婚約破棄されたので、戻らない選択をしました

ふわふわ

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第1話 婚約破棄という解放

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第1話 婚約破棄という解放

 王宮の大広間は、いつもよりも華やいでいた。天井から下がる無数の燭台が、磨き上げられた床に金色の光を落とし、貴族たちの衣装は宝石のようにきらめいている。音楽隊の奏でる優雅な旋律に合わせ、笑い声と囁きが渦を巻く――その中心に、ミディア・バイエルンは立っていた。

 今夜は祝宴。名目は王太子アルトゥールの功績を称える場であり、同時に、彼の婚約者であるミディアを公式に披露する意味も含まれている。少なくとも、ミディアはそう理解していた。いや、正確には「そうであるはずだ」と思い込もうとしていた、が正しい。

 淡い銀色のドレスは、彼女の落ち着いた佇まいによく似合っている。派手さはないが、細部にまで計算された仕立ては、見る者に確かな品格を感じさせた。多くの視線が集まっていることは分かっていたが、ミディアは背筋を伸ばし、いつも通りに微笑んでいた。

 ――この場所で、私は役目を果たす。

 それが、バイエルン家の娘として、そして王太子の婚約者として与えられた務めだった。感情を表に出さず、誰よりも冷静に、誰よりも正しく。そう教えられて育った。

 やがて音楽が止み、ざわめきが静まる。アルトゥールが一段高い位置に進み出ると、場の空気は一変した。彼は若く、整った容貌を持ち、王太子としての威厳を身に纏っている――はずだった。だが、その表情はどこか昂り、期待と興奮が混じった、落ち着きのないものに見えた。

「皆に、聞いてほしいことがある」

 その一言で、ミディアの胸の奥に、冷たい予感が走る。理由は分からない。ただ、長年培ってきた感覚が、危険を告げていた。

「私は……長い間、迷っていた」

 アルトゥールの視線が、ミディアを一度掠め、そして隣に立つ少女へと移る。白いローブを纏い、清楚な笑みを浮かべる少女――シエナ。自らを“聖女”と名乗り、最近になって王宮に迎えられた存在だ。

「だが、神は答えを示してくださった。真に私が選ぶべき相手は、彼女だ」

 ざわり、と空気が揺れた。囁きが波のように広がり、誰もが耳を疑っている。ミディアは、その場に立ったまま、ただ静かにアルトゥールを見つめていた。

「ゆえに――」

 アルトゥールは一度、深く息を吸い込み、はっきりと告げる。

「ミディア・バイエルンとの婚約を、ここに破棄する」

 言葉は、驚くほど明瞭だった。取り消しようも、言い訳の余地もない。完全な宣告。

 会場は凍りついた。誰かが息を呑む音が聞こえ、誰かが言葉を失ったまま立ち尽くしている。シエナは、わずかに俯きながらも、口元に勝利の色を滲ませていた。

 ――そう。

 ミディアは、その一瞬で理解した。これは衝動ではない。彼は、この場を選び、この言葉を用意し、私を切り捨てると決めていたのだ。

 胸の奥で、何かが静かに外れる感覚がした。悲しみでも怒りでもない。ただ、張り詰めていた糸が、ふっと緩むような、不思議な解放感。

 ミディアは一歩前に出た。ドレスの裾が、かすかに音を立てて床を滑る。すべての視線が、彼女に集まる。

「……承知いたしました」

 その声は、驚くほど穏やかだった。泣き崩れることも、抗議することもない。アルトゥールは一瞬、言葉を失ったように瞬きをした。

「王太子殿下のご決断、尊重いたします」

 形式通りの言葉。しかし、その裏に媚びはない。ミディアは、深く一礼した。

「これまで賜りましたご厚情に、感謝を。ですが、これにて私の役目は終わりです」

 ざわめきが、さらに大きくなる。想定外だったのだろう。アルトゥールは、ミディアが取り乱し、縋りついてくるとでも思っていたのかもしれない。

「……それだけ、か?」

 思わず漏れたようなその言葉に、ミディアは静かに顔を上げた。

「はい。それだけです」

 視線が、初めて真正面からぶつかる。そこにあったのは、失意でも怒りでもなく、ただ澄んだ決意だった。

「では、失礼いたします」

 そう告げると、ミディアは踵を返した。背後で誰かが呼び止める声がした気もしたが、振り返らない。今さら何を言われても、答えは同じだ。

 大広間を出ると、夜の冷たい空気が頬を撫でた。王宮の灯りが遠ざかり、胸いっぱいに深呼吸をする。

 ――終わった。

 王太子妃としての未来も、檻のような役割も。長年、当たり前だと思ってきた道が、今、音を立てて閉じられた。

 だが、ミディアの心は不思議と静かだった。

 失ったのではない。捨てられたのでもない。

 ――解放されたのだ。

 この瞬間から、ミディア・バイエルンの人生は、誰かの“都合”ではなく、彼女自身の選択で進み始める。そのことを、まだ誰も知らない。

 夜空に浮かぶ月を見上げながら、ミディアは小さく息を吐いた。

「……さようなら、王宮」

 その声は、過去に向けた別れであり、同時に、新しい未来への静かな宣言だった。
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