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第1話 婚約破棄宣言の夜に
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王都の夜会は、いつもより一段と華やかだった。
王太子エリアス殿下が次期妃を正式に発表するという噂が駆け抜け、煌びやかな会場には貴族も令嬢も浮き足立っていた。
しかし、その「発表の相手」が今まさに壇上に立たされている私自身だとは、誰一人として思っていなかったのだろう。
リリアナ・フォン・エルディン。公爵家の一人娘として生まれ、十六の春にエリアス殿下の婚約者に選ばれた。
それは幼い日の夢が叶った瞬間だった。優しく微笑む王子の隣で、誰よりも誇らしく立てる未来を信じていたのに。
「リリアナ・フォン・エルディン。これまで君には多大な尽力をしてもらった」
壇上の中央で、金髪碧眼の殿下が私を見下ろしながら声を響かせる。
その声に、会場のざわめきがぴたりと止まった。
私は微笑を保つ。王太子の隣に立つ者として、どんな時も気品と冷静さを失わないようにと教えられてきた。
けれど胸の奥では、何かが崩れ落ちる音がしていた。
まさかこの場で、殿下が何を言おうとしているのか――もう分かってしまっていたから。
「だが、私は気づいてしまった。真実の愛は、義務や血筋からではない、と」
彼の隣に、一人の少女が立っていた。
琥珀色の髪をゆるく結い上げ、涙を湛えた瞳で殿下を見上げるのは、男爵家の娘クロエ・ベルネスト。
彼女は先月、王城の慈善事業で給仕の手伝いをしていた時に殿下と出会ったという。
「私はクロエ嬢を愛している。よって、彼女を新たな婚約者とすることを宣言する!」
一瞬の静寂。
次に訪れたのは、抑えきれないどよめきだった。
「なんですって?」「男爵家の娘だと?」「ありえない!」
社交界の令婦人たちのざわめきが耳を打つ。
けれど私は、何も言わなかった。何も言えなかった。
殿下がこちらを見る。そこに同情の色など、一片もない。
「リリアナ、これまで君がしてくれたことは感謝している。だが、これからの私は、自分の心に従いたい」
――ああ、そう。
ようやく、分かった。
この人は、私が支えてきた年月も、尽くしてきた想いも、全部“過去のこと”として切り捨てるつもりなのだ。
まるで古びた装飾品を棚の奥にしまうみたいに。
「……殿下のご意志に従います」
私は裾を持ち上げ、丁寧にお辞儀をした。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
「受け入れた?」「泣かないのか?」
ひそひそとした声が流れる中、私は静かに顔を上げた。
「どうかお幸せに、殿下」
にこりと笑ってそう言うと、空気が一層ざわついた。
クロエが一歩前に出て、私に勝ち誇ったような微笑を見せる。
「リリアナ様、殿下を支えてくれてありがとうございました。これからは、私が殿下を癒します」
その声音が、まるで“あなたの役目は終わったのよ”と告げるようだった。
――滑稽ね。
彼女の手元の宝石が、殿下から贈られたという新しい首飾りのように輝いていた。
どうしてそんなもの、羨ましいと思う必要があるだろう?
胸の奥で、冷たい笑いがこぼれた。
私は本当の意味で、彼らから自由になったのだ。
「リリアナ嬢!」
会場を出ようとしたとき、見慣れた顔が駆け寄ってきた。
王立学園時代の友人、マリアナ・フェイン嬢だ。
「殿下、あんまりよ……!あんな公の場で!」
「いいの。マリアナ。これでようやく、終わったの」
私が微笑うと、彼女ははっと息をのんだ。
「終わりじゃないわ、始まりよ。あなたを笑う人たちを見返してあげて」
ああ、マリアナ。
その言葉が、今の私の心にどれほど甘く沁みたことか。
「ええ、そうね。——始まり、なのかもしれないわ」
◆
屋敷に戻ると、父である公爵が既に報告を受けていた。
豪奢な書斎の扉を開けると、彼は眉間に皺を寄せてソファに腰掛けていた。
「リリアナ、聞いたぞ……殿下は王家の顔に泥を塗るつもりか」
「ご心配なく、お父様。私はもう何も求めません」
「だが!」
父の怒気を孕んだ声よりも早く、私は一通の手紙を差し出した。
「これを、お渡ししようと思っていました」
封蝋には、隣国ヴェルディア宰相家の紋章が刻まれている。
「ヴェルディアの……?」
「宰相閣下の息子様からの招聘状です。先日の学術会議で出会い、私の研究に興味を持たれたとか。宰相補佐として招かれています」
父の表情が変わった。
「まさか……あの大国が?だが、娘一人で他国へなど」
「問題ありません。私は婚約破棄された令嬢です。少なくとも、この国での立場はもうないでしょう」
「リリアナ……」
父の声に、少しだけ痛みが走る。
けれど、私はこの場所に留まる気はなかった。
今ここで殿下やクロエの噂にさらされ、同情の目で見られ、裏で笑われる自分を想像しただけで、吐き気がした。
それならば、いっそ遠く離れて生き直す方がいい。
誰も私を知らない場所で、誰にも踏みにじられない未来を掴みたい。
「しばらく静養ということで出立します。きっと、それでいいでしょう?」
そう言うと、父は深く息を吐き、力なくうなずいた。
「……お前の好きにしなさい。いつでも帰ってきていい。それだけは忘れるな」
「ありがとうございます。お父様」
部屋を出た瞬間、背中が震えた。
だがそれは涙の震えではない。
今まで押し殺してきた感情が、ようやく解放されたのだ。
誰かに見えないところで、私は初めて笑った。
——ざまあみろ、殿下。
私を笑い者にした人たち、好きに囁けばいい。
けれど今に知るだろう。
あの日、あなたたちはこの国で最も愚かな選択をしたのだということを。
月明かりの下、旅装束の箱を開き、手紙をもう一度読んだ。
“もし決意が固まったなら、ヴェルディアへ。
貴女の知恵と勇気を、宰相府は必要としている。”
見覚えのない筆跡なのに、妙に胸がざわつく。
そこには署名があった。
ヴェルディア次期宰相補佐——アルヴェン・クロスフォード。
私は静かに立ち上がり、深呼吸した。
新しい風が窓から吹き込んできた。
明日、私はこの国を出る。
もう二度と、過去の誰にも縛られない私として。
続く
王太子エリアス殿下が次期妃を正式に発表するという噂が駆け抜け、煌びやかな会場には貴族も令嬢も浮き足立っていた。
しかし、その「発表の相手」が今まさに壇上に立たされている私自身だとは、誰一人として思っていなかったのだろう。
リリアナ・フォン・エルディン。公爵家の一人娘として生まれ、十六の春にエリアス殿下の婚約者に選ばれた。
それは幼い日の夢が叶った瞬間だった。優しく微笑む王子の隣で、誰よりも誇らしく立てる未来を信じていたのに。
「リリアナ・フォン・エルディン。これまで君には多大な尽力をしてもらった」
壇上の中央で、金髪碧眼の殿下が私を見下ろしながら声を響かせる。
その声に、会場のざわめきがぴたりと止まった。
私は微笑を保つ。王太子の隣に立つ者として、どんな時も気品と冷静さを失わないようにと教えられてきた。
けれど胸の奥では、何かが崩れ落ちる音がしていた。
まさかこの場で、殿下が何を言おうとしているのか――もう分かってしまっていたから。
「だが、私は気づいてしまった。真実の愛は、義務や血筋からではない、と」
彼の隣に、一人の少女が立っていた。
琥珀色の髪をゆるく結い上げ、涙を湛えた瞳で殿下を見上げるのは、男爵家の娘クロエ・ベルネスト。
彼女は先月、王城の慈善事業で給仕の手伝いをしていた時に殿下と出会ったという。
「私はクロエ嬢を愛している。よって、彼女を新たな婚約者とすることを宣言する!」
一瞬の静寂。
次に訪れたのは、抑えきれないどよめきだった。
「なんですって?」「男爵家の娘だと?」「ありえない!」
社交界の令婦人たちのざわめきが耳を打つ。
けれど私は、何も言わなかった。何も言えなかった。
殿下がこちらを見る。そこに同情の色など、一片もない。
「リリアナ、これまで君がしてくれたことは感謝している。だが、これからの私は、自分の心に従いたい」
――ああ、そう。
ようやく、分かった。
この人は、私が支えてきた年月も、尽くしてきた想いも、全部“過去のこと”として切り捨てるつもりなのだ。
まるで古びた装飾品を棚の奥にしまうみたいに。
「……殿下のご意志に従います」
私は裾を持ち上げ、丁寧にお辞儀をした。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
「受け入れた?」「泣かないのか?」
ひそひそとした声が流れる中、私は静かに顔を上げた。
「どうかお幸せに、殿下」
にこりと笑ってそう言うと、空気が一層ざわついた。
クロエが一歩前に出て、私に勝ち誇ったような微笑を見せる。
「リリアナ様、殿下を支えてくれてありがとうございました。これからは、私が殿下を癒します」
その声音が、まるで“あなたの役目は終わったのよ”と告げるようだった。
――滑稽ね。
彼女の手元の宝石が、殿下から贈られたという新しい首飾りのように輝いていた。
どうしてそんなもの、羨ましいと思う必要があるだろう?
胸の奥で、冷たい笑いがこぼれた。
私は本当の意味で、彼らから自由になったのだ。
「リリアナ嬢!」
会場を出ようとしたとき、見慣れた顔が駆け寄ってきた。
王立学園時代の友人、マリアナ・フェイン嬢だ。
「殿下、あんまりよ……!あんな公の場で!」
「いいの。マリアナ。これでようやく、終わったの」
私が微笑うと、彼女ははっと息をのんだ。
「終わりじゃないわ、始まりよ。あなたを笑う人たちを見返してあげて」
ああ、マリアナ。
その言葉が、今の私の心にどれほど甘く沁みたことか。
「ええ、そうね。——始まり、なのかもしれないわ」
◆
屋敷に戻ると、父である公爵が既に報告を受けていた。
豪奢な書斎の扉を開けると、彼は眉間に皺を寄せてソファに腰掛けていた。
「リリアナ、聞いたぞ……殿下は王家の顔に泥を塗るつもりか」
「ご心配なく、お父様。私はもう何も求めません」
「だが!」
父の怒気を孕んだ声よりも早く、私は一通の手紙を差し出した。
「これを、お渡ししようと思っていました」
封蝋には、隣国ヴェルディア宰相家の紋章が刻まれている。
「ヴェルディアの……?」
「宰相閣下の息子様からの招聘状です。先日の学術会議で出会い、私の研究に興味を持たれたとか。宰相補佐として招かれています」
父の表情が変わった。
「まさか……あの大国が?だが、娘一人で他国へなど」
「問題ありません。私は婚約破棄された令嬢です。少なくとも、この国での立場はもうないでしょう」
「リリアナ……」
父の声に、少しだけ痛みが走る。
けれど、私はこの場所に留まる気はなかった。
今ここで殿下やクロエの噂にさらされ、同情の目で見られ、裏で笑われる自分を想像しただけで、吐き気がした。
それならば、いっそ遠く離れて生き直す方がいい。
誰も私を知らない場所で、誰にも踏みにじられない未来を掴みたい。
「しばらく静養ということで出立します。きっと、それでいいでしょう?」
そう言うと、父は深く息を吐き、力なくうなずいた。
「……お前の好きにしなさい。いつでも帰ってきていい。それだけは忘れるな」
「ありがとうございます。お父様」
部屋を出た瞬間、背中が震えた。
だがそれは涙の震えではない。
今まで押し殺してきた感情が、ようやく解放されたのだ。
誰かに見えないところで、私は初めて笑った。
——ざまあみろ、殿下。
私を笑い者にした人たち、好きに囁けばいい。
けれど今に知るだろう。
あの日、あなたたちはこの国で最も愚かな選択をしたのだということを。
月明かりの下、旅装束の箱を開き、手紙をもう一度読んだ。
“もし決意が固まったなら、ヴェルディアへ。
貴女の知恵と勇気を、宰相府は必要としている。”
見覚えのない筆跡なのに、妙に胸がざわつく。
そこには署名があった。
ヴェルディア次期宰相補佐——アルヴェン・クロスフォード。
私は静かに立ち上がり、深呼吸した。
新しい風が窓から吹き込んできた。
明日、私はこの国を出る。
もう二度と、過去の誰にも縛られない私として。
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