氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

sika

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第11話 遠き国への旅立ち

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薄曇りの朝、ヴァルディール邸の門前に二台の馬車が並んでいた。  
風はまだ冷たく、春の匂いをほんの少しだけ帯びている。私が起きて支度を整える頃には、屋敷中が慌ただしく動いていた。  
王都から再び正式な呼び出しの使者が来たのだ。今回の書状には、王妃自らの署名が添えられ、言葉こそ丁寧だったが、実態は「出席命令」に近い。  
「またあの城へ行くのですね……」  
クラリスが心配そうに言う。  
「ええ。けれど今度は怯えません。すべて終わらせるために行くのです」  

彼女はそれ以上何も言わなかった。ただ、黙って外套の襟を直し、微かに唇を噛んでいた。  

私が玄関へ向かうと、すでにアレンが立っていた。  
黒衣の肩には淡い灰のマントを掛け、いつものように無駄のない姿勢。  
「朝が、弱いと聞いたが」  
「王都に行くとなれば目も冴えます。貴方こそ、もう少しお休みになってもよかったのに」  
「貴女がこの屋敷を離れるのに、眠っていられるはずがない」  
その静かな言葉が、私の胸を一瞬にして温めた。  

「護衛は十名。馬車は二台。途中で領境を越え、三日後には王都に到着します」  
「まるで戦支度のようですね」  
冗談めかして言うと、彼は苦笑する。  
「貴女は私にとって、守るべき最前線です」  
その言葉に返すことができず、私は視線を逸らした。  

馬車が動き出す。蹄の音が道に響くたびに、心臓が鼓動を揃える。  
旅立ちの空の下、雲は厚く、風はどこか水を含んでいる。まるでこの先に起こる何かを予感しているようだった。  

「リディア」  
馬車の振動の合間に、アレンが声をかける。  
「貴女は、この先どうしたいと思っている?」  
「……それを考えるために、行くのかもしれません。王城で、私が何を失い、何を得たのか――確かめたいのです。」  
「それで、過去を手放せるならいいが」  
「過去は手放せません。でも、抱えたままで歩くことはできます」  
「強くなりましたね」  
「貴方のおかげです」  
そう言うと、彼の顔が少しだけ穏やかに崩れた。  

日が暮れるころ、一行は街道沿いの小さな宿で休むことになった。  
私が部屋に入ると、クラリスが持ち込んでくれた湯気の立つ紅茶の香りが満ちる。  
外では雨が降りはじめていた。屋根を叩く音が心地よく、どこか眠気を誘う。  

そのとき、扉が静かに叩かれた。  
「……アレンです。入ってもいいですか?」  
小さく頷くと、彼は入ってきた。濡れた髪から一筋の雫が首筋を伝って落ちる。それを見るだけで、妙に胸が締め付けられた。  
「部屋は寒くないですか?」  
「大丈夫です。クラリスが厚手の毛布まで持ってきてくれました」  
「そうですか」  
彼は椅子を引いて座り、机上の紅茶に目を留める。  
「貴族の茶器にしては、よく使い込まれていますね」  
「ええ。クラリスが実家のものを持ってきたのです。私の中で“温かさの象徴”なのだとか」  
「彼女の忠誠心は本物ですね。……その忠誠心に、私も少し嫉妬します」  
「嫉妬?」  
意外な一言に、思わず笑ってしまった。  
「公爵様を嫉妬させるほどの侍女がいたとは」  
「いいえ、違います。私が嫉妬しているのは、貴女の過去を共に過ごした人間がいることです」  

微笑は止まった。  
彼の灰の瞳がまっすぐにこちらへ注がれる。  
「私は、貴女を見守ることしかできなかった。出会ったときには、もう心が傷だらけで……」  
「アレン」  
「今さらどうにもならないと分かっていても、過去の貴女に手を差し伸べられなかったことを悔やむ」  
「もう、そんな後悔は要りません」  
私は静かに首を振った。  
「貴方がいたから、今の私がいます。過去を悔いるより、これから笑ってください」  

彼は一瞬、何かを言いかけて止めた。  
代わりに小さく息を吐き、紅茶を口に運んだ。  
「そうですね。……今は貴女の言葉を信じます」  

沈黙が落ちる。  
雨音はさらに強まり、外では雷の気配が漂いはじめていた。  
ふと窓の外を見たとき、何かがよぎった。  
黒い影。  
人の形をして、森の縁からこちらへ向かっている。  

「……アレン、外に誰かいます」  
「誰か、だと?」  
私の声に彼がすぐ立ち上がる。  
窓の外へ目をやると、雨の中に確かに黒い外套の姿がひとつ、宿の裏手へ消えた。  
「護衛に伝えます。リディア、鍵を」  
「はい」  
彼が部屋を出るのと同時に、廊下の奥で金属音が響いた。剣の鞘が壁を打つ音。  

私の胸が早鐘を打つ。  
思わず机に手をつく。  
――まさか、殿下の使いとは。  
いや、それにしても早すぎる。出発してまだ一日だ。  

すぐに扉が開き、アレンが戻ってきた。  
「心配ない。刺客ではないようだ」  
「誰なのです」  
「王太子が放った“使い”だ。王妃の文を追ってきたらしい」  
「使いが? でも、なぜこんな夜に……」  
「一人で現れて、何も言わず倒れた。外傷もなく、身分証の印だけがあった。――毒で自害したようだ」  

ぞっとする。  
静かに息を吸い込んでも、身体の震えが止まらなかった。  
「私が、狙われている?」  
「かもしれません。だから今夜は私の部屋にいてください」  
「いえ、それは……」  
「いいから」  
いつになく強い口調だった。  
「私は護ると誓いました。貴女の安全を軽んじて後悔するなど、二度とご免です」  

私は頷くしかなかった。  

その夜、アレンの部屋に移ると、暖炉の火が明るく灯っていた。  
雨の音が少し遠くに感じる。  
アレンは剣を膝に置き、静かに窓の外を見つめている。  
その横顔が、まるで戦の夜の像のように凛として美しかった。  

「眠ってください」  
「貴方こそ」  
「私は眠れなくとも構いません。貴女が眠れれば、それでいい」  

私は毛布を肩に寄せ、静かにその背に声をかけた。  
「アレン……私、ずっと強いふりをしてきたのかもしれません。」  
「それでいい。強く見せなければ生き残れない」  
「けれど、本当の強さがわからなくなったのです。戦わずにいられることが強さなのか、それとも誰かを信じられることなのか」  
「その答えを探すための旅でしょう。――貴女は、まだ途中です」  

彼の言葉が不思議にしみた。  
心が開きかけ、重たく閉ざしていた蓋がゆるむ。  
「アレン。もし、私が王都でまた拒まれても、貴方は……」  
「私は離れません」  
即座に返ってきたその答えに、胸が熱くなる。  
「それは、誓い?」  
「ええ。命より重いものです」  

外では、雨がいつの間にか雪へと変わっていた。  
白い欠片が風に揺れ、窓の灯りを通してきらめく。  
世界は冷たいのに、この部屋の空気だけが穏やかで、どこか暖かかった。  

私は毛布を握りしめながら目を閉じる。  
この夜を越えた先に、真実が待っている。  
それがどれほど残酷でも、もう逃げることはしない。  

遠くで雷鳴が響いた。  
けれど、怖くはなかった。  
私の中には今、“信じる力”という名の灯火がある。  

続く
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