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第五話 外交文書の空白
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第五話 外交文書の空白
王城の執務棟に、重苦しい沈黙が落ちていた。
正確には、沈黙ではない。人の出入りは多く、足音も、書類をめくる音も絶えない。それでも、空気だけが妙に重い。言葉が慎重になり、視線が宙をさまよい、誰もが「決めること」を避けている。
原因は、一通の外交文書だった。
隣国ルミナス公国から届いた返書。
同盟更新に関する重要な内容であり、期限は三日後に迫っている。
本来であれば、すでに返答案がまとまり、王太子の決裁を待つ段階にあるはずだった。
だが、その文書は今も会議室の中央に置かれたまま、誰の手にも渡っていない。
「……誰が、これをまとめる?」
若い文官が、恐る恐る口を開いた。
「前回は……」 「前回は、ゼクレテァ様が……」
言いかけて、言葉が止まる。
会議室にいる全員が、その名を思い浮かべた。
しかし、誰も続けなかった。
「今は、その役目の者はいない」 「王太子殿下が直接ご覧になるだろう」
そう言ってはみたものの、誰も確信を持っていない。
問題は、返答そのものではなかった。
文面の一語一語が、相手国の誇りと利害にどう影響するか。
どこまで譲り、どこで踏みとどまるか。
その微妙な調整こそが、この文書の核心だった。
「強気に出れば、向こうは軍事演習を口実に圧力をかけてくる」 「だが、譲歩しすぎれば、国内貴族が反発する」
議論は出る。
意見もある。
だが、それを一本の文書に落とし込む者がいない。
以前なら、議論の終盤で必ず、あの声が入った。
「その二案は、併存できます」
そう言って、ゼクレテァは紙に視線を落とし、淡々と続けた。
「表向きの文言は譲歩に見せ、実質的な条件は別紙で固定しましょう。相手国は、体面を重んじます」
その一言で、会議は終わった。
だが、今は違う。
「……では、今日はここまでにするか」
結論を出せないまま、会議は散会した。
残されたのは、机の上の外交文書と、言いようのない不安だけだった。
同じ頃、王太子ユースレスは執務室で不機嫌を隠していなかった。
「なぜ、まだ返書が上がってこない」 「期限が迫っているだろう」
側近は、慎重に言葉を選ぶ。
「現在、文言の調整が難航しておりまして……」 「難航?」
ユースレスは眉を吊り上げた。
「ただの同盟更新だ。何を迷う必要がある」
「しかし殿下、隣国は今回、経済条件に敏感で……」 「だからこそ、こちらが主導権を握るのだ」
彼は、自分の判断に疑いを持っていなかった。
むしろ、これまで自分が国政を担ってきたという自負すらあった。
気づいていない。
その判断の大半が、ゼクレテァによって整えられていたことに。
一方、王城の外れ。
侯爵家の屋敷では、ゼクレテァが静かに書き物をしていた。
王城に提出するための書類ではない。
誰に見せる予定もない、ただの走り書き。
隣国の政治情勢、主要貴族の性格、交渉時の注意点。
長年の経験から自然と書き出されたものだった。
書き終えた後、彼女はそれを見つめ、しばらく考える。
「……不要ですね」
そう呟き、紙を折り畳み、火鉢にくべた。
炎が走り、文字が黒く崩れていく。
彼女は、戻るつもりはなかった。
助言するつもりもない。
自分は、すでに役目を終えた人間だと、理解している。
その夜、王城では小さな事件が起きた。
隣国からの追加使者が到着し、返答の遅れに強い不満を示したのだ。
「貴国は、我々との同盟を軽んじているのか」
応対に出た官僚は、言葉に詰まった。
強く否定すれば火種になる。
曖昧に流せば、さらに不信を招く。
結局、場を取り繕うだけの返答しかできなかった。
使者が去った後、誰かが小さく呟いた。
「……以前なら、こんなことにはならなかった」
否定する声は、なかった。
プリケアリアス王国は、この日、初めて明確な「損失」を被った。
それは戦争でも、反乱でもない。
一通の外交文書が、空白のまま残ったこと。
だが、その空白こそが、国家にとって致命的な前兆であることを、
この時、理解している者は、まだほとんどいなかった。
王城の執務棟に、重苦しい沈黙が落ちていた。
正確には、沈黙ではない。人の出入りは多く、足音も、書類をめくる音も絶えない。それでも、空気だけが妙に重い。言葉が慎重になり、視線が宙をさまよい、誰もが「決めること」を避けている。
原因は、一通の外交文書だった。
隣国ルミナス公国から届いた返書。
同盟更新に関する重要な内容であり、期限は三日後に迫っている。
本来であれば、すでに返答案がまとまり、王太子の決裁を待つ段階にあるはずだった。
だが、その文書は今も会議室の中央に置かれたまま、誰の手にも渡っていない。
「……誰が、これをまとめる?」
若い文官が、恐る恐る口を開いた。
「前回は……」 「前回は、ゼクレテァ様が……」
言いかけて、言葉が止まる。
会議室にいる全員が、その名を思い浮かべた。
しかし、誰も続けなかった。
「今は、その役目の者はいない」 「王太子殿下が直接ご覧になるだろう」
そう言ってはみたものの、誰も確信を持っていない。
問題は、返答そのものではなかった。
文面の一語一語が、相手国の誇りと利害にどう影響するか。
どこまで譲り、どこで踏みとどまるか。
その微妙な調整こそが、この文書の核心だった。
「強気に出れば、向こうは軍事演習を口実に圧力をかけてくる」 「だが、譲歩しすぎれば、国内貴族が反発する」
議論は出る。
意見もある。
だが、それを一本の文書に落とし込む者がいない。
以前なら、議論の終盤で必ず、あの声が入った。
「その二案は、併存できます」
そう言って、ゼクレテァは紙に視線を落とし、淡々と続けた。
「表向きの文言は譲歩に見せ、実質的な条件は別紙で固定しましょう。相手国は、体面を重んじます」
その一言で、会議は終わった。
だが、今は違う。
「……では、今日はここまでにするか」
結論を出せないまま、会議は散会した。
残されたのは、机の上の外交文書と、言いようのない不安だけだった。
同じ頃、王太子ユースレスは執務室で不機嫌を隠していなかった。
「なぜ、まだ返書が上がってこない」 「期限が迫っているだろう」
側近は、慎重に言葉を選ぶ。
「現在、文言の調整が難航しておりまして……」 「難航?」
ユースレスは眉を吊り上げた。
「ただの同盟更新だ。何を迷う必要がある」
「しかし殿下、隣国は今回、経済条件に敏感で……」 「だからこそ、こちらが主導権を握るのだ」
彼は、自分の判断に疑いを持っていなかった。
むしろ、これまで自分が国政を担ってきたという自負すらあった。
気づいていない。
その判断の大半が、ゼクレテァによって整えられていたことに。
一方、王城の外れ。
侯爵家の屋敷では、ゼクレテァが静かに書き物をしていた。
王城に提出するための書類ではない。
誰に見せる予定もない、ただの走り書き。
隣国の政治情勢、主要貴族の性格、交渉時の注意点。
長年の経験から自然と書き出されたものだった。
書き終えた後、彼女はそれを見つめ、しばらく考える。
「……不要ですね」
そう呟き、紙を折り畳み、火鉢にくべた。
炎が走り、文字が黒く崩れていく。
彼女は、戻るつもりはなかった。
助言するつもりもない。
自分は、すでに役目を終えた人間だと、理解している。
その夜、王城では小さな事件が起きた。
隣国からの追加使者が到着し、返答の遅れに強い不満を示したのだ。
「貴国は、我々との同盟を軽んじているのか」
応対に出た官僚は、言葉に詰まった。
強く否定すれば火種になる。
曖昧に流せば、さらに不信を招く。
結局、場を取り繕うだけの返答しかできなかった。
使者が去った後、誰かが小さく呟いた。
「……以前なら、こんなことにはならなかった」
否定する声は、なかった。
プリケアリアス王国は、この日、初めて明確な「損失」を被った。
それは戦争でも、反乱でもない。
一通の外交文書が、空白のまま残ったこと。
だが、その空白こそが、国家にとって致命的な前兆であることを、
この時、理解している者は、まだほとんどいなかった。
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