  私はあなたのお財布ではありません。 あなたなんて大嫌い。

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

処理中です...