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第2話 笑い者になった令嬢
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王都を出発した翌朝、馬車の窓から流れる景色を見ながら、私はようやく現実を実感していた。
王都を遠ざかるほどに、胸の重苦しさは少しずつ薄れていく。切り離されたような安堵と寂しさが入り混じり、心の奥がまだざらついている。
瓦屋根の家々が小さくなっていく。馬車の車輪が石畳を離れ、草原に続く土道へと入った。小鳥の鳴き声が聞こえ、風が頬を撫でる。
ああ、こんなにも静かな朝があるなんて――王都の喧騒の中では考えられなかった。
昨夜のことを思い出す。
婚約破棄宣言の夜から、街じゅうが噂に染まったことは容易に想像できた。
「エリアス殿下が公爵令嬢を切り捨て、男爵令嬢を選んだ」と。
「リリアナ様は冷たく笑って受け入れたらしい」
「涙一つ見せずに去ったそうよ」
誰かが私に同情し、誰かが溜飲を下げ、誰かがこっそり笑っている。
そのすべてを、私はもう王都に残してきた。
「リリアナお嬢様、本当にお一人でよろしいのですか?」
御者台の隣から、年配の女性の声がした。
それは、幼いころから仕えてくれている侍女のセリーヌだ。
彼女だけは、父の制止を振り切って私と共に来ると言い張った。
「ええ、セリーヌ。……でも、あなたを巻き込んでしまって、本当にいいの?」
「何をおっしゃいます。あの王子とやらがどう出ようとも、お嬢様はお嬢様です。私はそのお傍を離れません」
「ふふ……ありがとう、セリーヌ」
心にじんわりと温かさが広がった。
彼女がいなければ、きっと私は今ごろ泣き崩れていたのかもしれない。
けれど同時に、ふと脳裏をよぎるのは皮肉な言葉たちだった。
――公爵令嬢も終わりね。
――王家に見捨てられたら、生きる道なんてないわ。
――新しい令妃様の靴を磨かされるんじゃなくて?
昨夜の夜会、あの場にいた誰かがきっと私の知らないところで笑っている。
そして彼らは思うのだろう――あの高慢なリリアナは、ようやく身の程を知った、と。
でも、それでいい。
勝手に笑えばいい。
私は、もうあの場所に縛られない。
◆
数日後、私たちは国境近くの街ブランに到着した。
ここから乗り換えをし、ヴェルディア国の首都へと向かう予定だった。
広い市街に入ると、活気あふれる市場の喧騒が迎えてくれた。
屋台に並ぶ果物の香り、商人たちの声、それらすべてが王都とは違う温もりを持っていた。
宿を探すために馬車を降りた時、ひときわ大きな声が耳に届いた。
「おい、これ見ろよ!王都で一番の出来事だ!」
男たちの笑い声。彼らの手には、地方の情報紙が握られていた。
「……嫌な予感」
セリーヌが小声でつぶやき、私も吸い寄せられるように覗き込む。
紙面の見出しが目に飛び込んだ。
『王太子、真実の愛を宣言!冷血令嬢を見限る劇的婚約破棄!』
――冷血令嬢。
喉の奥がきゅっと締め付けられる。
さらに目を滑らせると、私の肖像画が勝手に描かれており、「表情ひとつ動かさずに破棄を受け入れた」「王家をも見下ろす高慢な態度」と書かれていた。
殿下とクロエが寄り添う挿絵には「身分差を超えた愛」と称賛の言葉が添えられている。
笑われている。
あの穏やかで静かな夜の微笑みが、彼らにとっては“冷たい”ものにしか見えなかったらしい。
「……まったく、勝手なものね」
私が吐き捨てるように言うと、セリーヌが腕を組んだ。
「王都の連中はみんな、話題が欲しいだけです。すぐに忘れますとも」
「いいえ、忘れなくていいわ」
自分でも驚くほど、声が静かに響いた。
「彼らの記憶に残るのなら、それなりの意味がある。いつかきっと、思い知ることになるから」
――ざまあみなさい。
言葉にこそ出さなかったけれど、脳裏で確かにそう呟いた。
◆
宿の部屋で少し休んでいると、机の上の封筒が目に入った。
ヴェルディア宰相府からの正式文書。
厚い封蝋を慎重にはがし、改めて文面を追った。
“宰相補佐アルヴェン・クロスフォード殿下の推薦により、
リリアナ・フォン・エルディン嬢を客員顧問として迎えることを通達する。
到着次第、首都レーヴェルの宰相府にて面会を行う。”
アルヴェン・クロスフォード――あの日、学術会議で少しだけ言葉を交わした青年だ。
冷静な目をしていた。私が発表していた政策提案に興味を示し、短く「実に理性的だ」と言った。
それだけなのに、何故か記憶に残っている。
“理性的だ”、ね。
王太子が恋に酔い、理性を捨てて破棄を選んだこのタイミングで、その言葉だけが妙に胸を刺す。
「セリーヌ、明日の朝には国境を越えましょう。ヴェルディアで新しい生活を始めるわ」
「承知しました、お嬢様」
窓の外、夕焼けが草原を朱に染めている。
遠くの空には青い稲妻のような光。雷雲が近づいているのだろうか。
あんな嵐が来ようと、私の決意はもう揺るがない。
◆
翌朝、国境検問を無事通過し、私は正式にヴェルディア王国の地へと足を踏み入れた。
国境門を越えた瞬間、目に飛び込んできたのは石造りの高い建物と、整備された街道。
王国の威厳と秩序が感じられた。
「ここがヴェルディア……」
「空気が違いますね。落ち着きがあります」
セリーヌの言葉に頷きつつ、私は胸を張った。
新しい名誉も、称号も、婚約もいらない。
今の私はただ、自分の力で生きていける場所が欲しいのだ。
馬車が再び走り出したとき、不意に背後から視線の気配を感じた。
振り向くと、街角の石柱の陰に、一人の黒ずくめの男が立っていた。
フードを深くかぶり、表情は見えない。だが、その視線だけが妙に鋭い。
(誰……?)
しかし気づけば男の姿は消えていた。
気のせいだったのか。あるいは、誰かが私の動向を見張っているのか。
わずかな不安が胸をよぎる。
けれどその心の奥では、別の感情が芽生えていた。
もし、運命がまだ私を試そうとしているのなら――いいわ。
全部受けて立つ。
この旅の果てに待っているものが何であれ、もう戻る場所はないのだから。
続く
王都を遠ざかるほどに、胸の重苦しさは少しずつ薄れていく。切り離されたような安堵と寂しさが入り混じり、心の奥がまだざらついている。
瓦屋根の家々が小さくなっていく。馬車の車輪が石畳を離れ、草原に続く土道へと入った。小鳥の鳴き声が聞こえ、風が頬を撫でる。
ああ、こんなにも静かな朝があるなんて――王都の喧騒の中では考えられなかった。
昨夜のことを思い出す。
婚約破棄宣言の夜から、街じゅうが噂に染まったことは容易に想像できた。
「エリアス殿下が公爵令嬢を切り捨て、男爵令嬢を選んだ」と。
「リリアナ様は冷たく笑って受け入れたらしい」
「涙一つ見せずに去ったそうよ」
誰かが私に同情し、誰かが溜飲を下げ、誰かがこっそり笑っている。
そのすべてを、私はもう王都に残してきた。
「リリアナお嬢様、本当にお一人でよろしいのですか?」
御者台の隣から、年配の女性の声がした。
それは、幼いころから仕えてくれている侍女のセリーヌだ。
彼女だけは、父の制止を振り切って私と共に来ると言い張った。
「ええ、セリーヌ。……でも、あなたを巻き込んでしまって、本当にいいの?」
「何をおっしゃいます。あの王子とやらがどう出ようとも、お嬢様はお嬢様です。私はそのお傍を離れません」
「ふふ……ありがとう、セリーヌ」
心にじんわりと温かさが広がった。
彼女がいなければ、きっと私は今ごろ泣き崩れていたのかもしれない。
けれど同時に、ふと脳裏をよぎるのは皮肉な言葉たちだった。
――公爵令嬢も終わりね。
――王家に見捨てられたら、生きる道なんてないわ。
――新しい令妃様の靴を磨かされるんじゃなくて?
昨夜の夜会、あの場にいた誰かがきっと私の知らないところで笑っている。
そして彼らは思うのだろう――あの高慢なリリアナは、ようやく身の程を知った、と。
でも、それでいい。
勝手に笑えばいい。
私は、もうあの場所に縛られない。
◆
数日後、私たちは国境近くの街ブランに到着した。
ここから乗り換えをし、ヴェルディア国の首都へと向かう予定だった。
広い市街に入ると、活気あふれる市場の喧騒が迎えてくれた。
屋台に並ぶ果物の香り、商人たちの声、それらすべてが王都とは違う温もりを持っていた。
宿を探すために馬車を降りた時、ひときわ大きな声が耳に届いた。
「おい、これ見ろよ!王都で一番の出来事だ!」
男たちの笑い声。彼らの手には、地方の情報紙が握られていた。
「……嫌な予感」
セリーヌが小声でつぶやき、私も吸い寄せられるように覗き込む。
紙面の見出しが目に飛び込んだ。
『王太子、真実の愛を宣言!冷血令嬢を見限る劇的婚約破棄!』
――冷血令嬢。
喉の奥がきゅっと締め付けられる。
さらに目を滑らせると、私の肖像画が勝手に描かれており、「表情ひとつ動かさずに破棄を受け入れた」「王家をも見下ろす高慢な態度」と書かれていた。
殿下とクロエが寄り添う挿絵には「身分差を超えた愛」と称賛の言葉が添えられている。
笑われている。
あの穏やかで静かな夜の微笑みが、彼らにとっては“冷たい”ものにしか見えなかったらしい。
「……まったく、勝手なものね」
私が吐き捨てるように言うと、セリーヌが腕を組んだ。
「王都の連中はみんな、話題が欲しいだけです。すぐに忘れますとも」
「いいえ、忘れなくていいわ」
自分でも驚くほど、声が静かに響いた。
「彼らの記憶に残るのなら、それなりの意味がある。いつかきっと、思い知ることになるから」
――ざまあみなさい。
言葉にこそ出さなかったけれど、脳裏で確かにそう呟いた。
◆
宿の部屋で少し休んでいると、机の上の封筒が目に入った。
ヴェルディア宰相府からの正式文書。
厚い封蝋を慎重にはがし、改めて文面を追った。
“宰相補佐アルヴェン・クロスフォード殿下の推薦により、
リリアナ・フォン・エルディン嬢を客員顧問として迎えることを通達する。
到着次第、首都レーヴェルの宰相府にて面会を行う。”
アルヴェン・クロスフォード――あの日、学術会議で少しだけ言葉を交わした青年だ。
冷静な目をしていた。私が発表していた政策提案に興味を示し、短く「実に理性的だ」と言った。
それだけなのに、何故か記憶に残っている。
“理性的だ”、ね。
王太子が恋に酔い、理性を捨てて破棄を選んだこのタイミングで、その言葉だけが妙に胸を刺す。
「セリーヌ、明日の朝には国境を越えましょう。ヴェルディアで新しい生活を始めるわ」
「承知しました、お嬢様」
窓の外、夕焼けが草原を朱に染めている。
遠くの空には青い稲妻のような光。雷雲が近づいているのだろうか。
あんな嵐が来ようと、私の決意はもう揺るがない。
◆
翌朝、国境検問を無事通過し、私は正式にヴェルディア王国の地へと足を踏み入れた。
国境門を越えた瞬間、目に飛び込んできたのは石造りの高い建物と、整備された街道。
王国の威厳と秩序が感じられた。
「ここがヴェルディア……」
「空気が違いますね。落ち着きがあります」
セリーヌの言葉に頷きつつ、私は胸を張った。
新しい名誉も、称号も、婚約もいらない。
今の私はただ、自分の力で生きていける場所が欲しいのだ。
馬車が再び走り出したとき、不意に背後から視線の気配を感じた。
振り向くと、街角の石柱の陰に、一人の黒ずくめの男が立っていた。
フードを深くかぶり、表情は見えない。だが、その視線だけが妙に鋭い。
(誰……?)
しかし気づけば男の姿は消えていた。
気のせいだったのか。あるいは、誰かが私の動向を見張っているのか。
わずかな不安が胸をよぎる。
けれどその心の奥では、別の感情が芽生えていた。
もし、運命がまだ私を試そうとしているのなら――いいわ。
全部受けて立つ。
この旅の果てに待っているものが何であれ、もう戻る場所はないのだから。
続く
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