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第2話 泣かなかった令嬢
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第2話 泣かなかった令嬢
王宮の回廊は、夜の静寂に包まれていた。
先ほどまで響いていた音楽も、ざわめきも、まるで嘘だったかのように遠い。
ミディア・バイエルンは、足音を立てないように歩いていたわけではない。ただ、長年身につけた所作が、自然とそうさせているだけだ。背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、視線は前へ。――泣き顔を見せるわけにはいかなかった。
「……ミディア様」
控えめにかけられた声に、ミディアは足を止めた。振り返ると、王宮付きの年若い侍女が、戸惑いと不安を浮かべた表情で立っている。
「ご用ですか?」
穏やかな声だった。自分でも驚くほど、感情が揺れていない。
「その……お加減は……」
侍女はそれ以上、言葉を続けられなかった。婚約破棄という出来事が、どれほどの衝撃かを思えば、軽々しく声をかけていいものではないと分かっているのだろう。
ミディアは小さく微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
本心だった。胸の奥に痛みがないわけではない。だが、それは激しく暴れる感情ではなく、静かに沈んでいく石のようなものだった。
侍女は、かえって困ったような顔をした。泣いてくれた方が、慰める理由ができたのかもしれない。
「……お部屋まで、ご案内いたします」
「いいえ。ひとりで結構です」
ミディアはそう答え、再び歩き出した。背後で、侍女が深く頭を下げる気配がする。
――泣かないことが、そんなに不自然なのだろうか。
回廊の窓から、庭園の灯りが見えた。夜露に濡れた草花が、淡く光を反射している。美しい光景だったが、今のミディアには、どこか別世界のもののように感じられた。
王宮の一室に戻ると、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた空気がほどけた。だが、膝が崩れることも、嗚咽が漏れることもない。ただ、深く息を吐いただけだった。
静まり返った部屋。
ここは、本来なら王太子妃となるはずだった女性の私室。調度品は上質で、誰が見ても不足はない。けれど、そのすべてが「仮」のものだった。自分の意思で選んだものは、ひとつもない。
ミディアは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
――いつからだろう。
アルトゥールを「婚約者」としてしか見なくなったのは。
彼は、確かに王太子だった。責任感もあり、周囲の期待を背負っている自覚もあった。だが同時に、彼は常に「自分が正しい」と信じる人間だった。異なる意見を聞いているようで、実のところ、結論は最初から決まっている。
ミディアは、その隣に立ち続ける役目を与えられてきた。
支える。補佐する。感情を抑え、彼の判断を正当なものとして整える。
――愛情ではない。
それは、義務だった。
ふと、今夜の光景が脳裏に蘇る。
アルトゥールの高揚した声。
シエナの伏し目がちの微笑。
そして、自分に向けられた無数の視線。
あの瞬間、ミディアの中で壊れたものがある。
だが同時に、守られたものもあった。
「……泣け、ですか」
誰もいない部屋で、ミディアは小さく呟いた。
泣けば、同情されただろう。
取り乱せば、「可哀想な令嬢」として扱われただろう。
けれど、それは――彼の選択を、彼の物語を、完成させてしまう行為でもある。
王太子が運命の聖女を選び、元婚約者は傷つき、去っていく。
それは、あまりにも分かりやすい筋書きだ。
ミディアは、その役を演じるつもりはなかった。
机の上に置かれた書類に目を向ける。形式的な通知、礼状、今後の予定。すべてが「王太子妃候補」としてのものだった。
ミディアは、一枚一枚を丁寧に揃え、静かに端へ寄せた。
「……終わりですね」
声は震えていなかった。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「ミディア様。バイエルン公より、使いが参りました」
父からだ。
予想はしていた。今夜の出来事を、彼が知らないはずがない。怒り、憤り、あるいは叱責――どんな言葉が来るのかは分からない。
「……少し待ってください」
ミディアは立ち上がり、身だしなみを整えた。涙の跡がないことを、鏡で確かめる。問題ない。
――私は、泣かない。
それは強がりではない。
今は、泣く必要がないと、心が告げている。
扉を開ける直前、ミディアは一度だけ深呼吸をした。
婚約破棄された令嬢。
そう呼ばれる日々が、これから始まるだろう。
けれど、その言葉に、彼女自身が縛られるつもりはなかった。
静かに、しかし確かに。
ミディア・バイエルンは、自分の足で歩き出そうとしていた。
――それは、まだ誰にも気づかれていない、最初の一歩だった。
王宮の回廊は、夜の静寂に包まれていた。
先ほどまで響いていた音楽も、ざわめきも、まるで嘘だったかのように遠い。
ミディア・バイエルンは、足音を立てないように歩いていたわけではない。ただ、長年身につけた所作が、自然とそうさせているだけだ。背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、視線は前へ。――泣き顔を見せるわけにはいかなかった。
「……ミディア様」
控えめにかけられた声に、ミディアは足を止めた。振り返ると、王宮付きの年若い侍女が、戸惑いと不安を浮かべた表情で立っている。
「ご用ですか?」
穏やかな声だった。自分でも驚くほど、感情が揺れていない。
「その……お加減は……」
侍女はそれ以上、言葉を続けられなかった。婚約破棄という出来事が、どれほどの衝撃かを思えば、軽々しく声をかけていいものではないと分かっているのだろう。
ミディアは小さく微笑んだ。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、大丈夫です」
本心だった。胸の奥に痛みがないわけではない。だが、それは激しく暴れる感情ではなく、静かに沈んでいく石のようなものだった。
侍女は、かえって困ったような顔をした。泣いてくれた方が、慰める理由ができたのかもしれない。
「……お部屋まで、ご案内いたします」
「いいえ。ひとりで結構です」
ミディアはそう答え、再び歩き出した。背後で、侍女が深く頭を下げる気配がする。
――泣かないことが、そんなに不自然なのだろうか。
回廊の窓から、庭園の灯りが見えた。夜露に濡れた草花が、淡く光を反射している。美しい光景だったが、今のミディアには、どこか別世界のもののように感じられた。
王宮の一室に戻ると、扉を閉めた瞬間、張り詰めていた空気がほどけた。だが、膝が崩れることも、嗚咽が漏れることもない。ただ、深く息を吐いただけだった。
静まり返った部屋。
ここは、本来なら王太子妃となるはずだった女性の私室。調度品は上質で、誰が見ても不足はない。けれど、そのすべてが「仮」のものだった。自分の意思で選んだものは、ひとつもない。
ミディアは、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
――いつからだろう。
アルトゥールを「婚約者」としてしか見なくなったのは。
彼は、確かに王太子だった。責任感もあり、周囲の期待を背負っている自覚もあった。だが同時に、彼は常に「自分が正しい」と信じる人間だった。異なる意見を聞いているようで、実のところ、結論は最初から決まっている。
ミディアは、その隣に立ち続ける役目を与えられてきた。
支える。補佐する。感情を抑え、彼の判断を正当なものとして整える。
――愛情ではない。
それは、義務だった。
ふと、今夜の光景が脳裏に蘇る。
アルトゥールの高揚した声。
シエナの伏し目がちの微笑。
そして、自分に向けられた無数の視線。
あの瞬間、ミディアの中で壊れたものがある。
だが同時に、守られたものもあった。
「……泣け、ですか」
誰もいない部屋で、ミディアは小さく呟いた。
泣けば、同情されただろう。
取り乱せば、「可哀想な令嬢」として扱われただろう。
けれど、それは――彼の選択を、彼の物語を、完成させてしまう行為でもある。
王太子が運命の聖女を選び、元婚約者は傷つき、去っていく。
それは、あまりにも分かりやすい筋書きだ。
ミディアは、その役を演じるつもりはなかった。
机の上に置かれた書類に目を向ける。形式的な通知、礼状、今後の予定。すべてが「王太子妃候補」としてのものだった。
ミディアは、一枚一枚を丁寧に揃え、静かに端へ寄せた。
「……終わりですね」
声は震えていなかった。
そのとき、扉が軽く叩かれた。
「ミディア様。バイエルン公より、使いが参りました」
父からだ。
予想はしていた。今夜の出来事を、彼が知らないはずがない。怒り、憤り、あるいは叱責――どんな言葉が来るのかは分からない。
「……少し待ってください」
ミディアは立ち上がり、身だしなみを整えた。涙の跡がないことを、鏡で確かめる。問題ない。
――私は、泣かない。
それは強がりではない。
今は、泣く必要がないと、心が告げている。
扉を開ける直前、ミディアは一度だけ深呼吸をした。
婚約破棄された令嬢。
そう呼ばれる日々が、これから始まるだろう。
けれど、その言葉に、彼女自身が縛られるつもりはなかった。
静かに、しかし確かに。
ミディア・バイエルンは、自分の足で歩き出そうとしていた。
――それは、まだ誰にも気づかれていない、最初の一歩だった。
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