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第三話 承知いたしました
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第三話 承知いたしました
夜が明けても、王城の中はざわめいていた。
昨夜の舞踏会で起きた出来事は、すでに「噂」ではなく「事実」として広がっている。
王太子が婚約破棄を宣言したこと。
その相手が、公爵令嬢ネフェリアであったこと。
そして――彼女が、泣きも騒ぎもせず、それを受け入れたこと。
人々が驚いたのは、婚約破棄そのものではない。
貴族社会において、それは決して珍しい出来事ではなかった。
驚かれたのは、ネフェリアの態度だった。
「まるで、最初から決まっていたかのようでしたわね」 「涙一つ見せなかったそうです」 「冷たい方だと聞いていましたが……あそこまでとは」
回廊の片隅で交わされる囁きは、好奇と戸惑いが入り混じっている。
その中心人物であるネフェリアは、いつもと変わらぬ時間に目を覚まし、身支度を整えていた。
鏡に映る自分の顔を見つめても、そこに変化はない。
目元も、口元も、平静そのもの。
――泣く理由が、見当たらなかった。
彼女は、ゆっくりと息を吐き、今日の予定を頭の中で整理する。
本来であれば、王太子妃候補としての公務が詰まっている時間帯だ。
だが、その肩書きは、すでに失われている。
「……予定を組み直さなければなりませんね」
独り言のように呟き、ネフェリアは執務室へ向かった。
そこには、昨夜まで彼女が使っていた机が、そのまま残されている。
書類の山。
未処理の案件。
引き継ぎを待つ決裁文書。
それらは、婚約破棄が起きたからといって、消えてなくなるものではない。
ネフェリアは席に着き、一枚ずつ書類を確認し始めた。
どの業務が、自分の裁量で処理していたものか。
どこからが、王太子の判断を仰ぐ必要があるのか。
淡々と、冷静に。
感情を挟む余地はなかった。
午前中のうちに、彼女は一つの結論に辿り着く。
――この仕事は、今日で終わりだ。
午後、王太子から呼び出しがかかったのは、予想通りだった。
応接室に入ると、王太子は落ち着かない様子で立っていた。
昨夜の高揚は消え、代わりに苛立ちと戸惑いが浮かんでいる。
「ネフェリア……」
「お呼びでしょうか、殿下」
距離を保った丁寧な声。
それだけで、王太子は違和感を覚えた。
「昨日のことだが……」
「正式な婚約破棄の宣言でございましたね」
ネフェリアは先に言葉を継ぐ。
逃げ道を与えない、事実の確認。
「……ああ。だが、あまりにもあっさりしていたのでな」
「そうでしょうか」
ネフェリアは首を傾げる。
「殿下が選ばれた道です。
わたくしは、それを尊重しただけでございます」
尊重。
その言葉に、王太子は小さく眉を寄せた。
「怒っていないのか?」
「怒る理由が、ございませんので」
即答だった。
王太子は言葉に詰まる。
責められることも、縋られることも覚悟していた。
だが、そこにあったのは、完全な切り離しだった。
「では……今後のことだが」
「はい」
「政務の補佐は、引き続き――」
その言葉を、ネフェリアは静かに遮った。
「申し訳ございません」
その声は柔らかい。
しかし、はっきりとしていた。
「本日をもって、政務補佐としての役目は辞退いたします」
「なっ……!」
王太子は目を見開く。
「待て、それは――」
「婚約者ではない立場で、王太子殿下の政務に深く関わることは、適切ではございません」
理屈は、完璧だった。
反論の余地はない。
「それに」
ネフェリアは続ける。
「昨夜の宣言は、公の場でのものでした。
であれば、線引きもまた、明確であるべきです」
王太子は、言葉を失う。
そこまで考えているとは、思っていなかったのだ。
「必要な引き継ぎ資料は、すでにまとめております。
本日中に提出いたしますので」
「……それで終わり、というわけか」
「はい」
ネフェリアは、迷いなく頷いた。
その瞬間、王太子の胸に、言いようのない不安が芽生えた。
――何か、とても大切なものを手放してしまったのではないか。
だが、その感覚を、彼は振り払う。
選んだのは、自分だ。
愛を優先した。それだけのことだ。
「……分かった」
王太子はそう言い、視線を逸らした。
ネフェリアは一礼し、部屋を出る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
回廊を歩きながら、彼女は胸の内を確かめる。
そこには、やはり何もなかった。
悲嘆も、怒りも、未練も。
ただ一つ――
自分の役割が、確かに終わったという、静かな実感だけがあった。
そして、その静けさこそが、
後に王国を揺るがすことになるなど、
この時点では、誰も気づいていなかった。
夜が明けても、王城の中はざわめいていた。
昨夜の舞踏会で起きた出来事は、すでに「噂」ではなく「事実」として広がっている。
王太子が婚約破棄を宣言したこと。
その相手が、公爵令嬢ネフェリアであったこと。
そして――彼女が、泣きも騒ぎもせず、それを受け入れたこと。
人々が驚いたのは、婚約破棄そのものではない。
貴族社会において、それは決して珍しい出来事ではなかった。
驚かれたのは、ネフェリアの態度だった。
「まるで、最初から決まっていたかのようでしたわね」 「涙一つ見せなかったそうです」 「冷たい方だと聞いていましたが……あそこまでとは」
回廊の片隅で交わされる囁きは、好奇と戸惑いが入り混じっている。
その中心人物であるネフェリアは、いつもと変わらぬ時間に目を覚まし、身支度を整えていた。
鏡に映る自分の顔を見つめても、そこに変化はない。
目元も、口元も、平静そのもの。
――泣く理由が、見当たらなかった。
彼女は、ゆっくりと息を吐き、今日の予定を頭の中で整理する。
本来であれば、王太子妃候補としての公務が詰まっている時間帯だ。
だが、その肩書きは、すでに失われている。
「……予定を組み直さなければなりませんね」
独り言のように呟き、ネフェリアは執務室へ向かった。
そこには、昨夜まで彼女が使っていた机が、そのまま残されている。
書類の山。
未処理の案件。
引き継ぎを待つ決裁文書。
それらは、婚約破棄が起きたからといって、消えてなくなるものではない。
ネフェリアは席に着き、一枚ずつ書類を確認し始めた。
どの業務が、自分の裁量で処理していたものか。
どこからが、王太子の判断を仰ぐ必要があるのか。
淡々と、冷静に。
感情を挟む余地はなかった。
午前中のうちに、彼女は一つの結論に辿り着く。
――この仕事は、今日で終わりだ。
午後、王太子から呼び出しがかかったのは、予想通りだった。
応接室に入ると、王太子は落ち着かない様子で立っていた。
昨夜の高揚は消え、代わりに苛立ちと戸惑いが浮かんでいる。
「ネフェリア……」
「お呼びでしょうか、殿下」
距離を保った丁寧な声。
それだけで、王太子は違和感を覚えた。
「昨日のことだが……」
「正式な婚約破棄の宣言でございましたね」
ネフェリアは先に言葉を継ぐ。
逃げ道を与えない、事実の確認。
「……ああ。だが、あまりにもあっさりしていたのでな」
「そうでしょうか」
ネフェリアは首を傾げる。
「殿下が選ばれた道です。
わたくしは、それを尊重しただけでございます」
尊重。
その言葉に、王太子は小さく眉を寄せた。
「怒っていないのか?」
「怒る理由が、ございませんので」
即答だった。
王太子は言葉に詰まる。
責められることも、縋られることも覚悟していた。
だが、そこにあったのは、完全な切り離しだった。
「では……今後のことだが」
「はい」
「政務の補佐は、引き続き――」
その言葉を、ネフェリアは静かに遮った。
「申し訳ございません」
その声は柔らかい。
しかし、はっきりとしていた。
「本日をもって、政務補佐としての役目は辞退いたします」
「なっ……!」
王太子は目を見開く。
「待て、それは――」
「婚約者ではない立場で、王太子殿下の政務に深く関わることは、適切ではございません」
理屈は、完璧だった。
反論の余地はない。
「それに」
ネフェリアは続ける。
「昨夜の宣言は、公の場でのものでした。
であれば、線引きもまた、明確であるべきです」
王太子は、言葉を失う。
そこまで考えているとは、思っていなかったのだ。
「必要な引き継ぎ資料は、すでにまとめております。
本日中に提出いたしますので」
「……それで終わり、というわけか」
「はい」
ネフェリアは、迷いなく頷いた。
その瞬間、王太子の胸に、言いようのない不安が芽生えた。
――何か、とても大切なものを手放してしまったのではないか。
だが、その感覚を、彼は振り払う。
選んだのは、自分だ。
愛を優先した。それだけのことだ。
「……分かった」
王太子はそう言い、視線を逸らした。
ネフェリアは一礼し、部屋を出る。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
回廊を歩きながら、彼女は胸の内を確かめる。
そこには、やはり何もなかった。
悲嘆も、怒りも、未練も。
ただ一つ――
自分の役割が、確かに終わったという、静かな実感だけがあった。
そして、その静けさこそが、
後に王国を揺るがすことになるなど、
この時点では、誰も気づいていなかった。
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