4 / 40
第四話 引き継ぎ資料
しおりを挟む
第四話 引き継ぎ資料
執務室に差し込む朝の光は、いつもと変わらないはずだった。
けれど、ネフェリアにとって、その光景はすでに「過去」に属するものになっていた。
机の上には、整然と積まれた分厚い書類の束。
王太子政務補佐として扱ってきた、すべての記録だった。
外交交渉の進捗。
各貴族家の力関係を整理した一覧表。
財政の流れと、将来予測。
問題が表面化する前に対処するための、注意事項と優先順位。
――どれも、誰かに見せることを前提にしたものではない。
ネフェリアは、これまで「説明する」という作業を必要としなかった。
なぜなら、彼女の判断は、結果で示されてきたからだ。
だが、今日だけは違う。
これは、引き継ぎだ。
彼女が去ったあとも、王国が最低限は回るようにするための、最後の仕事。
「……ずいぶん、増えましたね」
自分でもそう思うほど、資料は多かった。
いつの間に、ここまで抱え込んでいたのか。
ネフェリアは一冊一冊に目を通し、簡潔な注釈を加えていく。
ここは急を要する。
ここは判断を誤れば外交問題に発展する。
ここは、王太子の感情が入りやすいので注意。
冷静で、淡々とした言葉。
感情の入り込む余地はない。
昼前、侍従を通じて「引き継ぎ資料を提出するように」との連絡が入った。
ネフェリアは頷き、書類をまとめる。
運ばれた先は、王太子の執務室。
そこには、王太子と数名の高官が集まっていた。
「これが……引き継ぎ資料、ですか?」
財務官が、目を丸くする。
「はい。すべて、これまで私が把握していた内容です」
ネフェリアは簡潔に答える。
王太子は、無言で書類を手に取った。
数ページをめくっただけで、眉が寄る。
「……これは、何だ?」
「外交会談の裏で動いている、非公式な交渉の整理です。
公にすると問題になりますので、取り扱いにはご注意ください」
「そんな話、聞いていないぞ」
「お伝えしております。
ただ、詳細は省略しておりましたが」
その場に、気まずい沈黙が落ちる。
高官の一人が、慌てて別の束を手に取った。
「こ、こちらは……財政の予測ですか?」
「はい。現状のまま推移した場合、三年後に表面化する問題点をまとめています」
「三年後……?」
ざわり、と空気が揺れる。
「そんな先のことまで、考えていたのか……」
誰かの呟きが、はっきりと聞こえた。
ネフェリアは、それに反応しなかった。
考えてきたのは、三年後だけではない。五年後も、十年後も。
だが、それを語る必要は、もうない。
「この部分は、特に重要です」
彼女は一箇所を指し示す。
「ここに記した貴族家は、表向きは王太子派ですが、利害次第で容易に離反します。
対応を誤れば、内政不安に繋がります」
「……そんなことまで」
王太子の声には、動揺が滲んでいた。
ネフェリアは、静かに一礼する。
「以上が、すべてです。
これ以降、私が関与することはありません」
「待て」
王太子が、思わず声を上げる。
「本当に……これで終わりなのか」
その問いは、政務の話ではなかった。
だが、ネフェリアは理解した上で、答える。
「はい。
役割が終わった以上、留まる理由はございません」
完璧な線引き。
彼女自身が、誰よりもそれを守っていた。
資料を抱えたまま、高官たちは呆然と立ち尽くしている。
その量と内容が、ようやく意味を持ち始めたのだ。
――これを、一人で?
誰もが、同じ疑問を抱いていた。
ネフェリアは、静かに執務室を後にする。
扉の外に出た瞬間、背後で誰かが深く息を吐く音がした。
それを、彼女は振り返らない。
廊下を歩きながら、ネフェリアは思う。
やるべきことは、すべてやった。
これ以上、王国の未来を案じる義務はない。
――もし、あの人たちが気づくとすれば。
それは、彼女がいなくなったあとだ。
引き継ぎ資料は、あくまで「最低限」。
彼女が日々、無意識のうちに調整していた細かな歯車までは、決して書ききれない。
その事実が、
やがて王国に、静かな混乱をもたらすことになる。
ネフェリアは、王城の窓から見える空を一度だけ見上げ、
何も言わずに、歩みを進めた。
執務室に差し込む朝の光は、いつもと変わらないはずだった。
けれど、ネフェリアにとって、その光景はすでに「過去」に属するものになっていた。
机の上には、整然と積まれた分厚い書類の束。
王太子政務補佐として扱ってきた、すべての記録だった。
外交交渉の進捗。
各貴族家の力関係を整理した一覧表。
財政の流れと、将来予測。
問題が表面化する前に対処するための、注意事項と優先順位。
――どれも、誰かに見せることを前提にしたものではない。
ネフェリアは、これまで「説明する」という作業を必要としなかった。
なぜなら、彼女の判断は、結果で示されてきたからだ。
だが、今日だけは違う。
これは、引き継ぎだ。
彼女が去ったあとも、王国が最低限は回るようにするための、最後の仕事。
「……ずいぶん、増えましたね」
自分でもそう思うほど、資料は多かった。
いつの間に、ここまで抱え込んでいたのか。
ネフェリアは一冊一冊に目を通し、簡潔な注釈を加えていく。
ここは急を要する。
ここは判断を誤れば外交問題に発展する。
ここは、王太子の感情が入りやすいので注意。
冷静で、淡々とした言葉。
感情の入り込む余地はない。
昼前、侍従を通じて「引き継ぎ資料を提出するように」との連絡が入った。
ネフェリアは頷き、書類をまとめる。
運ばれた先は、王太子の執務室。
そこには、王太子と数名の高官が集まっていた。
「これが……引き継ぎ資料、ですか?」
財務官が、目を丸くする。
「はい。すべて、これまで私が把握していた内容です」
ネフェリアは簡潔に答える。
王太子は、無言で書類を手に取った。
数ページをめくっただけで、眉が寄る。
「……これは、何だ?」
「外交会談の裏で動いている、非公式な交渉の整理です。
公にすると問題になりますので、取り扱いにはご注意ください」
「そんな話、聞いていないぞ」
「お伝えしております。
ただ、詳細は省略しておりましたが」
その場に、気まずい沈黙が落ちる。
高官の一人が、慌てて別の束を手に取った。
「こ、こちらは……財政の予測ですか?」
「はい。現状のまま推移した場合、三年後に表面化する問題点をまとめています」
「三年後……?」
ざわり、と空気が揺れる。
「そんな先のことまで、考えていたのか……」
誰かの呟きが、はっきりと聞こえた。
ネフェリアは、それに反応しなかった。
考えてきたのは、三年後だけではない。五年後も、十年後も。
だが、それを語る必要は、もうない。
「この部分は、特に重要です」
彼女は一箇所を指し示す。
「ここに記した貴族家は、表向きは王太子派ですが、利害次第で容易に離反します。
対応を誤れば、内政不安に繋がります」
「……そんなことまで」
王太子の声には、動揺が滲んでいた。
ネフェリアは、静かに一礼する。
「以上が、すべてです。
これ以降、私が関与することはありません」
「待て」
王太子が、思わず声を上げる。
「本当に……これで終わりなのか」
その問いは、政務の話ではなかった。
だが、ネフェリアは理解した上で、答える。
「はい。
役割が終わった以上、留まる理由はございません」
完璧な線引き。
彼女自身が、誰よりもそれを守っていた。
資料を抱えたまま、高官たちは呆然と立ち尽くしている。
その量と内容が、ようやく意味を持ち始めたのだ。
――これを、一人で?
誰もが、同じ疑問を抱いていた。
ネフェリアは、静かに執務室を後にする。
扉の外に出た瞬間、背後で誰かが深く息を吐く音がした。
それを、彼女は振り返らない。
廊下を歩きながら、ネフェリアは思う。
やるべきことは、すべてやった。
これ以上、王国の未来を案じる義務はない。
――もし、あの人たちが気づくとすれば。
それは、彼女がいなくなったあとだ。
引き継ぎ資料は、あくまで「最低限」。
彼女が日々、無意識のうちに調整していた細かな歯車までは、決して書ききれない。
その事実が、
やがて王国に、静かな混乱をもたらすことになる。
ネフェリアは、王城の窓から見える空を一度だけ見上げ、
何も言わずに、歩みを進めた。
0
あなたにおすすめの小説
白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません
鍛高譚
恋愛
公爵令嬢ルチアーナは、王太子アルベルトとの政略結婚を命じられた。だが彼にはすでに愛する女性がいた。そこでルチアーナは、夫婦の義務を果たさない“白い結婚”を提案し、お互いに干渉しない関係を築くことに成功する。
「夫婦としての役目を求めないでくださいませ。その代わり、わたくしも自由にさせていただきますわ」
そうして始まった王太子妃としての優雅な生活。社交界では完璧な妃を演じつつ、裏では趣味の読書やお茶会を存分に楽しみ、面倒ごととは距離を置くつもりだった。
——だが、夫は次第にルチアーナを気にし始める。
「最近、おまえが気になるんだ」
「もっと夫婦としての時間を持たないか?」
今さらそんなことを言われても、もう遅いのですわ。
愛人を優先しておいて、後になって本妻に興味を持つなんて、そんな都合の良い話はお断り。
わたくしは、自由を守るために、今日も紅茶を嗜みながら優雅に過ごしますわ——。
政略結婚から始まる痛快ざまぁ! 夫の後悔なんて知りませんわ
“白い結婚”を謳歌する令嬢の、自由気ままなラブ&ざまぁストーリー!
捨てられた令嬢と、選ばれなかった未来
鍛高譚
恋愛
「君とは釣り合わない。だから、僕は王女殿下を選ぶ」
婚約者アルバート・ロンズデールに冷たく告げられた瞬間、エミリア・ウィンスレットの人生は暗転した。
王都一の名門公爵令嬢として慎ましくも誠実に彼を支えてきたというのに、待っていたのは無慈悲な婚約破棄――しかも相手は王女クラリッサ。
アルバートと王女の華やかな婚約発表の裏で、エミリアは社交界から冷遇され、"捨てられた哀れな令嬢"と嘲笑される日々が始まる。
だが、彼女は決して屈しない。
「ならば、貴方たちが後悔するような未来を作るわ」
そう決意したエミリアは、ある人物から手を差し伸べられる。
――それは、冷静沈着にして王国の正統な後継者、皇太子アレクシス・フォルベルト。
彼は告げる。「私と共に来い。……君の聡明さと誇りが、この国には必要だ」
逆行した悪女は婚約破棄を待ち望む~他の令嬢に夢中だったはずの婚約者の距離感がおかしいのですか!?
魚谷
恋愛
目が覚めると公爵令嬢オリヴィエは学生時代に逆行していた。
彼女は婚約者である王太子カリストに近づく伯爵令嬢ミリエルを妬み、毒殺を図るも失敗。
国外追放の系に処された。
そこで老商人に拾われ、世界中を見て回り、いかにそれまで自分の世界が狭かったのかを痛感する。
新しい人生がこのまま謳歌しようと思いきや、偶然滞在していた某国の動乱に巻き込まれて命を落としてしまう。
しかし次の瞬間、まるで夢から目覚めるように、オリヴィエは5年前──ミリエルの毒殺を図った学生時代まで時を遡っていた。
夢ではないことを確信したオリヴィエはやり直しを決意する。
ミリエルはもちろん、王太子カリストとも距離を取り、静かに生きる。
そして学校を卒業したら大陸中を巡る!
そう胸に誓ったのも束の間、次々と押し寄せる問題に回帰前に習得した知識で対応していたら、
鬼のように恐ろしかったはずの王妃に気に入られ、回帰前はオリヴィエを疎ましく思っていたはずのカリストが少しずつ距離をつめてきて……?
「君を愛している」
一体なにがどうなってるの!?
記憶喪失の婚約者は私を侍女だと思ってる
きまま
恋愛
王家に仕える名門ラングフォード家の令嬢セレナは王太子サフィルと婚約を結んだばかりだった。
穏やかで優しい彼との未来を疑いもしなかった。
——あの日までは。
突如として王都を揺るがした
「王太子サフィル、重傷」の報せ。
駆けつけた医務室でセレナを待っていたのは、彼女を“知らない”婚約者の姿だった。
※本作品は別サイトにて掲載中です
第一王子様が選んだのは、妹ではなく私でした!
睡蓮
恋愛
姉妹であるクレアとミリア、しかしその仲は決していいと言えるものではなかった。妹のミリアはずる賢く、姉のクレアの事を悪者に仕立て上げて自分を可愛く見せる事に必死になっており、二人の両親もまたそんなミリアに味方をし、クレアの事を冷遇していた。そんなある日の事、二人のもとにエバー第一王子からの招待状が届けられる。これは自分に対する好意に違いないと確信したミリアは有頂天になり、それまで以上にクレアの事を攻撃し始める。…しかし、エバー第一王子がその心に決めていたのはミリアではなく、クレアなのだった…!
【完結】ジュリアはバツイチ人生を謳歌する
ariya
恋愛
エレン王国の名門貴族・アグリア伯爵家に嫁いだジュリア・アグリア(旧姓ベルティー)。
夫のアベル・アグリア伯爵は、騎士として王妃の護衛任務に没頭し、結婚翌日からほぼ別居状態。
社交界のパーティーでは妻のエスコートを代理人に任せ、父の葬儀にも顔を出さず、事務的な会話と手紙のやり取りだけの日々が続く。
ジュリアは8年間の冷遇に耐え抜いたが、ある朝の食事中、静かに切り出す。
「私たち、離婚しましょう」
アベルは絶句するが、ジュリアは淡々と不満を告げる。
どれも自分のしでかしたことにアベルは頭を抱える。
彼女はすでに離婚届と慰謝料の用意を済ませ、夫の仕事に理解を示さなかった「有責妻」として後腐れなく別れるつもりだった。
アベルは内心で反発しつつも、ジュリアの決意の固さに渋々サイン。
こうしてジュリア・アグリアは、伯爵夫人としての全てを置き去りにし、バツイチ人生を開始する。
婚約破棄して泥を投げつけた元婚約者が「無能」と笑う中、光り輝く幼なじみの王子に掠め取られました。
ムラサメ
恋愛
「お前のような無能、我が家には不要だ。今すぐ消えろ!」
婚約者・エドワードのために身を粉にして尽くしてきたフィオナは、卒業パーティーの夜、雨の中に放り出される。
泥にまみれ、絶望に沈む彼女の前に現れたのは、かつての幼なじみであり、今や国中から愛される「黄金の王子」シリルだった。
「やっと見つけた。……ねえ、フィオナ。あんなゴミに君を傷つけさせるなんて、僕の落ち度だね」
汚れを厭わずフィオナを抱き上げたシリルは、彼女を自分の屋敷へと連れ帰る。
「自分には価値がない」と思い込むフィオナを、シリルは異常なまでの執着と甘い言葉で、とろけるように溺愛し始めて――。
一方で、フィオナを捨てたエドワードは気づいていなかった。
自分の手柄だと思っていた仕事も、領地の繁栄も、すべてはフィオナの才能によるものだったということに。
ボロボロになっていく元婚約者。美しく着飾られ、シリルの腕の中で幸せに微笑むフィオナ。
「僕の星を捨てた報い、たっぷりと受けてもらうよ?」
圧倒的な光を放つ幼なじみによる、最高に華やかな逆転劇がいま始まる!
公爵令嬢の辿る道
ヤマナ
恋愛
公爵令嬢エリーナ・ラナ・ユースクリフは、迎えた5度目の生に絶望した。
家族にも、付き合いのあるお友達にも、慕っていた使用人にも、思い人にも、誰からも愛されなかったエリーナは罪を犯して投獄されて凍死した。
それから生を繰り返して、その度に自業自得で凄惨な末路を迎え続けたエリーナは、やがて自分を取り巻いていたもの全てからの愛を諦めた。
これは、愛されず、しかし愛を求めて果てた少女の、その先の話。
※暇な時にちょこちょこ書いている程度なので、内容はともかく出来についてはご了承ください。
追記
六十五話以降、タイトルの頭に『※』が付いているお話は、流血表現やグロ表現がございますので、閲覧の際はお気を付けください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる