氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

sika

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第2話 王太子の冷たい瞳

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翌朝、王城の鐘が六つ鳴った頃、私は静かに目を覚ました。  
昨日の喧騒が夢であればと願ったが、枕元に置かれた淡青の髪飾りが、すべてが現実なのだと告げていた。  
それはアーヴィン殿下から贈られた最初で最後の贈り物。もう身につける意味はない。

侍女のクラリスが部屋に入ってきて、私を見るなり泣きそうな顔をした。  
「お嬢様……本当に、婚約破棄を……?」  
「ええ。殿下の決定よ。これ以上語ることは何もないわ」  
「そんな……あんな公の場で……」  
クラリスは言葉を詰まらせ、唇を噛んだ。  
私はその肩に手を置き、微笑んだ。  
「いいの。私の誇りは失われていないから」  
「ですが、お嬢様のお立場が……」  
「失ってはいけないものは、名誉ではなく心の静けさよ」  
その言葉を口にしたとき、自分でも驚くほど冷静だった。涙も、怒りも出てこなかった。むしろ、胸の奥にあるのは奇妙な静寂。まるで長い冬の終わりを待つ湖のような静けさだけ。

支度を終えると、王城へ返還すべき物をまとめた。贈り物、装飾品、公式文書、どれも一つずつ正確に封をする。貴族令嬢として最後の務めだ。  
「グランベル侯爵家の名に恥じぬように」と父が常に言っていた。  
その言葉を胸に、私は荷を整え、城下へ向かう馬車を出す準備を命じた。

「リディア!」

扉の向こうから呼ぶ声がした瞬間、嗜虐的な運命が笑ったように感じた。  
聞き慣れた、あの声。王太子アーヴィン殿下。  
クラリスが驚きで息を呑む気配の中、私はゆっくりと彼を迎え入れた。

殿下は昨日と変わらぬ整った姿で立っていた。だがその瞳の奥には、何か焦燥にも似た影があった。  
「どうしてまだ城内にいる。すぐに侯爵家に戻ると思っていた」  
「今しがた荷をまとめたところでございます。すぐに発ちます」  
「……そうか。いや、その……」  
殿下は言葉を濁し、視線を彷徨わせた。珍しい。彼が言葉を選ぶ姿など、過去一度も見たことがなかった。  
「一応、正式な記録のためにも話をしておこうと思ってな」  
私に理由を告げる“義務”を果たすというわけだろう。  
「なんでもお話しくださいませ。ですが、私はすでに承知しております。殿下はエミリア様を選ばれた。それ以上の説明など要りません」  
「いや、そういうことではない!」  
鋭い声が室内を切り裂いた。  
クラリスが身を跳ねさせる。

「リディア、お前は誤解しているかもしれんが、これは政治的にも――」  
「政治的?」  
思わず微笑いがこぼれた。  
氷のように冷たい笑みだったのだろう。彼の眉がぴくりと動いた。  
「政治的名分で、私を公の場で辱めたと?」  
「……そういうつもりでは……だが、王太子として、王国の民に親しまれる妃を選ぶ必要がある。おまえは……少し、距離を置きすぎる」  
「それは殿下が望まれた妃の姿ではなかったのですね」  
「違う。私が望んだのは、共に国を愛し、民を支える温かい心の持ち主だ」  
「それが、あの伯爵令嬢なのですね」  
「エミリアは純粋だ! おまえとは違う!」  

殿下の声が熱を帯びた。私の胸の奥に小さな痛みが走る。それは恋の余韻ではなく、冷たい現実の刃。  
「純粋さは、美徳でしょう。でもそれを理由に、他人を踏みにじるのは……高貴ではありません」  
「何を……!」  
殿下が眉を吊り上げた。  
私はそっと息を整え、ゆっくりと一礼した。  
「ご安心ください。私から王に上奏いたします。婚約破棄について異議はございませんと」  
「そうか……それでいい」  
その言葉の奥に、わずかな安堵があった。彼は私が泣き崩れることを恐れていたのだ。  
けれど氷の令嬢は泣かない。泣いても誰も救わないと知っている。

殿下が部屋を後にする。ドアが閉まる音が響くたび、胸の奥の何かがひとつずつ剝がれていくようだった。  
窓の向こうでは、灰色の雲がゆっくりと流れていた。  
雪が降りそうだ。

私はクラリスに馬車の準備を命じ、王城を後にした。  
長い白亜の回廊を抜けると、城門の前でひそひそと話す声が耳に入る。  
「やっぱり本当だったのね。あの冷たい令嬢、婚約破棄されたって……」  
「当然よ。殿下に釣り合うとは思えなかったもの」  
「でも見て、あの姿勢。全然取り乱してないわ」  
「……まるで氷像みたい」  
氷像。それでいい。ぬるい感情に浸るより、私にはこの冷たさの方が似合っている。

城を出て馬車に乗ると、雨のような雪が窓を叩いた。  
城下の店々がまだ灯りをともしている。馬車が広場を抜けようとしたとき、ふと視線を感じた。  
昨夜見た、黒い外套の男――。  
彼は変わらぬ姿でそこにいた。今日も、同じ場所で。  
そして、私に気づくと、ゆっくりと頭を下げた。  
誰だろう。  
一瞬、時間が止まったような錯覚に陥る。雪が降る音がやけに鮮明に響いた。

「……お嬢様?」  
「ええ、何でもないわ、クラリス」

だが心の奥では、何かがざわめき始めていた。  
昨日までは感じなかった微かな熱。  
その正体を、私自身まだ知らない。

数日後、王城から正式な通達が届いた。婚約破棄が王家の名で承認されたという書状。  
父であるグランベル侯爵は、書状に目を通し、静かにため息をついた。  
「リディア、お前はよく耐えた。だが、もう王都には長くおられぬ。少し離れた別邸で静養しなさい」  
「はい。父上のご意志に従います」  
「……心配するな。遠くから見守っている者もいる」  
「え?」  
一瞬、父が誰のことを指しているのか問おうとしたが、その瞳の奥に微かな笑みが浮かんだだけで答えはなかった。  
私はそれ以上聞かず、頷いた。

そして出立の日。雪がちらつく朝、私はグランベル家の馬車で王都を離れた。  
車輪が石畳をなでる音がやけに静かで、旅路が永遠に続くように思えた。  
窓の外に薄く霞む街並みの向こうで、あの黒衣の男の姿が一瞬だけ見えたような気がした。  
けれど次の瞬間には、雪の帳の中に溶けていった。

やがて馬車は街を出て、冬の森へと差し掛かる。  
私は深く息を吐き、心の奥に凍りついた何かが解け始めるのを感じた。  
裏切りの痛みも、屈辱も、遠い記憶に変わっていく。  
ただ、目の前の白い世界が、少しだけ優しく見えた。

――あの灰色の瞳が、ほんの少し温かかったから。

続く
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