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第10話 仮初めの救い
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夜の空気は少し甘く、冷たく、そしてやけに澄んでいた。
アレンの求婚の言葉がまだ耳の奥に響いている。
まるで夢の続きのようで、けれど現実だと分かるほどに、胸の奥が温かく痛んでいた。
王都の街並みを離れる馬車の中。
カーテンの隙間から、夜景が流れてゆく。煌びやかな城や屋根、遠ざかる人々の灯り。
そこはかつての世界、私がすべてを投げ出された場所だった。
けれどもう、あの場所が悲しみの象徴ではなくなっていた。
隣にはアレンがいる。
それが、何より確かな救いだった。
「……驚きましたか」
静かな声が闇を破る。
「もちろんです」
そう言うと、アレンは珍しく苦笑した。
「貴女があの場でどれほど毅然としていたか。……あの瞬間に決めたのです。もう後悔はしたくない」
「後悔?」
「一度、私は愛する者を守れなかった。その過ちを、二度と繰り返すまいと思っていた」
初めて聞く言葉だった。
その瞳に浮かんだ影は、戦場で失った何かの記憶だろうか。
私はそっと問う。
「その方は……どなたなのですか」
「昔、民を救うため自ら志願して前線に立った女性です。彼女は王家の命令に従って戦場に出ました。私は護れなかった」
「……それで、貴族でいながら王家と距離を取っているのですね」
「ええ。命令という名のもとに人の心を潰すものを、もう信じない」
彼の声には怒りとも哀しみともつかぬ色が混じっていた。
私は、その痛みをどんな言葉で包むべきか分からず、ただ手を伸ばした。
「アレン」
呼んだだけで、彼の瞳がこちらを見る。
「貴方が過去に傷を負ったからこそ、今の私は守られている。……だから、苦しみを無駄にしないでください」
「無駄、か」
「ええ、誰かを救う力に変えられるなら、それはもう罰ではありません」
少しの沈黙のあと、彼の唇がわずかに緩んだ。
「貴女は不思議な人だ」
「そう言われても、褒め言葉なのかどうか分かりません」
「褒めていますよ。心を閉ざした者に、こうして温かな言葉を投げかけられる人はいない」
その穏やかな表情に、胸の奥にまた波が立った。
だめだ。感情があふれそうになる。
やがて馬車が屋敷に戻る頃には、夜明けが近づいていた。
扉を開けたクラリスが眠たげな目を見開き、駆け寄ってきた。
「お嬢様……無事にお戻りで、よかった……!」
「ただいま、クラリス」
「アレン様、本当にありがとうございます」
「お礼には及びません。少し休ませてください」
それぞれの部屋へ散っていくなか、私は眠る気になれず、灯を点したまま机に着いた。
手元にはアレンが書いた手紙の控えがあった。
王家に正式に婚約の意志を通達したものだと、彼は告げていた。
「まだ答えを出していないのに……」
口に出した瞬間、胸が熱く締め付けられる。
それは拒絶ではなく、きっと恐れ。
誰かを心から信じることの、怖さだった。
窓の外に目をやると、夜明け前の空が淡く染まり始めている。
少し離れた執務室の方から、灯が漏れていた。
あの人も、まだ眠っていないのだ。
私は衝動のままに部屋を出た。
廊下を抜け、静かな扉の前で立ち止まる。
軽くノックをすると、間を置いてアレンの声が聞こえた。
「入ってください」
扉を開けると、机に紙束を広げた彼が顔を上げた。
「眠れないのですか?」
「ええ。……貴方もでしょう?」
「常に眠りは浅い方です。戦場癖というやつですね」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、彼の表情は柔らかかった。
私は歩み寄り、机の端に目をやる。
その上には、私宛ての婚約書草案があった。
丁寧な文字で、私の名前が記されている。
「……これを見てしまえば、後戻りできなくなりますね」
「書類など飾りですよ。大事なのは、私と貴女の意思だ」
「でも、過去の私が決して許されぬ罪を背負っているとしたら?」
「王太子の気まぐれで罰せられたことを罪と呼んではいけない」
「……貴方は、いつもそうやって肯定してくれる」
「誰かが否定し続けてきた分を、少しは埋め合わせたいと思いまして」
私の喉が詰まり、言葉が出なかった。
そっと視線を逸らすと、手元のペンが転がって彼の書類に触れた。
アレンが手を伸ばし、それを拾い上げる。
指先が私の手にかすかに触れた。
触れただけ。それなのに、心の奥で何かが弾ける。
「……リディア」
優しく名前を呼ばれた瞬間、耐え切れず小さく身を震わせた。
「そんなに怯えた顔をしないでください。私は、貴女に泣いてほしくない」
「泣いてなんか……」
言いかけて言葉が途切れた。
自分でも知らぬ間に、頬を涙がつたっていた。
その涙を、アレンの指がそっと拭う。
その指先は静かで、あたたかく、どこまでも優しかった。
「人は涙を見せたときにしか、本当の笑顔になれません」
「そんなの、信じられないわ」
「なら、信じるまでそばにいましょう」
彼の言葉が静かに胸へ降りてくる。
その瞬間、長い間凍えていた心が音を立てて溶け出すのを感じた。
「アレン……私、怖いのです。幸せになるのが」
「分かっています。でも怖くても、一歩ずつでいい。私はどこにも行きません」
「……ありがとう」
それだけ告げると、私は彼の肩に額を預けた。
自分の中にまだ残る弱さを知りながらも、その温もりの中にだけ身を委ねる。
夜明けが近づくにつれ、部屋の外が青く光を含み始めた。
鳥が鳴き、窓の外には淡い朝の色。
アレンが椅子の背に手を置いたまま、静かに言った。
「貴女が笑える日が来たら――そのとき初めて、本当の婚約をしましょう」
「……それは、仮初めの約束ということですね」
「そうです。貴女を縛る契約ではなく、貴女を自由にする誓いです」
私はゆっくりと頷いた。
そして、そのまま静かに目を閉じる。
心の奥に、春の匂いが広がる。
この夜を越えていけるかもしれない。
そう思えたのは、きっと彼の指に宿る優しさに触れたからだ。
続く
アレンの求婚の言葉がまだ耳の奥に響いている。
まるで夢の続きのようで、けれど現実だと分かるほどに、胸の奥が温かく痛んでいた。
王都の街並みを離れる馬車の中。
カーテンの隙間から、夜景が流れてゆく。煌びやかな城や屋根、遠ざかる人々の灯り。
そこはかつての世界、私がすべてを投げ出された場所だった。
けれどもう、あの場所が悲しみの象徴ではなくなっていた。
隣にはアレンがいる。
それが、何より確かな救いだった。
「……驚きましたか」
静かな声が闇を破る。
「もちろんです」
そう言うと、アレンは珍しく苦笑した。
「貴女があの場でどれほど毅然としていたか。……あの瞬間に決めたのです。もう後悔はしたくない」
「後悔?」
「一度、私は愛する者を守れなかった。その過ちを、二度と繰り返すまいと思っていた」
初めて聞く言葉だった。
その瞳に浮かんだ影は、戦場で失った何かの記憶だろうか。
私はそっと問う。
「その方は……どなたなのですか」
「昔、民を救うため自ら志願して前線に立った女性です。彼女は王家の命令に従って戦場に出ました。私は護れなかった」
「……それで、貴族でいながら王家と距離を取っているのですね」
「ええ。命令という名のもとに人の心を潰すものを、もう信じない」
彼の声には怒りとも哀しみともつかぬ色が混じっていた。
私は、その痛みをどんな言葉で包むべきか分からず、ただ手を伸ばした。
「アレン」
呼んだだけで、彼の瞳がこちらを見る。
「貴方が過去に傷を負ったからこそ、今の私は守られている。……だから、苦しみを無駄にしないでください」
「無駄、か」
「ええ、誰かを救う力に変えられるなら、それはもう罰ではありません」
少しの沈黙のあと、彼の唇がわずかに緩んだ。
「貴女は不思議な人だ」
「そう言われても、褒め言葉なのかどうか分かりません」
「褒めていますよ。心を閉ざした者に、こうして温かな言葉を投げかけられる人はいない」
その穏やかな表情に、胸の奥にまた波が立った。
だめだ。感情があふれそうになる。
やがて馬車が屋敷に戻る頃には、夜明けが近づいていた。
扉を開けたクラリスが眠たげな目を見開き、駆け寄ってきた。
「お嬢様……無事にお戻りで、よかった……!」
「ただいま、クラリス」
「アレン様、本当にありがとうございます」
「お礼には及びません。少し休ませてください」
それぞれの部屋へ散っていくなか、私は眠る気になれず、灯を点したまま机に着いた。
手元にはアレンが書いた手紙の控えがあった。
王家に正式に婚約の意志を通達したものだと、彼は告げていた。
「まだ答えを出していないのに……」
口に出した瞬間、胸が熱く締め付けられる。
それは拒絶ではなく、きっと恐れ。
誰かを心から信じることの、怖さだった。
窓の外に目をやると、夜明け前の空が淡く染まり始めている。
少し離れた執務室の方から、灯が漏れていた。
あの人も、まだ眠っていないのだ。
私は衝動のままに部屋を出た。
廊下を抜け、静かな扉の前で立ち止まる。
軽くノックをすると、間を置いてアレンの声が聞こえた。
「入ってください」
扉を開けると、机に紙束を広げた彼が顔を上げた。
「眠れないのですか?」
「ええ。……貴方もでしょう?」
「常に眠りは浅い方です。戦場癖というやつですね」
皮肉めいた言葉とは裏腹に、彼の表情は柔らかかった。
私は歩み寄り、机の端に目をやる。
その上には、私宛ての婚約書草案があった。
丁寧な文字で、私の名前が記されている。
「……これを見てしまえば、後戻りできなくなりますね」
「書類など飾りですよ。大事なのは、私と貴女の意思だ」
「でも、過去の私が決して許されぬ罪を背負っているとしたら?」
「王太子の気まぐれで罰せられたことを罪と呼んではいけない」
「……貴方は、いつもそうやって肯定してくれる」
「誰かが否定し続けてきた分を、少しは埋め合わせたいと思いまして」
私の喉が詰まり、言葉が出なかった。
そっと視線を逸らすと、手元のペンが転がって彼の書類に触れた。
アレンが手を伸ばし、それを拾い上げる。
指先が私の手にかすかに触れた。
触れただけ。それなのに、心の奥で何かが弾ける。
「……リディア」
優しく名前を呼ばれた瞬間、耐え切れず小さく身を震わせた。
「そんなに怯えた顔をしないでください。私は、貴女に泣いてほしくない」
「泣いてなんか……」
言いかけて言葉が途切れた。
自分でも知らぬ間に、頬を涙がつたっていた。
その涙を、アレンの指がそっと拭う。
その指先は静かで、あたたかく、どこまでも優しかった。
「人は涙を見せたときにしか、本当の笑顔になれません」
「そんなの、信じられないわ」
「なら、信じるまでそばにいましょう」
彼の言葉が静かに胸へ降りてくる。
その瞬間、長い間凍えていた心が音を立てて溶け出すのを感じた。
「アレン……私、怖いのです。幸せになるのが」
「分かっています。でも怖くても、一歩ずつでいい。私はどこにも行きません」
「……ありがとう」
それだけ告げると、私は彼の肩に額を預けた。
自分の中にまだ残る弱さを知りながらも、その温もりの中にだけ身を委ねる。
夜明けが近づくにつれ、部屋の外が青く光を含み始めた。
鳥が鳴き、窓の外には淡い朝の色。
アレンが椅子の背に手を置いたまま、静かに言った。
「貴女が笑える日が来たら――そのとき初めて、本当の婚約をしましょう」
「……それは、仮初めの約束ということですね」
「そうです。貴女を縛る契約ではなく、貴女を自由にする誓いです」
私はゆっくりと頷いた。
そして、そのまま静かに目を閉じる。
心の奥に、春の匂いが広がる。
この夜を越えていけるかもしれない。
そう思えたのは、きっと彼の指に宿る優しさに触れたからだ。
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